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白い思い出に色をつける【おもひでぽろぽろ】

■『おもひでぽろぽろ』初めて観た!

『おもひでぽろぽろ』(監督:高畑勲)を初めて観た。
今まで金曜ロードショーとかで断片的に観た記憶はあったけれど、がっつり観たのはこれが最初だった。
主人公のタエ子(27歳)が休暇をつかって田舎にいく。その途中途中、小学5年生のころの思い出がぽろぽろ思い出されていく…。
というお話。

思い出ひとつひとつがもちろん面白いのだけど、個人的にすごく興味深かったのは、「思い出」そのものが「現在」にほとんど影響を及ばさないことである。
昔、経験したことのおかげで現在の窮地を突破できるとか、恋人との楽しい日々を思い出すことで別れの辛さが強調されるとか、過去と比較することで自分の成長を実感するとか、そういうよくあるパターンのやつではない。
市場を見てパイナップルを初めて食べた日のことを思い出す。それ以上でも以下でもない。

「思い出」ってそういうもの。なにかの拍子に、冬の朝の吐息みたいに、ふぁっと出てきて、「そんなことあったなあ…」って思って、また空気に溶けていく。そこに学びや発見は無いときのほうが圧倒的に多い。
ホントに「おもひで」が「ぽろぽろ」

■思い出を解釈する

『恋文の技術』(森見登美彦)の中に好きなフレーズがあって、
「別に意味など無いのだ。教訓を求めるな。」
という言葉がある。
僕らの思い出だってそうだと思う。
もちろん、過去の経験の積み重ねが今の自分を作っている、ということは確かだけど、すべての思い出に意味があるとは到底思えない。
きっとそれは、夜に見る夢のように、断片的なあれやこれやを繋げて、無理やりストーリーにしているだけで、実際には、独立した点々の集合が自分なんじゃないかと思う。

いや、それでも、
僕らは思い出を解釈したい。
あるときはスッキリするために。あるときはドラマチックさを演出するために。苦しかった過去も無駄ではなかったのだと言い聞かせるために。あれはあれでよかったのだと自分の行動を正当化するために。
解釈して強引でも納得したうえで、前進していく。

厄介なことは、解釈には「クセ」があることだ。被害者意識が強い人、ポジティブに解釈する人、ひねくれて解釈する人…。
実際には意味も教訓もないであろう真っ白な思い出も、解釈次第で何色にも染まる。思い出が自分を作っていると同時に、自分が思い出を編集しているのではないか。
そんな自分を変えてくれるのは、「新解釈をくれる存在」である。

タエ子にとってそれがトシオだったのではないかな、と思う。分数の割り算の話、ひょっこりひょうたん島の話、そして、アベくんの話。
自分の思い出に新しい色をつけてくれる存在って、自分を新しい色にしてくれる存在なんだと思う。


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