見出し画像

ちょきな俺達


先日、友達と電話した際に人をじゃんけんの手で例えると誰がどれという話をした。

ぐー。ちょき。ぱー。
字面にしてみればちょきがセンターだが、僕の主観ではぐーとぱーの二強感がある。
何故なら幼い頃から「ぐっとぱーで分かれましょう」なんて言ってチームを決めてきたからだ(※地域性)。なんでぐーとぱーでチームを決めるんだ。ちょきだけはぐれ者みたいじゃないか。

でも、やっぱりヒエラルキーで言えばグーとパーの二強だと思うのだ。
僕は小学生の頃から友達と野球をするにしてもサッカーをするにしてもぐっとぱーをする側ではなかったからより強くそう感じるのかもしれない。

まずそれぞれの特徴を考えてみた。

ぐーっぽい人。ガタイが良さそう。意思が固そう。喧嘩強そう。

ぱーっぽい人。包み込んでくれそう。柔軟そう。バランスが取れそう。

ちょきっぽい人がこれと言って浮かばない。浮かばないという事は中途半端という事なのか?
この議論を繰り広げる僕達の中では、ぐーにもぱーにと該当しない人が消去法でちょきとなった。
こんな話をしている僕達は、お察しの通りみんなちょきっぽいという結論に至った。

次にドラえもんのキャラクターに置き換えて考えてみた。

いわずもがなジャイアンはぐー。スネ夫は輪郭的にもちょき。じゃあのび太は消去法でぱー...?なんだか腑に落ちなかった。
ただ僕達の中でぱーが1番主人公感があった。ぐータイプの主人公もいるけれど、ぱータイプの主人公の方が今時っぽい。今時っぽい主人公と言いながらのび太を当てはめるのは定義が崩れるから認めたくなかっただけなのかもしれない。

ちょき風情の俺達は所詮スネ夫。

というか人をぐーとかちょきとかぱーとかでカテゴライズしようとしているそんなところがちょき風情たる所以かもしれない。

こうして「俺はじゃんけんで例えるとちょきだから笑」という伝わりづらい自虐をしたところで誰が同情するだろうか。自虐する事で自分というハードルを、価値を下げているだけなんじゃないか。自虐する事で安心しているんじゃないか。「こんなもんか」と思われる前に「こんなもんですよ」と開き直って傷つかないようにしているだけなんじゃないか。
色んなアニメや漫画で散々学んだだろう。自分を下げる物言いは、自分の事を好きでいてくれている人に失礼だって。

そうだろう?

確かに俺は、ちょきかもしれない。
ぐっとぱーで分かれても溢れてしまうタイプの人間かもしれない。

だけど、みんな大事な事を忘れちゃいないかい?

ちょきはな、別名“ピース”とも言う。
平和の象徴。世界共通言語。

ちょきはピースなんだ。

そんなくだらない会話がなんだかんだピースフルだったりするよな。

今日も今日とてPeaceful days

明日はもっと

PEACE & STAY SAFE

木村拓哉でした。


この記事が参加している募集

眠れない夜に

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?