自己ではなく人のためにが究極の形

「障害者の学校を立てたいんすよ。それが僕の夢です。」
バイト先でそう話す元プロサッカー選手の人にあった。

彼は昔から子供が好きで幼稚園の体育の先生(そんなんがあるの知らんかった笑)や支援学校で先生をした事があるらしい。
そのエピソードがおもろい。

幼稚園の先生では、ボール遊びを教えたらしい。
しかしこれが大変。最初はほぼ動物園。誰もゆうことを聞かないらしい(笑)
しかし、これが最後終わる頃にはみんなに集合をかけると一斉に集まってくるぐらいに成長。
ボール遊びも、まともにキャッチ出来ない状態から、上にボールを投げて手を叩き、キャッチできるまで成長。
どんだけ子供からの人望が厚いんだ(笑)

本人は関西弁がウケがいいと言っていたが、それ以外の要因もありそうだ。


支援学校では、バイオハザード。急に噛みつかれたりするらしい。
そいう子は、ちょっとしたことで、イライラし感情的になる。例えば、ブロック遊びで思い通りのものができないだとか。

そういう子供も、この人にかかれば、挨拶ができるまでに成長させれるそう。マジですごい。

親も今までできてなかった事ができるので、毎回驚くそう。

で、噛みつかれたり、物を投げられたりする事に本人はオモロいと感じるらしく、全く負の感情を伴ってる感じがない。

そして、本当に感情的になる自分の子供に困る親は、精神的に病んでしまっている事があるらしい。
そう言う人も助けれるのは、やりがいだと言っていた。

「めちゃくちゃいい生き方をしているな。」「本当彼にとって転職なんだろうな」
話を聞きながらそう思った。

で、ここで感じたのは、彼の他人のために時間を投下して成長させてあげることの成功体験より、やりたい事に代わっていることである。

一方僕は逆だ。他人のために、と言う名目より自分の成長が優先の軸としてある。その先に他人の利益である。

誰かのためにを長期間にわたって、自分にリターンのない中ひたすらやる事は、出来ない。この点がこの人との大きな違いであり、自分に足りない価値観?考え?というより行動なのかな?と感じた。

というか、こんな他人のために時間を前ブッパし出来る人がいることに驚いたし、本人はそれを本当に楽しんでいる感じがした。
これがここ最近、自己投資への時間をどうやって確保するかを常に考えている自分からしたら驚きだった。

なんで他人のために?!というより、他人のためにが、自分の生きがいになっているというか、うまく言語化できないが、これが究極の形なんだろうなと感じた。

マジでリスペクト。
今自分は自分のために時間を使っている。それがこの人と違って、間違えだとは思わない。それは自分のやりたいことだから。
でもいずれは、こっちの他人ために心から裂ける時間?を増やせるようにしたいと思った。

でもこれはもしかしたら、育った環境による違いがあるのかもしれない。

他人を成長させた成功体験と自分ができるようになった成功体験。
この環境の差だけで、無理に他人の成長の方に寄せる必要はないのかもしれないが、そういう時期が来たら、もうちょい深く考えてみたいと思う。

間違いないのは、どちらも違った形の幸せであり、今は後者の自己投資への時間を大切にしていきたいと思う。

まとめると、バイト先に自分とは違うタイプ「他人を成長させる人」が来た。
具体的には障害持ちの人のできないことを出来るように変えていく。

これが自分にはない箇所で刺激を受けた。
刺激による考察は3つ
•自分に時間を使うのではなく、他人に時間を使って幸福
•自分もいつか他人側にシフトするのか?
•それぞれ育った価値観で環境が変わったのだろう

この3つの考えが頭を今も巡っている。
まだうまくまとめれてないが、色んな人との刺激を通して、うまく言語化していきたい。


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