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概念あってこそ。


前回の わたしという概念が生まれたときの記憶 のつづき


非二元というのは《赤ちゃんの視点》
自他のなさ、区分のなさ、概念のないそのまま。

自我をとおして生きる世界は、
いわゆる《現実》と呼ばれる
概念をとおした価値観の世界。

あなたとわたし 

良いがあるから、悪いがあって
優れているなにかがあるから
劣っているなにかがある
相対的な世界。

以前、うちのワンコが、
首輪が外れた瞬間に
なにも考えずに突っ走っていってしまって
もう二度と会えないかも、、、
というような出来事がありました。

そのときは大丈夫だったのですが、
赤ちゃんや子供もそうですが、
車がビュンビュン走っている道路に
突っ走っていくというような
無邪気に死ににいくような行為をしたりします。

まさに、概念がないからです。

概念がなければ死ぬことがダメとか
それ以前に、
死ぬという概念も知りません。
良い悪いもないので
死ぬことへの後悔も恐れも
やっちまったなー!っていうのも、ない。

熱いものを触ったら熱いとか
机の角に足をぶつけたら痛いとか
そういう経験がなければ、
そういう概念もないということ。

死なれてしまったこっち側
(概念世界の住人である飼い主)としては、
もし、そのとき、ワンコが死んでしまったら
自分のミスを悔やんだり、
もう会えない悲しみなどなどを
概念というデータベースから
ピックアップしたりするのですが、

死んでしまったワンコには、
なんの葛藤もない
(はず。彼にそういう概念がなければ。)

肉体的なショックや痛みがあったとしても
そういう感情的な苦しみがない。

葛藤がないという安らさ。

そして、

わたしたちはそんな概念によって
命というものを維持している
という部分も大きい。

怖いから死なないとか
痛いから死なないとか
死ぬのはいかないこととか
それがポジティブな要素ではなくても
簡単に死なせないようになっている。

それが良いか悪いかは置いといて、
命が維持されることによって
成り立っているような
そんな世界がここにあるようにもみえます。

概念というのは便利なツールであり、
そして、不便さにもなっていて、

「こうあるべきなのに、そうじゃない」
「これが正しいのなら、これは間違い」

といった価値観にがっつりはまり込んで
苦しんでしまったりもする。

そして、そういうのぜんぶ含めて

概念というこの世界を愉しんでください

と生の活動は言っているようにもみえます。









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