見出し画像

恋することは、友愛のある種の超過。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第9巻 友愛(続き)

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。


(第8巻の感想でも書いたが、友愛の巻は、時間を越えて説得性の高い部分だ。この9巻のまとめでは、いくつかのポイントに絞ってとりあげる)

一つ目が好意と友情関係だ。

両者は似ているようで違う。好意は一方的で、友情は相互作用だ。そして、好意は「愛すること」でもない。好意には緊張も欲求も見られないが(競技者に一気に好意を寄せるように)、愛することには、それらがあり親密さもある。

好意は友愛のはじまりとは言える。相手の容姿をみて悦びを覚えても、それだけでは恋することにならない。相手の不在で相手を欲するとき、恋が芽生える(友愛のある種の超過でもある)。しかし、この段階は一方的であるため、相互作用を伴う愛することには至らない。

二つ目が協調と友愛感情だ。

協調は意見の一致ではない。意見の一致は知らない人同士でもおこりうる。協調とは社会的な友愛である。全体にとって利益になるもの、生活に関係するものに関わる。このような協調が品位のある人たちの間でみられる。他方、低劣な人たちは、自己の利益を優先し、労苦や公共奉仕に不熱心で隣人のなすことを妨害する。

三つ目は愛情の度合い。

1)すべての人にとって、存在することは望ましく、かつ愛されるもの 2)我々が存在するのは活動によって(生き、活動することによって)3)作品は、ある意味で、活動における製作者そのもの 4)製作者は、自分が存在することに愛情を抱くために、自分の作品に愛情を抱く。

快いのは、現在の活動であり、未来への希望であり、過去に関する記録だが、最も快いには、活動に基づくもので、同様に愛されるものでもある。これが幸福を導く。

こうして相手に良くした者にとって作品は存続するが、よくされた者にとっては有用なものは消え去る。美しいものについての記憶は快いが、有用なものはあまり快くない。

愛することも何かを作り出すことに似る。愛されることは、何かを身に受けることに似ており、相手をよくする人たちには、愛すること、および友愛感情が伴っている。そして、誰でも自分が労苦を注いで達成したものに一層愛情を感じる。

その第一歩が、自分自身を愛することだ。そのうえで、幸福になろうとする人は、立派な友を必要とする。

<わかったこと>

上記にはとりあげなかったが、以下の文章がある。

債権者が、債務者について愛情を抱くことはなく、債権者の身の安全を願うのも、債務者からの返済のためだからである。

ここで、ひとつ、思い出したことがある。イタリアで仕事をはじめた30年以上前、債権者の債務者に対する態度の日伊の違い、あるいはビジネス紛争における態度の日伊の違いに気が付いた。

ぼくが日本のビジネスの現場で経験していた紛争では、「啖呵を切る」ことがかなり重要と見られていた。債権者はしつこく債務者を責め立てる。飴と鞭でいえば、鞭を優先する。例えば、「あなたとはもうビジネスができない。だから、ここで清算していただきたい」とのアプローチをとりやすい。

しかし、イタリアにおいて異なった対応をとるシーンに何度か遭遇した。「あなたとは長く取引を継続したい。だから、ここでいったん、清算しておいておきましょう」とソフトに投げかける。しかし、ハナから継続した取引など考えていないのだ。清算がされた段階で縁を切る。

ぼくが学んだ外交術というか交渉術の一つだ。

また、恋愛や結婚は相手を動物的に掴んでおきたいとの欲求があるかどうか、これが鍵であるともイタリアに来てより学んだ。アリストテレスのいう美しさを求める友愛の根底に、知性を越えた動物的な欲求が(良い作用として)発揮できるかどうか、この領域で心得るべきことだろう。

冒頭の写真©Ken Anzai



この記事が参加している募集

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?