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『平気でうそをつく人たち』:人間の悪の根源は怠惰とナルシシズムにある

先日、友人と雑談してたとき、政治や社会への文句大会になった。コロナ禍での諸問題はもちろん、それ以前からおかしなことばかり蔓延ってるし、世のなか理不尽だらけだ。怒りを感じることはいっぱいある。
しかし、友人が「ああいう輩を叩きつぶしてさえいれば」と言ったとき、「ん?」と違和感を覚えた。政治家の一派を指しての話だが、特定の悪い人間を排除したら素晴らしい世界がやってくるはず、という考え方に幻想を感じたからだ。以前「#安倍辞めろ」ハッシュタグが流行ったときにも思ったけど、そんなの誰かが取って代わるだけで、構造から変えないと意味ないんじゃん(そしてその後の現実は…)。

近年の、誰かを「悪」として攻撃対象と定めたらみなで激しくバッシングする風潮、「正義」を振りかざして際限なく叩く態度が横行しているのは、そうすることで自分自身は「無謬」の立ち位置になれて気持ちいいからかなぁ…何か正しいことをしている気分なのかなぁ…でも自分の責任を振り返らずに他者を追求する心性から「悪」が生まれたりするんじゃないかなぁ…というようなことを考えた(もちろん、何も批判せず黙ってろという意味ではない。自分だってめっちゃ批判してるし)。私たちは「被害者」であることに敏感だけど、いつだって「加害者」にもなり得る。

そして、私がこういうふうに考える元になった本を思い出した。M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』(森 英明訳/草思社)だ。

20代で読んで衝撃を受けた、『平気でうそをつく人たち』

この本を初めて読んだのは新卒のころで、当時ベストセラーになっていたハードカバーを同期から借りたのだ。軽い気持ちで読んだのに、すごい衝撃を受けた。
2011年に文庫版が出たのをきっかけに、自分で購入して再読。
そしてこのたび読み直して3度目だが、相変わらずおもしろくて引き込まれる上、自分の考え方に影響を及ぼして深く根を張っていることを再確認した。この本を若いときに読んでいなかったら、自分はいったいどういう自分になっていただろう…?と思ってしまうくらいだ。

友人との会話で覚えた違和感に対しては、「はじめに」の2ページ目でズバリ、答えが書かれていた。本書でいう“邪悪な人たち”というのは、一般的な“悪”とか“罪悪”とはちょっと違うのだけれども。

 邪悪な人たちを憎むのはやさしいことである。しかし、「罪を憎み、罪びとを愛せ」という聖アウグスティヌスのいましめを思い出していただきたい。ある人が邪悪だと気がついたときには、「神の慈悲がなければまさに自分がそうなっていたかもしれない」ということを思い起こしていただきたい。
 ある種の人間を邪悪だと決めつけることによって私は、必然的に、きわめて危険な価値判断を行っていることになる。主イエス・キリストはこう語っている。「裁くなかれ。なんじ自身が裁かれざらんがために」(中略)「なんじら偽善者は、まず初めに自身の目からはりを取り払え。さすれば、物明らかに見え、なんじの兄弟の目からちりをとり除くも可なり」。ここでイエスが言わんとしたことは、他人を判断するときにはつねに十分な配慮をもって判断しなければならないし、また、そうした配慮は自己批判から出発するものだということである。

これだけだと、単なる宗教的・道徳的な話に見えるかもしれない。しかし、本書を読み進めていくと、“邪悪な人たち”というのは、自分自身の非を見つめることなく、他者に押しつけることで出来上がっていくということが、豊富な実例とともに、スリリングに描かれていくのだ。

身近に存在する“邪悪”な人とは

精神科医である著者は、さまざまな悩みを抱える患者たちに心理療法を施すうち、“邪悪な人たち=平気でうそをつく人たち”の存在を確信していく。
その根拠となるケース一つひとつについて、患者の人となりから相談内容、著者の受け答えや経過まで具体的に詳述されていくのだが、これがすこぶるおもしろい。ストーリー性が高く、ちょっとしたミステリさながらの吸引力がある。

たとえば、強迫神経症の苦しみから逃れるために悪魔と取引してしまったセールスマン、両親からのクリスマスプレゼントに兄が自殺に使った銃をもらった少年、子供の希望をことごとく無視するか曲解するかして自分の思い通りに学校まで変わらせる親、学業も恋愛もうまくいかないクモ恐怖症の女性…。
表面的に現れる問題の背後に、一見そうとわからないかたちで他者を支配しようとしている“邪悪”な人の存在があるのだ。

著者は“邪悪”の定義について、次のように述べている。

簡単に言うならば、悪は殺すことと関係がある。具体的には、悪は殺りく--つまり、不必要な殺し、生物的生存に必要のない殺しを行うことと関係している。
 悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものでもある。生--とくに人間の生--には不可欠の特性がいろいろとある。意識、可動性、知覚、成長、自律性、意志といったものがそれである。肉体を破壊することなく、こうした特性のひとつを殺す、あるいは殺そうとすることもできる。(中略)
 したがって悪とは、とりあえず、人間の内部または外部に住みついている力であって、生命または生気を殺そうとするものである、ということができる。また、善とはこれと反対のものである。善は、生命と生気を促進するものである。
私自身の経験によれば、真に邪悪な人間とはごくありふれた人間であり、通常は、表面的に観察するかぎりでは普通の人間のように見えるものである。
邪悪な人たちの特性となっているのは、本質的には、そうした人たちの罪悪そのものではない。彼らの罪悪の名状しがたさ、その持続性、そしてその一貫性である。これは、邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。
私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。

完全な人間なんてどこにもいないし、欠けるところなく強い人間もいないのだから、生きていくなかで誰でもたえず妥協している。できないことがあったり、できるけどやらなかったり、考えるのをやめてしまったりした数々について、なんだかんだと理由をつけて自分をごまかしている。あらゆることにベストでいられないのは当たり前なのと同時に、自己欺瞞で心を守ることは不可避で、それをないものと無視してしまったときに歪みが生じる。「自分は常に正しく生きている」というセルフイメージをもっている場合、すべてを正当化するため、うそにうそを重ねていくしかなくなり、悪は他者に投影されて、その歪みが周りを傷つける。

こういうことを知ると、今までの人生で出会ってきた人たちのなかにもこういうタイプは確かにいたな…と気づくし、自分自身がそういう人間になってしまうことへの恐れも湧いてくる。立派な対面を保とう、正しくあろうと躍起になっているうち、いつしか自分の心を粉飾していないか?

怠惰とナルシシズムを排することで自己浄化する

私は朝起きられないし約束の時間には遅れがちだし部屋は散らかるし人と会わない日はお風呂に入りたくないしマンガを読み始めたら他のことはおろそかになるし、まぎれもなく怠惰な人間だ。
また、健全な自己肯定感はよく生きるために必須のものだけど、未成熟なナルシシズムとの区別は難しい。
しかし若き日に本書を読んで以来、知的怠惰だけは自分に許してはならない、感受性や他者への想像力を怠惰にまかせてはいけない、ナルシシズムを暴走させてはならないと、胸にくっきり刻まれた。

本書の終盤では、ベトナム戦争で米軍の一小隊が起こしたソンミ村虐殺事件を題材に“集団の悪”について語られる。戦争という極限状態で起こった事件は、我々の普通の生活とはかけ離れていると思うかもしれないが、そのメカニズムを探っていくと、恐いほど身の回りにも心当たりがあるものだ。

集団では個人が専門化することで、良心が分散される。簡単な例をあげると、爆弾をつくると決める人、爆弾をつくる人、爆弾を運ぶ人、爆弾使用を指示する人、爆弾をセットする人がそれぞれ別なことで、個々人はもっているはずの道徳観念が希釈され、外部委託され、最終的にどこにも見当たらなくなってしまう。
また、ストレスや苦しみに耐えれば耐えるほど、精神が退行し、他者のストレスや苦しみにも鈍感になっていく。
そして集団の一体感を高めるために、プライドをあおり、往々にして外部の敵を憎み、集団的ナルシシズムが構築されていく。

こういった集団の渦中に入ってしまったら、個人として抗うことは至難の業だ。“集団の悪”を防ぐためには、そのメカニズムを理解し、起こさせないようにするシステムをつくることも必要になってくる。そのためには知ること、考えることを放棄してはならない。何かについて「知らない」ことは罪じゃないけど、「知ろうとしない」ことは罪なのだ。

 あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシシズムにある、ということが子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。集団のなかの個人は自分の倫理的判断力を指導者に奪われがちになるが、われわれはこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子供たちに教えるべきである。自分に怠惰なところはないか、ナルシシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己浄化を行うことが人間一人ひとりの責任だということを、子供たちが最終的に学ぶようにするべきである。この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済のために必要なだけでなく、世界の救済にも必要なものである。

怠惰とナルシシズムを常に検証して排していくのは疲れるけど、やめてしまったら自分は終わりだなと思うし、無力な私個人のささやかな抵抗が世界の救済にもつながっていくのかもしれないと考えるのは、なんだか夢があるじゃない?

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