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暮らしのエトセトラ。


いろんなものを乗り越えて「衣・食・住」がそれなりに満たされている、いまの時代。

戦後の日本を知る方々はから「モノがなかった時代」のお話をたくさん聞くのだけれど、わたしが祖母の年齢になる頃には「モノがあふれた時代」を昔話のように語るのだろうか。

生まれた頃から大体のものは揃っていて、小学校の授業でPCの使い方を勉強して、習い事に打ち込むことができて。大人になったらこうやって、コタツに入りながら自分のPCを広げて文章を書いている。

わたし達の暮らしぶりは、ずいぶん変化したんだろうなと思うことはあるけれど、これからはさらに変化していくんだろうなとも思う。

まあ、いまを生きる子ども達からすると、中学校や高校になって初めて携帯を持つことも「時代遅れ」みたいに映るのかもしれないですけどね。


こんな風に時代の流れを考えるとついつい、先日のnoteでも少し触れたような「仕事」とか「働く」についてのお話になってしまいがちなのですが、自分が携わっている仕事も含め、世の中の多くの仕事は「余剰」からできているような気がします。

生活に不可欠なインフラが整備されたいま、(とりわけ日本において)ほとんどの仕事は余剰なんですよね。


ということは、ですよ。わたし達はすでに “自分のために” 働いていい、あるいは “そうせざるを得ない” 時代を生きていることになるのではないでしょうか。(そういえば、「人類総アーティスト時代(?)」なんてことばもあった気がします。)

ここで言う “自分のために” というのは生活のためのお金を稼ぐことも含まれるのですが、伝えたい文脈としては “自分がどう社会とつながるか” を表現するのが「仕事」の役割になるというイメージです。

少なくとも、わたしの周りでお商売やものづくりをされている先輩方はそういう流れのなかでお仕事をされているように思いますし、できる限りわたしもそうありたいなと思います。

( “そうせざるを得ない” と書いたのは、自分に対してきちんと「問い」を立て向き合わないと、生きるたのしみを見出しにくくなっているのではないかと思ったからです。)


「現代っぽい働き方」という表現が正しいのかどうかわかりませんが、わたしは、好きな時にオフィスに行けて、自分の部屋をそのままワークスペースにできて、誰から管理されることもなく仕事をしています。

一丁前ぶって説明すると、不要なことはなるべくはぶき、自分が働きたいように働ける環境を自身でつくっていくような、そんな会社に勤めています。

当然のことながら、早く終わる日もあれば寝る直前までPCに向き合う日もあるし、その結果肩がつまり、変な寝方をしてひどく寝違えることもあります。健康管理も含めて、すべて自己責任の世界。



働くのは好きなのだけれど、いま現在わたしがやっているのは、どこまでいっても「余剰」の仕事なんだなぁ。そう思うとなんだかすこし、切なくなってくる。

なにをどう足掻いたとしても、残るものは残るし、残らないものは残らない。なんとも言えないけれど、「余剰」から生まれるものを信じるかどうかも自分次第なのかな。


あくまで「暮らし」の延長で、ひとりの生活者として、身のまわりと遠くの誰かが笑顔になれるような仕事をしていきたい。わたしには「仕事」を通してきっと、もっとやれることがあると思うから。

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