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『夢のような時間をありがとう!』~息子の野球を見続けることで幸せをもらった僕が、この5年半を振り返る~第1回

7月10日、息子の高校野球生活は、あっけなく終わりました。同時に、僕の応援生活も終わりました。この2週間は、僕の心にあいた穴を、じっくり感じる時間になりました。自分でもびっくりするほどの大きな喪失を、味わい、振り返り、感じたことを書いてみました。全3回です。

第1回 わが子を観るということ

夢のような日々が終わった。
終わりはあっけないものだった。
もう、君が「打って」「走って」「捕って」「投げて」躍動する姿を観ることができないと思うと、とても寂しい。

そう、僕の息子は中学・高校と野球に打ち込んだ。僕は、他の親たちがそうであるのと同じように、毎週のように行われる練習試合、そして公式戦に足繫く通い、声援を送った。

思えば、始まりは小学校低学年だったか。学校でドッヂボールの授業が始まり、君がキャッチングを教えてほしいと言ってきたことがきっかけで、自然にキャッチボールをするようになった。その頃から、野球を通して僕と君が向かい合うことが多くなった。スポーツというのは、自然に誉め言葉がでてくるから、親子のコミュニケーションにはもってこいのコンテンツ。多分君も、親に褒めてもらえる時間として、野球というスポーツが特別なものになったのではないだろうか。

広島から横浜に引っ越した小学6年生の時に、習い事として週に1回野球をするようになり、さらに野球が好きになった君は、中学でも当然のように野球部に入部。バッティングが大好きだった君は、スクールに通ったり、毎日素振りをしたり、妹に手伝ってもらって羽打ちをしたり、地道に努力した。僕も、時々練習用ボールを投げたりして、積極的に関わった。

この頃の僕は、部活動というものに対して、「教育の場」という意識を強く持っていた。純粋に楽しむというよりも、成長するために、大人になるために、チームワークやあきらめない心、目標を持つこと、そんなことを学んでほしいという「親心」を持って接していたと思う。だから、野球をする君を応援しながらも、反省点を探していた。そして試合が終わった後、いわゆる説教をしていた。君はそれをどう聞いていたのだろう。

それにしても、わが子がスポーツをする姿から目が離せない、感動する、というのは一体どういう感情なのだろうか。親だから当たり前、なのだろうか。

考えてみると、わが子が机に向かって勉強を一生懸命頑張っていても、スポーツほどには感動しない。スポーツでなくても、例えばダンスをしているとすれば、それは感動だ。お遊戯あるいは演劇も感動だろう。そう考えると、体を使って何かを表現している姿に感動するのかもしれない。では、「わが子」でない場合はどうだろう。

例えば、大谷選手が活躍する姿には感動する。でもわが子ほどは感情移入できない。そう、感情移入なのだ。生まれたときから、今までずっと成長を見てきた、いわば自分の分身だからこその感情移入なのだ。

いやまて、分身という言葉にひっかかりを覚える。分身。僕は君に、自分を投影していたのだろうか。

多分そうなのだ。あの日までは。あの日君と、君の妹に僕が謝ったあの日までは。

第2回につづく。

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