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56. 父から受け継いだもの

 何日経っても原稿が進まない。もう1カ月もこんな調子で書きあぐねている。私の潜在意識がブレーキをかけているのだ。瞑想なんぞして折り合いをつけ、一文一文をおそるおそる綴るも、調子にのって加速しそうになったら、はたと立ち止まる。違う道筋に流れているのだ。

 ああ。仕事机の前から、ソファーに場所をうつし、仰向けに寝転がって、幸田文の「台所の音」を読んだ。江國香織の「物語のなかとそと」というエッセイを読んだ。2行読み、3行読み、6行も読めば、独特の静かな声に誘われ、仄暗い深みが続く、水のむこうをその深淵を覗いていた。ついさっきまでの自分と違う。私も露伴や滋とはいかなくとも、家系に文筆がたけた人はいなかったのかしら、とつぶやくも。そうはいかない。私の父は、料理人だったのだ。若い頃は神戸の料亭で修行し、晩年には腕をかわれて、兵庫の香住、それから城崎で、料理旅館を営む。そして還暦で他界した。

 父が、私のために作ってくれた料理がある。当時、私は小学5年。母が1週間ほど入院した時だ。

 家の台所でありながら、コック用のエプロンをちゃんとしていた。すりこぎのような棒でパンパンと音をさせたあと、鉄のフライパンに火をいれて、いちばん先にニンニクを焼いたと思う(ガーリックライスをあとで食べたから)。焦げた乳臭い香りがし出すと、青朱色の煙が、もわっと上がって、換気扇の音がカタカタと激しく鳴っていたのを覚えている。ふんふんと、ほがらかに調理をしていた。

 父が、ニコニコして運んできたのは、白いオバール皿にのった湯気がたつビーフステーキ。にんじんとポテトの付け合わせや、カレー風味の酢キャベツ、オニオンスープもあった。赤身の噛みごたえのあるたくましい肉だった。バターの香りにプンと洋酒の風味がし、これが欧風料理というものかと。男の焼く肉を食べた気がした。小学生には量が多かったが残さず食べた。美味しかったというより、嬉しかったのが先にきて……、いま、とても貴重なひとときを父と共有しているのだという緊張感を覚え、だらだら涙と鼻を流し、肉にかぶりついた。

 父は、男のくせにすごくチャーミングに笑う。肩を大袈裟にあげて喜ぶ。そして、うまいものを、味わう時の父の口元が、わたしは好きだった。口角をクイっとあげ、目が輝いていた。

「お前は筋がいいはずだ。料理は舌が肝心、一発で味をつけること。迷ってはダメだ」と伝えてくれた。

 ある時。母が、いとこの誰それや、近所の誰それのようにどうして出来ないのとこぼすと、私をそっと呼びよせ、「お前は○○ちゃんや、○○ちゃんとは比べられない。なんたって有形無形の力があるからな。全然彼女らとは違うんだ」と励ましてくれた。

 私が、大学を卒業し、広告会社に就職した時には、自分の旅館を取材した新聞のスクラップをどーんと見せて、「プロの仕事とはこういうものだ。たった1時間話しを訊いたくらいで、ここまで書けるんだ。お前くらいの文章が書けるものは五万といる」と諭した。

 新聞や雑誌記事の中の父は、豪傑で人徳があり、侍のように勇ましい人に思えた。真冬の手脚がしばれるような寒さのなか、地元香住の漁師が火を焚いて、蟹の甲羅に酒を入れて飲み、身体を温めていたという父が話したエピソードを元に、「練炭の炭火で焼く焼ガニ考案した料理長」と紹介されていた。

 書くとは、人の生き方を、あるいは魂の躍動感を言葉に写しとる仕事であると、私はその時、感じた。

 父が亡くなったのは、それから二年後。はや三十五年になる。

 私は葬儀の祭壇の最前列、真正面に座布団を置いて、あの蒸せるような初夏の正午、実家の奥の間で父の遺影を睨んでいた。固く握りしめた拳の上にぽたぽたと水鼻が落ちた。私は雨に打たれた幼子のように、精一杯父にむかって言葉にならない声で語り掛けていた。父はよく生前に言ったのだ。「自分の生きていた、あかしを育てたい」と。晩年はそのための模索の日々だったに違いない。お父さん、必ず、あなたという人間を、文字の世界で生かしてみせます。

 ま、私の先祖に文人墨客がいたかどうかは、ともあれ。父から、命をつなぐ上で欠かせない〝食す〟への飽くなき探求と、人を深く誠実に思う心を受け継いだ、とすれば。これ以上の灯台はない。


                            (了)




















#創作大賞2023 #エッセイ部門

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