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助けてください(前編)。

母が美容室を始めたのは私が小学生の頃。
親戚が所有していたアパートの敷地内に鏡台と椅子が一つだけの小さな店が始まりだった。

それまで喫茶店を営んでいた両親は、何らかの理由でそれを辞めた。

父はしばらく休むといい、昔美容師をしていた母は「遊んでなんかいられない!」という思いから、自分ができることでと考えたのがそれだった。

当時店にお客さんがどれほど来ていたかは記憶にないのだけれど、母は手応えを感じたのだろう。

そこより少し大きめの店を始めることを決め、県外から男性の美容師さんを連れてきて彼に店を任せることにした。

都会ではその頃、低料金で沢山お客さんを回すスタイルの美容室が流行っていたようで、そこに目をつけた母は知り合いに紹介してもらい人材を確保、それを取り入れた店づくりを試みたのだ。

その目論見が当たった。

店は想像以上の忙しさをみせ、その頃から父が経営を司る社長、母が現場を仕切る部長として組織化されていった。

家では喧嘩の絶えない夫婦だったけれど、仕事のパートナーとしては相性がよかったようで、店舗をひとつづつ着実に増やし、多いときでは5~6店舗を経営するまでに成長していた。

そんな時代が数十年続いたものの、時代とともに繁栄の時は去り、結局3店舗を残した状態で父と母の時代は終わりを迎えようとしていた。

そんな時だった。

父から私たち夫婦に声がかかったのは。

大阪で20年近く飲食店を経営していた私たちは、店を続けていく情熱をとうに失っていた。

世はコロナが始まりをみせ客足も減り初めていた。

そんなことも手伝って私たちは、店舗の契約更新のはがきが来たのをタイミングに店を辞める決意をした。

さて次は何をしようか。
少しゆっくりするものいいかもね。

などと話しているところに父から
「地元に戻って美容室の経営を引き継がないか」という打診が入る。

いや、打診なんて優しいものではなく、反強制的な圧が父の言葉にはあった。

その頃母に認知症を疑うような言動が出始め、父は危機感を感じていたのだろう。

現場を把握する母が機能しなくなっては、この先店は立ち行かなくなることを予測したのだ。

時の移り変わりとともに「もう自分たちの時代は終わった」と妹に漏らしていたのを後で聞いた。


私はと言えば当時父との確執もあり、地元の空氣が苦手なのもあって父の言葉に従うなんて到底考えられなかった。

が、オットは違った。

飲食店開店時に資金援助をしてくれた私の両親への恩義にここで報いなくてはという思いが強く、私はオットに説得され地元に戻ることになる。

そこから私は心と身体を病むことに。

店の経営のことで両親や妹夫婦と価値観の違いを目の当たりにし、口論になってばかり。

引き継いだ店の売り上げは下降線をたどっており何をどうしていいのか分からない状態。

店の内情を知るほどに「今までなんでこんなになるまで放置していたんだ」という両親への怒りがつのるオット。

すべてが苦しく、私はついに壊れてしまった。


もうこれ以上はムリだ。

そう判断し私は家族から離れ、オットからも距離を置き、店の経営も抜け、一人逃げるようにして大阪に戻ってきた。

心がザワザワと苦しく、そこから自分と向き合うことを始めた。

セラピーを受け続け、自分を知る学びをしコツコツとやってきた。

あれから3年。

その間家族に会うこともせず、オットとも一定の距離をとり、ようやくホントの自分を取り戻したころ、事件は起きた。

後編へ続く。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

みなさんに本氣のお願いがあります。

後編に記しますので、続きも読んでいただけるとうれしいです。










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