見出し画像

古典作品の再建―写本作業と伝存文献の本文批評について―

古典作品と言語研究

 ラテン語は古代から豊富な文献資料を伝えている。
 学習者の興味を引くのは古代作家の神話詩・戦記・歴史書などの書物テキストだろう。
 そうした作品の多くは十分な長さを持ち、語彙や文構造も多彩であり、神話・芸術・歴史研究のみならず、言語学上も大きな役割を発揮する。

 (3/17/18の記事で触れたように)文字記録だけが言語のすべてではないが、それでも書物は重要な情報源となる。
 記録にない時代の言語を再建する試みも広く行われているが、やはり古い文献資料という補助線があるのとないのとでは大違いである。


書物の伝承

 しかし――ここであえて考えてみてほしい。
 たとえば2000年以上前に活躍した将軍カエサルは『ガッリア戦記』という有名な著作を記したが、その自筆原稿は今も残っているだろうか?

 答えは否である。
 カエサル自らが筆を取ったか口述して秘書官に筆記させたかはさておき、原本自体はあったはずだが、それはとうの昔に跡形もなく隠滅した。
 失われた経緯は不明だが、少なくともどこかに残っているという話はまったく聞かない。
 当然電子機器によるコピーなども存在しない。

 にもかかわらず著作が残っているのは手作業で書き写された写本という複製品が伝えられてきたからである。
 印刷機のない時代、古典はそうして命脈を保ってきた。
 しかしそこには当然、写本作業の正確性判断(本文批評)という問題がついて回る。

 今回はカエサルの『ガッリア戦記』とウェルギリウスの『アエネーイス』を中心にそんな写本の妙と伝存テキストの評価の話をしたい。
 (引用したラテン語・ギリシャ語文献の翻訳はすべて執筆者が行った)。


写本の制作

 物によっては今でもそうだが、人類史において書物は長く貴重品だった。
 印刷技術がなく識字率が限られる時代・地域ならなおさらで、紙の希少性もそれを後押ししたことだろう。

 ローマ最大の詩人と讃えられたウェルギリウス(前70-前19)には英雄叙事詩『アエネーイス』という代表作があるが、その第2巻の原本(と考えられたもの)は死後しばらくしてから相当な高値で取引されたというエピソードが残っている(後2世紀中葉の作家アウルス・ゲッリウスが言及。小林2006, p.243)。
 この作品も原本はまったく残っていない。

 幸いなことに『ガッリア戦記』や『アエネーイス』などは当時から人気作で需要も大きく、繰り返し写本が作られ現代にも伝わった。
 しかし手作業で写す以上、常に誤字脱字や改竄の可能性が付きまとい、一般的に時代が下り複製の回数が増えるほど信頼性は低下していく。
 当然古く原典に近い写本を使いたいところだが、そうなると今度は古いものほど残存状態が悪い傾向にある、という問題に悩むことになる。

 国原訳(2009, pp.389-390)によると、カエサル(前100頃-前44)の著作の写本はどんなに運が良くても後3~4世紀頃のものしか残っておらず、主要な写本11種は後9~12世紀のものでしかない。
 文脈からして後3~4世紀のものは断片程度しか伝わってないのだろう。


文献の欠損・散逸・断片

 補足ながら『ガッリア戦記』や『アエネーイス』は写本であれば一応は全体が伝わっているが、部分的にしか残っていなかったり本文がほぼ完全に失われたりした作品も珍しくない。

 前1世紀の高名な学者ワッローの『ラテン語について』(Dē Linguā Latīnā)は原文サイトにも第5巻~第10巻とその他の断片しか載っていない。
 全25巻のうち6巻分と少ししか残っていないからである(LL原文参照)。

 後1世紀の名高い歴史家皇帝クラウディウスは『エトルーリア史』や『カルターゴー史』を書いたが本文は散逸してしまった。
 残っていればエトルーリアやカルターゴーの研究はもっと捗っていただろう、とはよく聞かれる声である(パロッティーノ2014など)。

 意外な事例として作品自体が失われても他者の著作の中に引用・要約の形で一部が残っていることなどもあるが、その多くは断片的なものでしかない(また引用の正確性も問題になる)。

 文献は言語のすべてを伝えているわけではなく、しかも残存しているものはその一部にすぎない。
 このことも決して忘れてはならない前提である。

 蝋板、パピュールス(パピルス)、羊皮紙などの記録媒体の性質や写本継承の詳細については今回は詳しくは触れないが、機会があれば言及したい。
 とりあえずはギリシャ・ローマ時代において羊皮紙より相対的に手に入れやすく好まれたパピルスは耐久力が低く失われやすかった――といったことは覚えておいてほしい。
 記録媒体の性質、実物の解析、写本継承の問題も含めた文献学全般についてはアーマン(2006)及び小林(2006, pp.241-256)などに解説がある。


ここから先は

6,323字 / 2画像

¥ 150

もしサポートをいただければさらに励みになります。人気が出たらいずれ本の企画なども行いたいです。より良い記事や言語研究のために頑張ります(≧∇≦*)