クリスマスには本来、何を想うものなのか ~マッチ売りの少女から考える~
クリスマスとは本来、どんな気持ちで過ごすものなのでしょうか。
わたしは毎年、クリスマスには近所の教会で行われるクリスマス礼拝に参加しています。クリスチャンではありませんが音楽をやってきたことから、キリスト教には興味を持って色々と本を読んでいます。
クリスマス礼拝では、毎年、牧師さんがクリスマスにまつわる話をしてくれます。歴史や文化、今流行りの事柄ちょっとした豆知識から、聖書にまつわる教訓的な話まで何でもありで、何より時にユーモアを交えた話は現代的な解釈でわかりやすく、楽しんで聞けます。今年はメモしたことに、自分なりの解釈を加えて記録しておきました。
クリスマスシーズンの街は華やかなイルミネーションが点灯し、お祭りのような楽しい雰囲気に包まれます。
「恋人はサンタクロース」「恋人たちのクリスマス」といった歌もあるように、クリスマスは恋愛中の人々にとっても特別な日でもあるようです。「クリスマス商戦」ともいわれますが、企業にとってもクリスマスのこの時期は一大イベントであり、かき入れ時です。ボーナスシーズンでもあるので、プレゼントやごちそうをふるまう「物質的な豊かさ」がクローズアップされる時期でもあるでしょう。
クリスマスをひとりで過ごすことを「クリぼっち」というようです。「おひとりさま」というワードが定着したように「単身で充実した時間を過ごすこと」は、一昔前に比べずいぶん前向きに捉えられるようになりました。
(それでも「クリぼっち」という響きは少々、自虐的な匂いがします)
クリスマスをひとりで過ごすという選択が一般的になったとはいえ、日本ではまだ「クリスマスは恋人や仲間、家族とパーティー」といった風潮が強いようです。
「マッチ売りの少女」の物語をご存じでしょうか。
年末の夕暮れに貧しい少女がひとり、寒空の中マッチを売り歩く話です。売れ行きは芳しくないのですが、完売するまで家に帰ることはできません。少女の家はとても貧しく、マッチを全て売ってこなければ父親にぶたれるという典型的な虐待DVのある貧困家庭です。
街を歩く人々は家路を急いでおり、貧しい身なりのマッチ売りの少女には目もくれません。目もくれないというよりむしろ、貧困家庭を知らない彼らには、マッチ売りの少女の姿は「見えていない」存在なのです。
少女が、あまりの寒さに暖を取ろうとマッチに灯を灯すと、目の前には温かい部屋に並ぶごちそうやクリスマスツリー、亡くなった祖母に抱かれる「幸せの幻影」が見えました。ですが、それはマッチが燃え尽きると同時に消えてしまうのです。やがて全てのマッチを燃やし尽くしてしまった少女は翌朝、冷たくなっているところを発見されます。
家路を急ぐ人々がマッチ売りの少女に目もくれない、気付かないのはなぜでしょうか。人間は常に明るい室内にいる時には、その豊かさや温かさに気付きません。
何不自由ない生活をしていれば、あえて闇の中にいる存在を目を凝らして見ようとする人は、そう多くはないでしょう。ちっぽけな少女が街中でマッチを売っていても、その存在には気付かない。たとえ気付いたとしても、見て見ぬふりをしてしまいがちです。
これは現代社会においても、同じことが言えるのではないでしょうか。
正直、貧困や不幸は「映え」ません(演出されたものは別)なぜなら、貧困は「映える」豊かさの裏に、意図的かつ巧妙にマスキングされているからです。
少し前も公園のベンチに長居しづらくなる手すりや間仕切りを施す「排除アート」が話題になりました。富める者や強者にとって都合の悪い真実(貧困や弱者)は、巧みに隠され、見えないようになっているのです。
しかし、マッチ売りの少女のように暗く寒い屋外(闇)の中にいれば、明るく温かい室内がよく見えます。つまり不幸の中にいるからこそ、明るさや温かさに気付けます。本当の貧しさを知っているだけに、ほんの少しの豊かさにも敏感になれるのです。
情欲や羨望、嫉妬や妬みなど不条理な感情にまみれているのが人間です。
迫害された末、人間の罪を背負って十字架にかかったキリストは粗末な馬小屋で生まれ、何も持ちませんでした。
クリスマスの時期は毎年、普段よりぜいたくに過ごすことに若干の疑問を持ってみると同時に、物質的な豊かさだけでなく「本当の豊かさとは」何なのかを考える日にしようと思います。
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