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普通コンプレックス


僕は普通コンプレックスを抱えている。

僕の本名はありきたりな名前だ。
苗字も普通、名前も普通、つまりはフルネームが普通。これまで何度「その名前の人、会ったことある!w」「お前の名前なんて大量にいるからなw」と言われた事か。
あなたが僕と同じ名前の人と会った事あるなんて知った事はないし、何よりあなたに言われなくとも僕の名前がそこら辺にありふれている事は誰より僕が知っている。何よりそれを言われてなんて返すのが正解なのか、さっぱり分からない。初対面の人に言われようものなら愛想笑いをするしかないし、親しい人に言われようとも面白い返しなんて出来ない。
次にこのような事を言われたら手が出てしまいそうなほど僕はこのイジリに憤りを感じているのだ。

この名前でありながら見た目も普通、学力も運動神経も突出して秀でている事のない平凡な普通人間。それはある種恵まれていると言えるのかもしれない。
しかし現実はそう甘くなく、僕は“普通の人生”を歩めていない。

「普通の人生なんてない」「誰もが自分の人生の主役」とそんな風に思っているし、思おうとしているが、多くの人が思い描く“普通の人生”というのは往々に存在しているものだ。

ここでいう、あくまで“僕が思う”世間一般の普通の人生は、義務養育を終え、進学・就職をして、普通に働いて、普通に結婚する。それが“普通の人生”だと思っている。

僕も途中までは順調だった。進学・就職まではスムーズにいった。

ところがどっこい。普通に働く...これが出来なかったのだ。
1社目、2社目共に短期離職。今の職場こそ一年そこそこ続いているがそのうち辞めるだろう。一生続けたいと思えず、ここでキャリアアップするビジョンも見えない。

大学生になって、自分の将来を考えた時、“普通”のサラリーマンになりたいと思った。“普通”に生きるのも難しいとはぼんやり分かっていた。
普通の名前で、勉強運動何においても突出した才能もなく、普通に生きてきた僕だから“普通”になれると思った。だけど、なれなかった。

今、周りの友人が普通に働いていたり、普通に結婚していたりするのを見ると、自分の普通じゃなさに落胆する。僕はこの人達のような普通の幸せを手に出来ないのかもしれない、と。

僕は普通に働いて稼いで家を建てたり車を買ったり、普通に結婚して結婚式をしてパートナーに子供を産んでもらって家庭を築いたり、ごく一般的な普通の幸せな人生を送れるほどの経済力も責任も背負えるのか不安で仕方がない。


普通になれていないにも関わらず、特別になろうとしている人達を下に見ている。
例えば僕だってアーティストに憧れる。誰かの生きがいを生み出せる人に憧れる。だけどその人達のようになるには、普通の人達に冷たい目線を向けられながら恥をかかなければならない時が必ずある。路上で誰にも見向きもされない中で歌ったり、普通に働く友人の裏垢でYouTubeのリンク貼られて悪口書かれたり、“バカにする対象”となる。最初から成功なんてないのだから腫れ物扱いされる時がある。

現在進行形で腫れ物扱いをされている人達を普通に生きている面して全く普通に生きられていない僕は下に見ている。正しくは下に見ているようで羨望の眼差しを向けているのかもしれない。
彼らのように誰の目も気にせず自分のやりたいように、自分のなりたいものを目指せるその姿に憧れているのかもしれない。
普通の幸せを投げ打って夢に向かって恥も汗もかいて特別になろうとしている人達は眩しい。例え憐みの目で見られていようとも、普通にもなれず特別を目指す勇気すらない僕よりよっぽど素敵だ。

普通の幸せを手にして生きる人、特別を目指して生きる人、僕は“普通という特別”を目指しているのかもしれない。

普通の名前でも名を馳せたいし、
普通になれなくても普通の人に馬鹿にされない生き様で在りたいし、
誰のものでもない僕だけの人生を僕が納得のいくように送りたい。誰にとっての普通でもなく、特別でもなく、僕にとっての“普通という特別”な人生を送らなければならない。


普通である事もコンプレックスだし、
普通でない事もコンプレックスだ。

だからこそ、“僕にとっての普通”を“僕だけの特別”にしていく。
普通である事も僕にとっては特別で、
普通でない事も僕にとっては特別なのだ、と。

周りと比べるな。過去の自分とも比べるな。
未来に落胆するな。

今、この瞬間の自分を肯定し続けるんだ。


ちなみに普通の名前で良かった事は、本名を明かしたところで特定されない事くらいなものである。

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