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最近見た映画メモその5〜『正欲』『ニモーナ』『マエストロ:その音楽と愛と』

今回もNetflix配信映画3本。例によってボロクソにこき下ろしてますが(『マエストロ』にいたっては生涯ワースト級に嫌いな作品です)、それじゃあNetflixの映画がすべからくつまらないのかというともちろんそんなことはなく、感想が一行たりとも思いつかなかったのであえて取り上げなかったウルグアイ映画『雪山の絆』(2024)はめちゃくちゃいい作品だと思いましたよ。パニック映画の新たな金字塔です。みなさんもぜひ。


『正欲』(2023)岸善幸

普通に学校に通って、普通に人付き合いをして、普通に大学に行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に家を買って、普通に子供を産み育てて、普通の老後を送る。そういう「正常」なライフコースのどこかしらでドロップアウトしてしまったり、あるいは社会がのべつに強要してくるこのライフコースそのものに対して息苦しさを感じている人にとって、本作『正欲』(2023)はたいへんに刺さりまくる映画なのではないでしょうか。現に俺は刺さりまくりました。「苦しいのはあなただけじゃないんだよ」「世の中にはあなたと似たような人がたくさんいるんだよ」と優しく声をかけてくれるような作品なのではないかと思います。ちなみに劇中には「水という物質に性的な興奮を覚える」なんというヘンテコなフェティシズムを持った人たちが出てくるわけですけど、このフェチの部分には、観客おのおのの性的嗜好や指向を随時当てはめながら見るのがよいかと思われます。
ところが、この映画も社会的弱者を描いた大方の失敗作の例に洩れず、それこそいじめられっ子のヒロインがイケメンの男子とくっついて救われる『かがみの孤城』(2022)のようなズッコケ欺瞞展開へと進んでいきます。物語の中盤、新垣結衣と磯村勇斗の2人は自殺をくわだてた者同士で連帯し合い、ついには同棲生活をはじめます。はじめて他者と心を通い合わせることができた彼らはとても幸せそうです。なんだけど、これは結局のところ、冒頭に書いた正常なライフコースとやらを追認していることにはならないか。俺の目には、作り手たちが「世の中には生きづらさを抱えてる人がいっぱいいるかもしれないけど、やっぱり普通に生きることがサイコーだよね」なんつって、男と女が付き合ってひとつの家庭を築く、という既存の保守的な価値観を温存しているようにしか見えないのです。実際にガッキーとイソ村はんの擬似夫婦は普通の人たちと同じように振る舞うこと、いわば「正常を装うこと」によって社会に少しずつ適応していきます。しかし、せっかく社会から疎外された人間をここまで突き詰めて描いたんだから、最後に何かしらオルタナティブな選択肢を示してほしかった。もちろんまったくないわけではないんだけど、劇中で自らの正しくなさと真っ正面から向き合った登場人物は社会からことごとく排除されていく。正常を装う以外のやり方で救われることは本当にないのか? そもそも正常を装うことすらできない俺のような異常者はいったいどうすればいいのか?
そのスタンスは稲垣吾郎と新垣結衣とが取調室でぶつかり合う、いわゆる「ガッキー対決」にいたっても微動だにしておらない。このくだり、演出自体はいたって真面目なのですが、よくよく見ると単なるマウント合戦にしか見えないという(笑)。最後は異常者サイドの愛や絆が正常サイドの標榜する正しさを打ち破ったように取れなくもないのだけれど、嫁と子供に愛想を尽かされたのはあくまで稲垣メンバー個人の落ち度なのであって、決して正常性一般が負けたわけではない。そこのところを勘違いしてはいけない。
個人的に大好きなのが、新垣結衣と磯村勇斗のセックスシーン。といっても本当にセックスをするわけではなく、そもそもセックスのやり方すら知らなかった2人が、普通の人たちが当然のようにやっているセックスの真似事をして苦笑するくだりなんだけれども、すごく良いんだよなあ、ここ。「異常」な人間の目から見る「正常位」なんてのはしょせん、死んだカエルのようなカッコをした女の穴ボコに男のチンポを突っ込んでアヘアヘほざいている滑稽な儀式にすぎない。そのくせ日中のこいつらは「は?セックス?そんなもん知りませんけど」みたいなツラをしておつに澄ましている。おお、なんたる欺瞞、なんたる悪徳よ。われこそが「正欲」の持ち主なのだ、と公言してはばからない連中はそのことに誰ひとりとして疑問を持っておらないわけです。水フェチなんかよりそっちの方がよっぽど異常じゃないですか?


『ニモーナ』(2023)ニック・ブルーノ、トロイ・クエイン※ネタバレあり

「何にでもなれる」を体現したCGアニメの表現手法と、「何にでもなれるがゆえに何者にもなることができない」というテーマ性とがガッチリと手を携えた、アニメーションとしてたいへん素晴らしい作品だと思うのだけれど、いろいろと面倒くさいので前置きを全部すっ飛ばしていきなり本題&ネタバレに入ってしまいます。本作『ニモーナ』(2023)でどうしても許せないのがオチの付け方でした。物語のクライマックス、周りからの心ない言葉を浴び続けた主人公のニモーナは真っ黒で巨大なモンスターへと変貌を遂げ、自分を虐げてきた人間たちに対する復讐を敢行します。でもってなんやかんやあった結果、もうひとりの主人公であるバリスターの献身によって正気を取り戻し、ここへきてニモーナはみんなから「we Love Nimona」なんつって社会の一員として迎え入れられる。いま流行りの用語でいうところの「社会的包摂」が果たされてメデタシメデタシとなるわけです。
けれども、ちょっと待ってほしい。ニモーナが怪獣と化していた時間をよく見てほしいのですが、けっこう洒落にならないレベルのコラテラルダメージが出ています。ビルヂングはバンバンなぎ倒すわ地面は燃やすわ、おまけに民衆が逃げ惑うところをズンズン歩いていたりやなんかもする。あらかじめ警報が発令されていたとはいえ、ニモーナに人生を奪われた犠牲者の数はおそらく数千人はくだらないでしょう。もはや呑気に「we Love Nimona」なんつってる場合ではないわけです。ここに本作の脚本の最大の無理があるように思われます。社会から排除される人間を絶対に出したくない作り手の気持ちはわからないでもないのだけれども、でもダメなものはダメなのだ、と。いくら熊がかわいかろうが、動物愛護の精神を振りかざそうが、一度でも人を殺してしまった熊と人間が共存することはできない以上、熊の方を射殺するなりしてこの世からお引き取り願うしかないのと同じです。綺麗事だけでは世界は回らない。これはまさに『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』(2023)の動物救出シークェンスを見たときにおぼえた違和感にも通ずるものがありました。
そしてそこには、俺がたびたび言っているように「社会的弱者を題材にする映画の作り手は社会的弱者ではありえない」というジレンマも働いておるように思います。映画監督やプロデューサーっちゅうのは当然のように嫁や夫や子供や友達がいて、社会的地位も財産もしっかり持っていて、むろん劣悪な労働環境に身を置くことなんざないわけです。彼らはニモーナとはこの上なく縁遠い境遇にいるわけです。そんな人間が映画の中で(自分たちの人生とは無関係な)弱者を描こうとすると、いきおいどこかしらにウソっぽさが紛れてしまうのかもしれない。むろん「社会的強者が社会的弱者を描くなんざ文化の盗用だ」かなんかいうつもりは毛頭ないですが、それにしても最近のビッグバジェット映画の弱者の取り扱い方には目に余るものがあります。


『マエストロ:その音楽と愛と』(2023)ブラッドリー・クーパー

あれっ、ブラッドリー・クーパーってこんな顔だったっけ? 映画に出始めたころは世界一セクシーな男かなんか言われてたのに、しばらく見ない間にワタミの会長みたいな風貌になってる…。と思って調べてみたらなるほど、これは特殊メイクで、自らが演じるレナード・バーンスタインに似せるための付け鼻だったのであった。これにて一件落着、といきたいところなのだけれどそうは問屋がおろさない、というのはクーパーがアイルランド系の父親とイタリア系の母親の血を引いておるからで、ようするにこの人、自身はユダヤ人でもなんでもないにもかかわらずユダヤ人のバーンスタインっぽく見せるために顔面を偽装しているわけです。顔を黒く塗った白人が黒人の役を面白おかしく演じるミンストレルショーや、顔を赤く塗った白人がインディアンの役を演じる西部劇などが過去に批判されたように、当事者ではない人間が対象の身体的特徴やステレオタイプを誇張して演じる、というのは明らかな人種差別にあたります。日本でも何年か前にダウンタウンの浜田がエディ・マーフィーのモノマネをして大炎上した事件がありましたね。実際にこの件は公開前にかなり問題視されたそうです。しかしながら、本作の監督でもあるブラッドリー・クーパーがこのことを知らなかったとはとうてい思えない。それではなぜわざわざこんなリスキーな選択肢に賭けたのかというと、クーパーが病的なまでのナルシストだから、としか言いようがないんじゃないですか。
以上の例を筆頭に、本作『マエストロ:その音楽と愛と』(2023)は見ていて反吐が出るようなナルシシズムに満ち満ちています。基本的に映画の尺のほとんどは「どや、オレってカッコええやろ?」みたいな顔をしながらタバコを燻らすクーパーの姿を延々と映し出すだけ。そしてこの視点から映画を見るとすべての要素が鼻について仕方がないという…。たとえば、本作はバーンスタインとその妻フェリシアが出会ってお付き合いするまでのパートをモノクロで撮っているわけですが、色味はカラーのフィルムを脱色して無理やり白黒にしたような中途半端さだし、陰影のコントラストやなんかもいい加減です。モノクロで撮らなきゃあいけないだけの必然性を微塵も感じない。「なんかモノクロの映画ってカッコええやろ?」ぐらいのこだわりしか持っておらないように見えるのです。そんな俺の推測を裏付けるかのように、中盤からはモノクロの撮影を放棄し、画面がカラーのスタンダードに変わります。しかしこれに関してもやっぱり「映画の途中で画面の色やスクリーンサイズが変わったらカッコええやん」程度の薄っぺらさを感じてしまう。
この映画は一事が万事こんなノリで、それっぽい画面とそれっぽい場面の切れ端をそれっぽい感じに繋げて愛の物語だかなんか謳っておけば観客は勝手に感動してくれるだろう、みたいな安易すぎる打算でもって組み立てられています。各所のレビューを読むと、やたらと「葛藤」なるワードを目にするのだけれど、そんな高尚なお話ではなかったように思う。少なくとも俺の目には、家族をいっさい顧みないドクズの男が妻や子供をうっちゃらかしたあげく突然気まぐれに戻ってきて夫婦愛だなんだとのたまい始める、この上なく自分勝手な物語としか映らなかった。
本作最大のウリは、バーンスタインが教会でマーラーのミサ曲を指揮するシーンを、なんとブラッドリー・クーパー本人がダブルを使わずに演じているところでしょうか(メッチャ練習したそうです)。好意的に解釈するなら、バーンスタインの音楽家としてのキャリアが頂点に達すると同時に、長年確執の状態にあった妻とようやく和解する感動のシーンなのだ、ということになるのでしょうが、前者に関しても後者に関してもそこにいたるまでの積み重ねがほとんど描かれていないために、場面が宙ぶらりんに浮いてしまっている。はっきり言ってこのくだりには何の意味もないわけです。劇中における数少ない演奏シーンでさえも、結局のところはクーパー監督のナルシシズムを満たすための単なる道具として回収されてしまっています。
いやさ、もっというなら「そもそも主人公がバーンスタインである必要はないのではないか」とすら思えてくるのです。この映画のなかでは、バーンスタインが音楽家として出世していくプロセスや、彼のセクシュアリティの問題がいっちょ噛みレベルでしか掘り下げられないので、仮にこれが架空のミュージシャンの話だったとしてもまったく問題なく成立するはずです(そんなもん誰も見ないでしょうが)。それだけならまだよいのですが、本作は(バーンスタインをモデルにする必要がなかったにもかかわらず)バーンスタインやその周辺にいた実在の人物を本当にしょうもない、取るに足らない人間のカスとして描いてしまっている。もはや死者に対する冒涜なのでないかと思うのだけれども、これは前作の『アリー/スター誕生』(2018)でも感じたことなので、おそらくこの監督の作家性なんでしょうね。
そういう意味でいうと、映画監督ブラッドリー・クーパーにもっとも近いのはポール・バーホーベンなのかもしれない。唯一違うのが、バーホーベンの描くキャラクターが「人間なんざしょせん全員クズなのだ」という、全人類のことを心底からなめ腐った強固な世界観に裏打ちされているのに対して、クーパーの場合は高尚な夫婦愛の物語を本気で描こうとした結果こうなってしまった、というところです。まあ、どんな登場人物を描いてももれなく人間的魅力ゼロのカスになってしまう、というのもそれはそれである種の才能なのかもしれませんが…。


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