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【猫は死ぬ】怪物【ミステリーなのか、ヒューマンドラマなのか】

キャッチコピーとCM程度の事前情報で鑑賞。
原作があるのかと思えば、映画オリジナルっぽい。ノベライズがあるそうなので、映画のための脚本。からの、小説なのかな?
ラストシーンと音楽が美しく、鑑賞後は満足感がありましたが、よくよく考えると設定に無理がある映画であとからイライラが沸いてくるw 脚本が良かっただけにとても残念。

三幕構成で、一つの事象に対して各章の視点者から語られることで徐々に「真意」が明らかになっていくという構造。パク・チャヌク監督『お嬢さん』を思い出しました。最初が母親、次が教師、そして子どもたちの視点に変わります。『怪物』というタイトルを指すものがどんどん変わっていくのがおもしろかった。
しかし、明らかになるものは「真意」であって、「真実」ではない。全体像がわかるまでかなりイライラさせられる。というのも、その結末に辿り着かせたいがために、かなり端折った部分が多く、そこが「いや、そうはならんやろ」と思わずツッコミを入れたくなってしまう箇所が非常に多い。その度にリアリティが削がれる。
特に、教育現場に関してはもっとちゃんと聞き取りするだろうと思います。新聞沙汰になるほどのことなのに、内部の人間だけで事を納めようとしているのも気になった。教育委員会や弁護士、下手すれば警察も入る事件だろうに。まぁ、そこが本題ではないから、かなり端折ったんでしょうけど、それがすごく気になった。
以下、各章ごとに。

第一幕では、シングルマザーながらに息子に寄り添う「理解がある母親」の視点で描かれます。ここでの「怪物」の意味は、親離れしていく息子の心情がまったくわからなくなり、怪物のように見える、といったところでしょうか。子育てあるある?
ここではいかにも「理解がある」風に見えるこの母親も、いわゆるステレオタイプであり、亡き夫に代わり、息子を立派に育てたいという使命感からか、その思いを押し付けていることが明らかになってきます。のちに明かされますが、この息子さん、中学受験を予定しているということで、地頭もよく、だからか、クラスでも少し浮いている。母親はそんな息子に対して、それなりに期待しているのではないでしょうか。
病院の帰りのシーン、彼女は息子の言葉がうまく聞こえないにも関わらず、適当に耳障りの良いことを言って誤魔化そうとする。息子に真剣には向き合っていない。「人間」として息子に向き合ってないのはこの母親だったのかも知れません。

第二幕は担任の視点。ここがかなりストレスでした。みなとや星川ら、子どもたちが何を考えているかわからなくて、彼から見たら「怪物」に見えるということでしょうか。
「新人教師だから…」で物語上、片付けようとしていますが、教室で暴れたら母親に一報入れるだろう、普通。鼻というか、頭も打ったのに(頭の怪我はのちのち大変なことになるので、即病院で検査することが多い。
片親の家庭だから、というのも、そんなに例が少ないことではないだろうに、「差別」する理由として弱過ぎでは?
息子が嘘をついたのは、星川のいじめに気付かない教師に対する反感もあったと思う。しかしながら、どんだけ田舎の学校か知らんが、絵の具事件の時のように教室で囃し立てたら、隣の先生が覗きに来るって。周りの大人にまったく悟られずにあれだけのいじめをすることは難しいと思う。ご都合主義が過ぎる。
みなとの母親が気付いた星川の傷に、周りの大人たちが気付かないというのもおかしい。本人が隠していたとしても、絵の具事件のときはその場で着替えたであろうし、普段の授業では体育もあった。時期的にはプールだってあったはず(春〜台風の季節の時期なので、おそらく夏休み前まで(そうでなくても、地元で育った小5なら、それまでの積み重ねがあるからさぁ。
彼は日常的に虐待を受けていたと考えられるので、みんな、見て見ぬ振りをしていたということ? 職員室の会話から星川父はやばい親認定されていたっぽいけど。このへんが、繋がらなくてイライラした。
学校の対応も適当に描き過ぎ。「とりあえず謝る」ではなく、もっと丁寧に聞き取りするだろうよ。下手したら賠償金もんなんだから。新人切り捨てみたいなことしないよ。逆に訴えられる。
周りの子供たちも一枚岩のように、星川のイジメに口をつぐむというのも変。1人くらい空気読めずに正義感を発揮する子がいる。本人がイジメに(間接的に)加担していたとしても。でも、教師は陥れるという──いや、ほんと意味がわからん。そんなにこの教師、嫌われているのか? ここのパートが流れとして辻褄がおかしくて、イライラ、イライラ!しました。

以上のようなイライラが、最後の子どもたちのパートで徐々に解消されていく。
ともかく、みなとと星川の交流、その描き方が美しかった。廃電車の秘密基地、林の中で無邪気に遊び回るその姿が、伸び伸びしてていい。学校にいるときには鬱屈した表情のみなとくんも、星川と2人でいる時は目がキラキラするのね。
この2人の関係が『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラと言われるのもよくわかる。カンパネルラと、一緒に付いて行きたかったジョバンニ。原作のジョバンニは、お母さんの存在があるから現世に留まるけども…。
ただ、君らが初めからすべて本当のことを周りの大人に打ち明けていたら、もう少し違った結末もあったと思うよ? そうはできなかったのは、大人たちがダメだから…という皮肉もあるのかもしれんけど。
さらに、そこを憚るものとしての「淡い恋」の描写を入れたんでしょうが、ちょっと唐突ではないか? そこ、急に恋愛だと自覚すんの? まず否定から入らない? 友情の延長じゃない?
「豚の脳」という言葉も、実は星川の父親から出たものだとわかる。が、その脈絡はよくわからない。虐待ワードにそんなものを求めるのもナンセンスなのかも知れんが。
星川の父は息子の同性愛気質について勘付いていて、矯正させたいように見える。母親はそれに嫌になって出て行った? いや、父親の素行の悪さが原因では?
星川くんはトランスでもないっぽいのにそんな確信的にわかるもの? もっと幼い頃から男の子が好きと公言していたとか? でも、それってお友達の範囲でのことだろうと一旦は思うようにするだろうし、元々小学校高学年って同性のみで固まって遊ぶ時期でしょ。男子と女子で壁ができる年齢。普通に「出来が悪い」と思っていての教育虐待とか、そういうのでよかったんでは?(靴を踏んでいるのも、そういう障害持ちのせいかとも見えなくもないので(身体にあった衣類を与えられてない家庭というよりは、躾の無さや本人の気質が強いかなぁと思った。
この辺りが「脚本はいいのに設定はクソ」と思う所以で、描きたいことと噛み合ってないように感じた。

思春期に差し掛かる子どもが、何を考えているのかわからなくなる。その一端に、性的なものが含まれている。
この流れはわかるけど、それを背負わせるにしては星川というキャラが幼く見え、ギャップが強い。父親の生活っぷりから、親の性生活を匂わせる虐待もあった、その反動とかその過程で出てきたと読み取れるならまだいいが、それに繋げるには詰めが甘い。もう少し言うと、そういう背景があるから同性愛的傾向を持ったとするのもかなり危険な気はする。
感情としてはかなり淡く描いていて、だからこそ、当人たちは深く受け止め過ぎてしまい、あの結末に至ってしまった、という点では読めなくもなかったので、まぁいいか。
ラストシーンを救いと思うのか、そうではないのかで感想が大きく変わる映画だと思った。

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