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宮城谷昌光が好きすぎる女が、愛を詰め込んだ読書レビュー。

 中国古代史を中心に、ゆたかな発想力と、徹底した史料考究に裏打ちされた作品を世に送り出して来た宮城谷昌光先生。
 14歳で中国古典を読む楽しさに目覚めて以来、私は宮城谷作品を追い続け、その魅力に魅せられてきた。
 そんな溢れる作品愛を、20歳の時思い立ち、書き綴ったのがこのnoteの内容である。
 文章には20歳なりの衒いや気負いが滲み出ていて、今読み返すと恥ずかしい部分もある。だが、その”青臭さ”も含めてそのまま公開することにした。
 ラインナップは「草原の風」「奇貨居くべし」「孟嘗君」「天空の舟」の4作。以下、少しでも、私の思う宮城谷作品の魅力が伝われば幸いである。


『草原の風』
宮城谷作品はどれを手に取っても面白い。だが氏の白眉というべき作品を挙げろと求められたなら、或いは誰かに、ひとつ選んで推薦して欲しいと乞われたなら…私はベストセラーになった「晏子」でも、直木賞を受賞した「夏姫春秋」でも、超大作「三国志」でもなく、この作品の名を挙げるであろう。 
 「草原の風」。
本作は宮城谷氏が三十年間、書きたいと念じつつも書けなかった男・光武帝劉秀の一代記である。そのためだろうか、私は宮城谷昌光という作家のすべてが、ここに収斂されているように感じられてならない。物語の行間には、齢を重ね、人生の辛苦を知り尽くした人にしか書けない何かが滲み出ていると思えるからだ。
 私が作品に初めて触れたのは中学生のころ。まだ「草原の風」が読売新聞連載の途中だった時分のことだ。艱難辛苦を潜り抜け、無位無官の青年から、玉座へと駆け上がってゆく劉秀の物語は、ただあらすじを追いかけるだけでも十分に愉しかった。だが、恥ずかしながらそのとき私は、この作品の真の魅力に気付かなかった。否、気付けないほど幼かったのだといっていい。
 それは、為政者としての「在り方」だ。
「草原の風」に描かれる劉秀は、「王者」という言葉にもっともふさわしいひとだと思う。
 人民を力で圧して立つ覇者の姿ではない。人民に支えられ、自らが気付かぬうちに、王座へと押し上げられている男…。それがこの作品の劉秀なのである。
 読者は思う。これほど為政者に相応しい、天に選ばれた人間が、果して中華数千年の歴史の中に他にいただろうか、と。馬上に矛を横たえ、戦乱で荒廃した大地を前に、民の暮らしを憂えて詩を詠んだ曹操も、彼の恤民の心にはかなわなかったのではなかろうか。
 「草原の風」を読んで、なぜ劉秀は天下をとれたのか、などという愚問を発する人はいないだろう。劉秀だからこそ、天下を掴めたのである。
 一族のほとんどを喪い、数えきれない死別の哀しみを胸に秘めて生きた劉秀。進退に窮し、飢えと隣合わせの逃避行に耐えた劉秀。「天に試される人間は数百年にただひとりである」と宮城谷氏は作中に記したが、まさしく、天はこの心優しい青年を次代の支配者として選び、あらゆる艱難を授けて王者としての自覚を問い続けたのであろう。そして、凄絶な過去をくぐり抜けたからこそ、玉座に登った劉秀には、他の皇帝には見えないものが見えたのではなかろうか。百姓(ひゃくせい)を草原に生える草と例えるなら、平凡な天子には、玉座から見下ろした草原の様子しか分からない。だが劉秀は、そこに生える草木の一本一本に見える草原の風景が分かる。だから、ほんとうに草木の望んでいる風を起こすことができるのではないだろうか。
 本作の魅力は到底この場所で語り尽せないのだが、後は作品を手に取って感じていただきたい。

『奇貨居くべし』
 故事成語になった表題からも分かる通り、本作は一介の商人から超大国・秦の鼎位にまで駆け上がった男・呂不韋(りょふい)の生涯を辿る物語である。
 物語は、継母のもとで愛されずに育った呂不韋の少年時代に始まる。家業の商売に酷使され、商店の中というちいさな世界で生きてきた呂少年は、思いがけず、父親の計らいで、金の鉱脈を探す旅に行くこととなる。言わば彼は商家の中で「人」だけを視て育ち、金山探しの旅で初めて広大な「天地」と対峙することになる。
 これは、「草原の風」の主役・劉秀とはきわめて対照的な少年時代だろう。劉秀、のちの光武帝は黙々と農事に励み、常に天地を相手にして育ったが、青年期、京師・常安(長安。王莽時代には名称が改められた)に留学してはじめて人と深い交わりを持つ。
 劉秀は乾坤を、そして呂不韋は人というものを知悉していたがゆえに、もう一方に目を移した時、それをすんなりと理解しえたのではなかろうか。
 旅、或いは留学で開眼した二人の主人公の姿には、二十歳の折、海内を遊学し見識を積んだというかの司馬遷の像が重ね合わされる。世人には決して立てない場所まで辿り着く俊傑たちは、多感な若き日の何処かで、自己より遥かに巨大なものと対峙する運命にあるのだろうか。
 さて、宮城谷作品では、脇役たちが主役を凌ぐ輝きを放ち始めることが多々ある。「孟嘗君」の白圭然り、「重耳(ちょうじ)」の称(しょう)(主人公・重耳=晋の文公の祖父)然りである。「奇貨居くべし」もその例に漏れず、呂不韋の周囲の人間たちが読者を魅了し出す。名臣藺相如(完璧の語源・和氏の壁の逸話で知られる)、春申君、孟嘗君…。
何よりも敵役の魏冄(ぎぜん)がいい。この日本人には馴染みの無い文字を名に持つ男は、海内一の大国秦の宰相として登場する。彼の存在の巨きさは、そのまま秦の巨大さを示している。宰相と言っても、秦王は彼の甥であり、国政は彼が動かしているといっても過言ではない。天下の情勢は超大国・秦の動きによって左右されるから、その秦の権柄を握っている魏冄はまさしく天下の“台風の眼”なのである。その地位の重みに相応しく、宮城谷氏の描き出す魏冄は一筋縄ではいかない大物の悪役として暗躍する。「孟嘗君」で田嬰・田文父子の政敵として登場した鄒忌もなかなかに手強い悪役であったが、彼の讒言や庾佞に満ちた策謀にはどこか器の小ささが感じられた。その点、魏冄はやはり人物のスケールが大きい。たとえ暗殺といった陰険な手段を用いる時も、である。
 素直に巧いと思ったのは、子楚、のちの荘襄王が趙姫を見初めた場面の描き方だ。周知のように、趙の都・邯鄲で人質生活を送っていた秦の王子・子楚は宴のさなかに美女と名高い歌姫の美貌に惚れ、彼女を強引に妻に迎える。だがその歌姫すなわち趙姫が呂不韋の女であり、二人の間に生まれた政(始皇帝)の出自に疑惑の眼が向けられていたことは、中国史を学んで知らぬ者はいないだろう。かの司馬遷でさえ、始皇帝は呂不韋の子であったと記して憚らない。宮城谷氏がこの俗説を採るのか、採らないのか。私は始めからそれが気になっていた。俗説通り始皇帝が呂不韋の子だとしてもありきたりだし、かといって否定してしまえば小説としての面白みに欠ける。だが宮城谷氏はこの難問をいともたやすくすり抜けた。子楚のもとへゆきたくない女の気持ちを察して、呂不韋が「この女はわたしの子を孕んでいます」と嘘をつく、という物語を編み出したのだ。まさに歴史通をも唸らせる展開である。
 「奇貨居くべし」のページを繰るにつれ、私はふと疑問が湧いた。巷で語られる呂不韋とは大悪人では無かったか。
打算から秦の王子に近づき、宰相に成り上がった奸臣。自分の女を主君に献じた後も、あろうことか密会を重ね、その事実を覆い隠すべく宦官に偽装させた代わりの男を女にあてがった背逆の徒。そのような見方が一般に流布している。
 だが、物語の中で生き生きと躍動する呂不韋は、正義感に溢れ、度胸もある実にいい男である。巷に溢れる極悪な呂不韋像について、作中、宮城谷氏は一言も触れていない。だが、智勇と徳を併せ持つ呂不韋を描き出すことで、氏は無言のうちに定説に抗し、己が呂不韋観を世に問うている。
 作中には、たびたび呂不韋が編纂した「呂氏春秋」の言が登場する。おそらく宮城谷氏は、「呂氏春秋」を徹底して読み込んだに違いない。そして、彼が書き遺したこの文章から滲み出て来る人格を感じ取り、呂不韋の有徳を確信したのであろう。だからこそ、巷で語られる呂不韋像とはちがう、彼の物語を紡ぐことが出来た。それは、呂不韋という、会ったこともない紀元前の人物への、作家の全幅の信頼である。なんと美しい信頼関係ではないだろうか。

『孟嘗君』
 「孟嘗君」は、私が通読した初めての宮城谷作品である。宮城谷氏の作品群は、日常生活では見慣れない漢語や表現が散りばめられているのが特徴だが、本作はそれらが少なく、群を抜いて読み易い。初めての新聞連載で、「不特定多数の読者」への「わかりやすさ」を心掛けたためだと筆者は言う。なるほど時代の説明もいつになく丁寧で、物語に入り易い。しかも、その分かり易い文体が、みごとに戦国という解放された時代の雰囲気と、本作のもう一人の主役というべき白圭の自由奔放さを体現している(むしろ主人公たる孟嘗君は戦国という時代を映す鏡のようなものであり、その鏡に白圭ら同時代の異才の姿が映し出される、というのがこの作品の構図ではないだろうか)。
加えて「孟嘗君」では、冷徹な法家公孫鞅(商鞅)や縦横家の蘇秦と張儀、戦術の鬼才孫臏とその宿命のライバル・龐涓ら、戦国時代の大物たちが、次々と物語に絡んでくる。中国古典好きにはたまらない。
特にマキャヴェリストというべき公孫鞅と、熱血漢の白圭とに、義理の家族になるという深い関わりを持たせたのは面白い。まったく異なった光彩を放つ二人の男が巡り合い、己の信念は曲げぬものの、互いを認め合う。対照的であるがゆえに、ふたつの才能は却って際立って読者の目を引く。
何より私は「孟嘗君」に描かれる公孫鞅が好きである。その怜悧な頭脳ゆえか、彼の佇まいは私に鋭利な一本の剣を思わせる。少々偏屈で、滅多に感情を露わにしない男なのだが、彼は辺境の弱小国だった秦を、わずか一代で中華屈指の強国に押し上げた逸材である。作中、彼は胸中に秘めた考えを白圭に問われ、
「農戦」
と一言だけ返答する。「商君書」にも記されている、農業と戦争の二つを軸に富国強兵を実現する、という彼独特の思想を端的に表現した言葉である。多くを語らず、それでいて物事の本質を鋭く射通す彼を、よく表した場面だと言えるだろう。
作者は公孫鞅や白圭、孫臏らを「戦国という時代が生んだ天才」と評しているが、まさしくその通りではなかろうか。周という権威が揺らぎ、旧来の秩序という縛りから解放された戦国時代半ばだからこそ、数多の逸材がその花を開かせたのであろう。
戦国という時代。それは人間が“神”の呪縛から解き放たれた時間だともいえる。なるほど他の宮城谷作品で頻繁に登場してきた「占い」は「孟嘗君」には滅多に姿を現さない。在るのは人と人との対話であり、権謀術数であり、また時に情熱的な恋愛である。「孟嘗君」の世界観は極めて現代的な雰囲気に包まれ、読み手はしばし、これが紀元前の昔の物語だという事実を忘れ去る。一方で冒頭に挙げた「草原の風」は戦国時代より遥かに時代の下った1世紀前半が舞台であるが、むしろ“予言”“易”“神の導き”といった神秘的なものが物語を支配している。こう書くと、時代が新しいのになぜ、と不思議に思われる方もいるだろう。
劉秀が生きた時代―-前漢王朝が滅び、王莽によって新が建てられ、漢が再興されるまで―-という十数年余りはきわめて復古的な時代であった。改革者を自称した王莽が、遥かいにしえの周の時代を理想とし、周礼を基にした反動的な政治を行ったからである。私見だが、「草原の風」の纏う古代的な神秘性は、この歴史的事実と無縁ではないだろう。
その点、戦国時代とは個人が個人として能力を発揮できた中国史上でも稀有な時代だったといえるのではなかろうか。「孟嘗君」は、その魅力を存分に堪能できる秀作である。

『天空の舟 ~小説・伊尹伝~』 ※後半は個人的な解釈です。
 本作は、はじめて世に出た宮城谷作品であり、作家・宮城谷昌光の原点ともいうべき著作である。
 主人公は史上初の武力による王朝交代―-すなわち放伐を行った商王・湯を支えた稀有の名宰相・伊尹(もっとも、民意を失った天子は武力で倒してよいという天命思想は後の周代に作られた概念であり、このときには存在しない)。不世出の補佐役と言われながらも、その生涯は殆ど謎に包まれているこの人物を題材に選んだところに、作家の非凡さを見て取るべきであろう。甲骨文字の他に確かな史料がなく、実在さえも疑義を呈されてきた中国初の王朝・夏。多くの日本人にとって未知の領域に果敢に足を踏み入れた宮城谷氏に、私は畏敬にも似た念さえ覚える。
 清く正しい商の君主・湯(とう)が暴虐非道の王・桀を打倒して新しい王朝を開いた。それが、青史に記されて、語り継がれてきた夏から商への王朝交代の物語である。
 しかし“聖王”湯は、はじめ、反逆者として「天空の舟」の舞台に姿を現す。遺恨を理由に隣国を奇襲して攻め滅ぼし、天下の非難を浴びるのである。更に彼は、“暴君”とされる桀と同様、民草を酷使して大規模な土木工事を開始する。桀が悪名高き夏台を造営する一方、湯は新都の建設を急がせる。今なお暴政を行ったと言われる桀と、英主として名高い湯が同じような政を行っていたという描写に、読者は驚きを禁じ得ないだろう。
また、湯は南方の諸民族を圧倒的軍事力で屈服させ、彼らの信仰を巧みに利用することで自分に従わせていく。
武力による支配の拡大……。そこには、民に支えられて立つ王者の面影は微塵もない。湯のありようは、民を押さえつけてその上に立つ覇者に過ぎない。孟子が理想化した易姓革命の内幕はこんなものであったのか。湯は覇道を布いた一介の君主であったのか。ならば、天が彼に天下を“取らせた”のではなく、天下が幸運にも覇者の手中に転がり込んできたにすぎないのか。ならば、なぜ同じ覇者に過ぎぬ桀は天下を喪ったのか。ページを繰るうちに、私は湯が聖君と見なされてきたことに、疑念を強めていった。
 だがそれも、宮城谷氏にとっては計算の内であったのだ。湯の愚行。それは主人公・伊尹の諫言を際立たせるためにあったと言えよう。湯は隠者のように暮らす伊尹を三度訪ない、指南を乞う。一介の庶人のもとに自ら出向いただけでも、彼は夏王桀より上手と見るべきかもしれない。だが湯という人間の真価が現れるのは、草蘆の中で伊尹と相対した後である。伊尹は湯の命じた土木工事で、どれほどの人間が駆り出され苦しんだかを直言する。その時湯は、辛辣な批判をされたにも関わらず、怒気を見せることなく己の行いを顧みた。顧みて、己が間違っていたと認める度量があった。桀と湯。両王の運命を分かつ何かがあったとすれば、それはこの瞬間ではないだろうか。
一方の桀は、伊尹を引見した時、彼の言葉に耳を傾けようとしなかった。後世、聖王と暴君という余りにもかけ離れた世評を得た二人を分けたものは、諫言を受け容れる姿勢、だったのかもしれない。
事実、伊尹を幕下に迎えてからの湯は、一回り巨大な人間となった。夏王桀によって夏台に幽閉され、過酷な監禁生活を強いられた時も、夏との決戦で一度は敗れた時も、彼はよく忍んで時を待った(もっとも、監禁は周の文王にも同様の逸話があり、後世の創作だと私は思う)。
 そして夏を破り、天下の王となった晩年、湯は類まれなる王者として読者の前に迫って来る。それは、雨乞いのくだりである。
 武力を用いて事実上夏を滅ぼした湯。彼の治世は破れた夏王の怨恨につきまとわれ、苦難の一途を辿る。雨が絶え、大旱魃が中華を襲う。
 その時、湯は雨乞いを行った。水や食物を一切断ち、日差しの照り付ける祭壇の上に登り、自らを天に生贄として捧げて祈るのである。むろん、雨が降るまで、幾日でも祈りをやめることは許されない。もし祈りが通じないのであれば、自らの体を炎に投じるほかない。既に老年に差し掛かっていた湯にとってそれは、余りに過酷な務めであったろう。
 文字通り、天下万民のために、湯は命を賭して祭壇に登った。そこには公のために一身を擲って悔いない、理想の為政者の姿がある。覇者であった湯は、幾多の試練を経て、最後に雨乞いの壇に登ることで王者となったのである。
 そして雨は、商の大地に降り注いだ。それは、湯によって王座を奪われた夏王桀の怨念に湯が打ち勝った瞬間でもあるだろう。また、命を捨てた湯の徳が、夏王朝歴代の王が積んで来た徳を凌駕したのだとも言えるかもしれない。
 同時にこの行為は免罪の意味をも内包しているのではなかろうか。それまで誰も行わなかった、武力を以ての王朝交代。いかなる大義名分があろうと、それは “聖王”にとって覆いがたい罪である。
 命を賭けて湯が勝ち得た慈雨は、彼の罪を洗い流した。そして罪の呪縛から解き放たれた時、湯は聖王となったのではなかろうか。                   
 このように、「天空の舟」は処女作でありながらさまざまな思惟の芽を含んでいる。宮城谷作品の真髄を味わうなら、そして小説というレンズを通して中華四千年の歴史を見つめるならば、まずは氏の原点というべきこの作品を手に取ってみてはいかがだろうか。

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