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最近見た映画メモその4〜『タイラー・レイク -命の奪還-2』『レッド・ノーティス』『虎を仕留めるために』

今回Netflixの映画だらけなのは、Netflixに入会したからです🤪


『タイラー・レイク -命の奪還-2』(2023)サム・ハーグレイブ

お金と引き換えに対象の家族を敵のアジトから逃がす凄腕の殺し屋タイラー・レイク。次なるターゲットは「DV夫に軟禁された奥さんと子供」だ! っていうといかにもしょぼそうな感じがしますがこのDV夫、じつは麻薬や武器の取引で財を成したジョージアきってのギャングで、現在はアメリカの要人を殺したかどで刑務所に収監されているとんでもない悪党なんですね。しかも彼が家族を軟禁しているのは刑務所の中。さらにアカンことに、刑務所の囚人たちはそのほとんどがDV夫の手下、というエクストリームすぎる状況が現出しております(もっというとDV夫の奥さんはタイラーの元嫁の妹でもあるらしくもう訳がわからん…)。つい先日、共同親権法案が衆院で可決されたばかりですが、あのガバガバな共同親権法に賛成票を投じた議員のみなさんにはぜひこの映画を見てもらいたい。お前さんたちの作った法律はこんなどうしようもないキンタマ野郎にお墨付きを与えてしまうかもしれないんだよ、と。いや、冗談ではなく。
MCUのマイティ・ソー役でおなじみクリス・ヘムズワースがアフガン仕込みの殺人術でもってバッタバッタと敵をなぎ倒していく迫力満点のアクションシークェンスが本作『タイラー・レイク -命の奪還-2』(2023)最大の見どころです。これを見て誰もが思い浮かべるのが「ジョン・ウィック」シリーズでしょうが、それもそのはず、監督のサム・ハーグレイブは、シリーズの監督であるチャド・スタエルスキとデヴィッド・リーチが共同で立ち上げたアクション集団「87イレブン」のスタントマン出身なんですね。実際にこの映画は、スタエルスキが「ジョン・ウィック」で見せたような極度に様式化されたキレッキレの殺人描写と、リーチが単独監督作『アトミック・ブロンド』(2017)でこころみた超長回しの擬似ワンショットアクションとをバランスよくミックスして発展させた構成をとっています。
特筆すべきは後者の擬似ワンショット。バングラデシュの首都ダッカの入り組んだ街並みを使った前作『タイラー・レイク -命の奪還-』(2020)もじゅうぶんに凄まじいのですが、本作のそれはさらに上を行きます。刑務所に潜入して奥さんと子供を連れ出すもうっかりミスで囚人に見つかり施設内を逃げ回るさなかで遭遇したDV夫を殺し大量の囚人と機動隊がもみ合う中庭を命からがら抜け出し仲間の用意した車に乗り込んでDV夫の兄ズラブがよこしたバイカー軍団をやり過ごして貨物列車に乗り込むも今度はガンシップと特殊部隊がやってきてそれを全滅させたところまでは良かったのだけれど列車が終点にたどり着いて脱線横転してしまう…とかいうとんでもなく長い、20分強にわたる一連の流れをカットを一度も割ることなくワンショットで見せてしまう。もちろん「ここが編集点なんだろうな」というところはあらかた察しがつくわけですけど、これだけの複雑なブロッキングと、これだけの豊富なアクションと、これだけの大量のモブをテキパキと手際よく処理していくわけですから、これはもうものすごい手練れだとしか言いようがありません。
しかし、ここは前作にも見られた問題なのですが、本作『タイラー・レイク -命の奪還-2』には、ストーリーの起伏だとか途中で明かされる驚愕の真実だとか強烈なメッセージ性、みたいなものがほぼ存在しないに等しいので、中盤に置かれたこのシークェンスを過ぎるとドラマが一気に推進力を失ってしまうという(笑)。このあたりもやっぱり「ジョン・ウィック」っぽいんですよね。彼らはあくまでアクションの監督なのであって、ストーリーテラーではないわけです。ハーグレイブ(と脚本のジョー・ルッソ)は、スタエルスキ=リーチのアカンところもしっかりと受け継いでいたのであった…。


『レッド・ノーティス』(2021)ローソン・マーシャル・サーバー

Netflixのオリジナル作品のなかでもっとも視聴されたもののひとつなんだそうです。再生回数は2023年8月の時点でなんと2億3000万回超え。中身はというと、FBI捜査官のジョン、世界的な大泥棒のノーラン、ノーランのライバルであるビショップ、そしてインターポールの刑事ダスが、秘宝「クレオパトラの卵」を求めて争う、本当にありきたりなケイパーアクションもの。いわゆるアタマを空っぽにして見られる「こういうのでいいんだよな映画」のヴァリアントですが、アスペルガー気質の俺はこのテの作品ほどアタマを空っぽにして見ることができない。作品が前提とする世界観やモラルだったり、設定のアラだったり、ご都合主義的な展開だったり、といった要素が視聴をする上でのノイズと化し、結局は「こういうのでよくないんだよ」となってしまうわけです。
ここで考えてみたいのは、ストーリーテリングのテクニックとしてはもっとも重要なもののひとつ言っていいであろう「伏線回収」の問題についてです。ちなみに、先ほど作品を楽しむ上でのノイズとして挙げた要素ですが、実はこの作品のなかではいちおう伏線として機能しています。はじめに不可解な描写や謎があって、それらの正体はのちに何かしらの説明を与えられることによって明らかになってゆく。このプロセスは一見すると立派な伏線回収のように見えます。するてえと、俺がやったことというのはともすればただのイチャモンでしかなく、待っておればそのうち答えがやってくる問題に対して手当たり次第に噛みついていただけだったのかもしれません。
しかし同時に「果たしてこれは本当にうまい伏線回収なんだろうか?」とも思ってしまうのです。物語の途中にさりげなく示唆されたもの(伏線)が後になってまったく違った意味を持って浮かび上がってくることで得られる「パズルのピースが綺麗にはまった感じ」これこそが伏線回収における最大の効能なのですが、それじゃあこのフォーマットをただ愚直に守っておればいい伏線回収になるのか、といえば別にそんなことはないと思うんですね。なぜなら現に本作『レッド・ノーティス』(2021)でなされる伏線回収がちっとも気持ちよくないからです。
たとえば、「世界中の誰も知らないクレオパトラ第3の卵の在りかをノーランだけが知っているのはなぜなのか?」という疑問が劇中にあります。映画はその疑問を、以前にノーランとジョンの間で交わされた、父親と腕時計にまつわる話の真意を解説することでもって解消させる。なんだけどこの構図、俺の目には、観客に「なんでノーランは何でも知ってるの?」と問い詰められた作り手が「いやさ、それにはこうこうこういうわけがあって…」と苦し紛れの言い訳をしているようにしか見えないのです。そう、本作における伏線回収っちゅうのはようするに全てが「言い訳」なんですね。ジョンの正体に関しても、ビショップの正体に関しても、それよりももっと細かい描写に関しても、観客の疑問に対して後付けで弁解しているようにしか見えない。謎が解き明かされるさいに感じるのは、伏線回収ほんらいの爽快感とはほど遠い、単なる言い訳がましさです。
そしてそこには「伏線はすべて回収しなきゃいけないんだ…」という固定観念やオブセッションのようなものもあるように思われます。張られた伏線があまりにも多岐にわたり、かつそれらをいちいち拾って回るとなると、いきおい力業に頼るほかなくなってしまう。その結果、ひとつひとつの疑問に対する答えが不誠実なものに映ってしまうのかもしれない。しかしながら、この映画がこんなことになってしまった責任はなにも作り手だけではなく、われわれ受け手の側にもあるのではないか。われわれ観客の感性はここ10年ぐらいの間に「作品の中にある答え」を安易に求める方向へとシフトしてしまっており、その答え探しを、画面の中にばら撒かれたパズルのピースを組み立てる作業でもって遂行しようとしている。その象徴が昨今の考察ブームでしょう。そういう鑑賞方法が覇権を握っている間は、伏線をばら撒き、それを鮮やかに回収するテクニックこそが何よりも尊ばれるわけです。ちなみに、文章を読んでおればなんとなくわかると思いますが、俺個人としては、そんなもんどうでもええわ、と思っています(笑)。「伏線をどれだけ綺麗に回収できたか」でしか作品の価値を測れない、というのは感性の貧しさ以外の何ものでもない。
つまり本作『レッド・ノーティス』は、伏線とその回収を快楽原則の頂点におく受け手と、原則をバカ正直に受け取ってしまった作り手との暗黙の共犯関係によって生み出されたド級のクソなのだ、と言ってしまってよいでしょう。まあ結果的に大ヒットしちゃってるんで、こんな露悪的なツッコミにはなんの意味もないのかもしれませんが…。
てなわけで、みなさんがふだん何気なく見過ごしている「伏線」という概念について、この機会にいちど考えてみてはいかがでしょうか。


『虎を仕留めるために』(2022)ニシャ・パフージャ

受賞こそ逃したものの、今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた衝撃作。インド東部ジャールカンド州のとある村で13歳の少女が3人の少年にレイプされる事件が起きる。彼女の父親は(われわれ観客の目から見れば)当然、加害者の少年たちを訴え、法の裁きを受けさせようとするのだが、事態は思わぬ方向へと転がっていって…。
本作『虎を仕留めるために』(2022)であらわになるのはインドにおけるムラ社会の異常性だ。「インドではレイプされた女性がレイプをした男性と結婚しなければならない」だの「レイプした男性よりもレイプされた女性の方が非難される」だの「レイプされた被害者の家族が村八分にあってしまう」だの、といった話題をネットのニュースで聞くことはしばしばあったのだけれども、とてもじゃないがにわかには信じがたく、さすがにネタか何かだろうと思っていた。ところが、これとまったく同じ事態がスクリーンの中で実際に起きていたのだ。
村の女たちは「被害者はレイプされることによって穢れたんだから加害者と結婚する以外の選択肢はない」といい、加害者の父親たちは「そもそもレイプされるような行動をとった被害者が悪いんだろう」といい、被害を告発した一家は「お前らが余計なことをしたせいで村の和が乱れたんだ」などと罵られ、急速に村のコミュニティから孤立してゆく。彼らに共通するのは村の掟に身を委ねた思考停止。いかなることが起ころうとも、掟がそうなってるんだから俺たちはそれに従うしかないのだ、というわけだ。インタビュアーから「仮にあなたの娘がレイプされたらどうするの?」と問われた村の女たちは押し黙るしかない。他人の身に起きたことはすべて他人事であり、これが自分の身に降りかかったら…という想像力を持つことができないからだ。
その後も父親のランジットは、加害者の親たちから「息子を拘置所にブチ込んだクズだ」として殺害予告を受けたり、裁判のための費用が調達できなくなるなどする様々な障壁にぶち当たる。なかでも驚いたのが、警察の捜査のずさんさだ。事件を担当した警部補は見るからに無能そうで、カメラの前に立ってもしどろもどろなのだが、なんと近隣住民への聞き込みはおろか現場の検証すらしておらない有り様だった。捜査が行われていないということは、レイプが起きたことを立証する証拠がないということでもあるので、裁判は加害者側に有利な方向へと傾いていってしまう。これは刑事個人の資質の問題なのか、それとも公権力を抱き込んで事件そのものを有耶無耶にしようとするコミュニティの問題なのか。いずれにせよ恐ろしすぎるぞ、インド…。
正直なところ、この映画から何かしらの教訓を引き出すことは難しい。父親のランジットや被害者である娘キランの置かれた状況があまりにも壮絶&特殊すぎて、「このことは実は僕たちの社会でも起こっていて〜」といって安易に普遍化することを許してくれないのだ。しかしながら、まったく救いがないわけではない。ムラ社会の掟という権威の上には法制度というメタレヴェルの権威があって、プロフェッショナルが事件を理性的に裁いてくれるからだ。もちろん、法廷で証言をする決断をしたキランの勇気と、娘を信じて不正義と戦い続けたランジットの忍耐とがあの結果を勝ち取らせたことは言うまでもないのだけれど。


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