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私のまわりはヒントに溢れているが、それらは答えにつながってはいない


映画『インセプション』のように夢のなかの夢に迷い込むことが時々ある。幼少期は夢と現実の区別はいったいどうやってつけているのだろうか、私が見ている現実は実は夢のなかで、周囲とずれているのではないか、と勘繰ったものだ。
(たとえば私がまさにお風呂に入ろうと洋服を脱いでいたとして、本当の現実は学校の教室で、そうなると私はみんなの前で突然洋服を脱いでいるという耐え難い現実に私だけが気づいていないのではないか、といった疑念。)

一方、現実と認識しているなかにもそういったことはあって、妄想癖が強いために、頭のなかで描いた妄想が実際に起きたことなのか区別がつかなくなることがある。(病的な程度のことではなくてのことだが。)

劇中劇のように私は私を演じているし、それが現実と妄想と夢のなかを行き来しているうち、演じている私こそが私自身なのか、本当だと思っている私は、理想や妄想や、あるいは失われてしまったものなのか、と問い続けながら、他者のなかにある自分自身と自分自身のなかにある複数の自分自身を確認し続けるのだろう。

何故、こんな観念的なことを考え、そして書き記しているのかというと、理由はふたつある。

ひとつは、先日或る映画を観て、1週間ほどかけてようやく何となくの理解と感想を得たからということ。
(色はとても綺麗だったけれど、何とも意味の伝わらない内容だった。もしかすると、大したメッセージなどなく、いわゆる映像美とウィットに富んだ表現をもって観客に深読みをさせること自体が狙いだったのかもしれない。)

もうひとつは、自分から見えている自分自身と周囲から見えている自分自身との一致と不一致、そして特定の人について私が思っていることと、周囲が思っていることの一致と不一致についての思考の断片が随分と積滞して整理がつかなくなったことの2点だと思う。

考えなくても良いこと、考えても答えの出ないことを上手く操ると、それは人生に豊かな色をつけ、深みを出すことになる。
一方、それらを上手く操ることが出来ないと、枷となり、あるはずの道に靄をかけることになる。
別にこんなことを考えなくても生きてはいけるし、考えない方が上手く生きることができるだろう。豊かさは有意味な事柄や楽しいことでいくらでも得ることができるのだから。私自身、好きでこんなことを考えているわけではない。自身の性質や傾向は望んだものでは決してないし、これは賞賛されるような特別でもないし、特別なことでもない。ただ、持て余しているだけなのだ。

どこまで考えても、何も分かっていないのだと思う。経験や知識を得ると何もかも分かったような気になって評論したり、分かっていることを殊更示したくなるようだ。ただ、余程の新発見でもない限り、市井の人間が評することや分析したことは、ほとんどの人間も理解し、そう思っている。なので、それを偉そうに言葉にすることにはほとんど意味を持たない。(と私は思っている。そして、このこともまた私が言わずして多くの人が理解していることにすぎない)

自分自身とは違う見た目や考え、いわゆる「未知との遭遇」を果たした時にどう捉え、どう行動するか、それは常に試されているような気がする。
拒絶や反発、挫折などもあるだろうし、簡単に受容することが正しいとも限らない。何を感じ、考え、フィードバックしていくのかは自分次第でありつつ、試されている。

「同じことを言い続ける」
変わらずにブレない人か
味のしないガムを嚙み続けているかのようだと呆れられるのか
見る人の見る角度によって大きく異なる。

世界は常に変容している。
私は私を疑い続けるし、変容しようともがき続けている。
だが、成長というのは難しい。
私はいったい何者だろうか、と考え続けること
それ自体が実は疑わしいのかもしれない。

たんなるにっき(その152)

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