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ヒヤリハット

カッとなった頭にのせる冷えた帽子ではない。

危ないことが起こったが、幸い災害には至らなかった事例のことらしい。
Herbert William Heinrichが1929年に出した論文が元ネタらしく、世にハインリヒの法則と呼ばれているもの。
労働災害の統計上、1 件の重大事故のウラに、300 件のヒヤリハットがあると言われている。
といっても1929年のデータだから、ちょっと根拠が弱い気がするけど、労働災害の予防について語られる際よく使われる。
つまり重大事故の防止のために、事前に起こっている筈の300のヒヤリハットを把握し分析すべしということらしいが、
これを勘違いして、出てきたヒヤリハットに対し、
「おいおい、何やってんだよ。気持ちがたるんでるんじゃないか?」
って戒めて、減らしていくみたいに捉える人がたまにいて、少し微笑ましかったりする。
つまり、ヒヤリハットが300たまったら大事故が起こるので、たまらないように気を引き締めていきましょうということらしいが、そもそも事例を分析し、仕組みを改善するのがヒヤリハットの目的なはずで、ここが抜けると、あまり意味がないんじゃないかと思う。
インシデント事例に対し頭を冷やし、そしてしばらくしたら忘れてしまう。これじゃあヒヤリハットではなく、ヒンヤリハットなんじゃないか、というくだらない冗談が浮かぶ。

おそらく大事な事は二つ。

一つは、あくまで客観的に分析する事。誰がという事を問わず、事例を起こした本人も含めて「他人事」として見る。
ミスした人物を叩いて、否定し排除して終わるのではなく、ミスした側も必要以上に恐縮せずに、あくまでヒトという生物の行動の結果として見れれば、システム上の問題を考えられる。科学的視点。

もう一つは、対策を考える際に人を当てにしないこと。
誰それが起こしたミスという見方を、その人から引き離して考えたら、対策についても人を選ばないのが真っ当な気がする。
ヒューマンエラーは、ヒトがヒトであるから起こる。ならば対策は人を当てにしてはいけないのではないかと思う。
ヒトは環境との相互作用で行動する。だから環境を変える事により、事故につながる行動を選ぶリスクを減らす。

この二つが抜けたまま、ヒヤリハットについて語る時、先に書いた「気持ちがたるんでる」の理屈に逆戻りしてしまう気がする。

「人は完全と真理を求めてしまう生き物だ」
なんてよく聞くけれど
人に完全を求めると、根性論になりすぎる危険がある。完全さを求める組織には、息苦しさしかないんじゃないかと思う。
真理の追求は科学的営み。
完全を求めるのはバベルの塔のような憧れ。
それを人に対して求めるのではなく、
仕組みに対して求めるのなら、
まだ幾分苦しくないんじゃないかと思う。

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