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Re:1Q84 BOOK1,2

1. もうどこにも存在しない物語

 『1Q84』は今でこそBOOK1,2,3で一揃いの物語として認識されているが、刊行当初は決してそれが当たり前ではなかった。
 そこには、まずBOOK1,2の二巻が同時に出版されて、続編の有無については何の言及もない、という時期がおよそ半年ほどあったのだ。
 
 そのごく短い期間だけ、人々は『1Q84』を(読み終わったあとにどのような感想を抱くかは別として)とりあえずは二巻完結の物語として手に取ることができた。
 別の言い方をすれば、そのごく短い期間だけ、『1Q84』BOOK1,2で完結した物語がこの世界に存在していたのだ。
 
 なぜ三巻同時でもなく、一巻ずつでもなく、二巻だけが先行して出版され、そのおよそ一年後に三巻めが出版されるという形になったのだろう?
 なぜ当初から続編のアナウンスがなされなかったのだろう?
 話題性、執筆の遅れ、観測気球、作者の気分、出版社の事情などさまざまな憶測が可能ではあるが、今にして思えば、先の状況を作り出すことこそがその目的だったのかもしれない。
 つまり、はじめに『1Q84』BOOK1,2で完結した物語世界が存在し、その後その世界がBOOK3の出版によって、『1Q84』BOOK1,2,3の物語世界に置き換えられるという状況を作り出すことが。

 『1Q84』に出てくるキーワードのひとつに「多義性」というものがあって、その言葉どおり、物語内では様々な人物や事象が多義的な意味合いを帯び、その多義化・重層化は『1Q84』の物語世界そのものにも及んでいる。
 その多義的・重層的な物語としての『1Q84』を完成させるために、そのような奇妙な状況を必要としていたのではないだろうか?
 これは今となってはほとんど不可能な読み方だが、幸運にも私たちには「たら」「れば」に代表される反事実的空想力とでも呼ぶべきものが備わっている。
 さあ、ここはひとつ騙されたと思って、私につきあってその空想力を行使してほしい。

「もしBOOK3が出版されていなかったら」
「もし『1Q84』が二巻完結の物語であったなら」
 そのとき『1Q84』BOOK1,2は、あなたの目にはどのような物語として映るだろう?

 以下の読解は『1Q84』BOOK1,2というひとつの物語がこの世界に存在したごく短い期間に書かれたものだ。今回noteに投稿するにあたっていくらか加筆修正したが、その大筋は変わっていない。
 その時期に『1Q84』を読む僥倖に浴した一人として、かつてそこに存在した稀代の光景へとあなたを案内したい。

 うまくいけば、あなたはそこで空気さなぎの本当の意味を知ることになるだろう。


2. パラレル・ワールド、あるいは、ねじれの感覚

 『1Q84』を初めて読んだときに強く引っかかったのが、そのパラレル・ワールドのような舞台設定だった。
 私は、物語を読むということはひとまず物語を与えられたままに受けとることだと思っている。その際に重要な役割を果たすのが舞台設定だ。
 舞台設定は、いわば物語という料理を盛るための皿のようなもので、皿なしには料理を受けとるどころか盛ることさえできない。

 しかし、こと『1Q84』に関しては、私はその料理が盛られた皿をうまく受けとることができなかった。
 なぜだろう?
 受けとる手の感触を頼りに話すなら、おそらくその皿が割れているか、少なくとも大きなひびが入ってグラついているからだ。
 右側を持つと左側が落ちそうになり、左側を持つと右側が落ちそうになる。そこで仕方なく、私は両手を使って皿をなんとかひとつに保つように微妙な力加減をしながら持つのだが、しかしそれでもうまくいかない。
 今度はなんらかの力がその皿を突き崩そうするのだ。しかも、どうやらその力は料理の内側から来ているようだ。

 具体的に見ていこう。
 物語の序盤で、青豆はその世界がパラレル・ワールドなのではないかという仮説を立てて、その世界を「1Q84年」と名付けている。
 彼女がそう考える理由は明らかで、「警官の制服と拳銃」、「月面基地」、「さきがけとあけぼの」、「NHK集金人の事件」など青豆の知る過去の事実が変更されているからだ。
 とてもパラレル・ワールド的だ。

 BOOK2の第13章、青豆とさきがけのリーダーが会話するシーンで、このパラレル・ワールド仮説はリーダーに一笑に付され否定されるが、それに続く彼の言葉はむしろパラレル・ワールドの分岐点とその結果分岐した二つの世界「1984年」と「1Q84年」の違い(一部の人に二つの月が見える、リトル・ピープルなるものがいるetc.)について説明しているように聞こえる。

「1984年はもうどこにも存在しない。君にとっても、わたしにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」

1Q84 BOOK2 p272

というリーダーの言葉も、「1Q84年世界の住人にとっては、もはやパラレル・ワールドではない 」と言っているだけで、外側から見ればやはりパラレル・ワールドと言うほかないように響く。

 では、「1Q84年」がパラレル・ワールドであった場合、「1984年世界」と「1Q84年世界」の分岐のポイントがどこにあるのか、青豆とリーダーの会話とふかえりの小説『空気さなぎ』を手掛かりに少し整理してみよう。

 すなおに考えるなら、二つの世界が枝分かれしたのは、7年前に死んだ山羊の口からリトル・ピープルが出現した時点だろう。
 小説『空気さなぎ』にも、”リトル・ピープルが山羊の口から出たときに、世界のルールは既に変更されてしまったのだ。”(BOOK2 p403)と記されている。

 7年前のリトル・ピープルの出現によって、世界は「1984年世界」と「1Q84年世界」に分岐し、そして7年後の今、「1984年世界」に住む一部の人々が「1Q84年世界」へと迷い込んでしまった(一部の人々の時間性が切り替えられた)。そして、その一部の人々にだけ二つの月が見えている、と考えれば物事のつじつまも合いそうに思われる。

 が、そうは問屋が卸さない。

「場所はどこでもかまわない」と男は言った。「君にとってはとれは三軒茶屋だった。でも具体的な場所が問題になっているわけではない。ここではあくまで時間が問題なんだ。言うなれば線路のポイントがそこで切り替えられ、世界は1Q84年に変更された」
【中略】
「そしてこの1Q84年にあっては、空に月がふたつ浮かんでいるのですね?」と彼女は質問した。
「そのとおり。月が二つ浮かんでいる。それが線路が切り替えられたことのしるしなんだ。それによって二つの世界の区別をつけることができる。しかしここにいるすべての人に二つの月が見えるわけではない。いや、むしろほとんどの人はそのことに気づかない。言い換えれば、今が1Q84年であることを知る人の数は限られているということだ」
「この世界にいる人の多くは、時間性が切り替わったことに気づいていない?」
「そうだ。おおかたの人々にとってここは何の変哲もない、いつもの世界なんだ」

1Q84 BOOK2 p272

 この青豆とリーダーの会話からわかるのは、時間性を切り替えられたのは一部の人々だけではない、ということだ。
 この1Q84年にいるすべての人がそこで時間性を切り替えられたのだけど、ほとんどの人はそのことに気づいていない。二つの月が見えて、時間性が切り替わったことを自覚できている人はごく少数だとリーダーは言っているのだ。

 仮に青豆や天吾を含む一部の人だけが「1984年世界」から「1Q84年世界」に入り込んでしまっていて、その他大勢はもともと「1Q84年世界」の住人だったとしたら、7年前分岐説は維持できただろう。
 しかし、その他大勢の人々まで青豆と同時に時間性を切り替えられたのだとしたら、話は変わってくる。
 「1Q84年世界」の住人全員が四月初旬、冷たい風の日の午後四時ごろに時間性を切り替えられてその世界に入り込んできていたのだとしたら、午後四時以前の「1Q84年世界」にはいったい誰がいたというのだろう?
 これではまるで、午後四時以前には「1Q84年世界」は存在しなかった、つまり、その午後四時時点で世界は「1984年世界」と「1Q84年世界」に分岐したと言っているかのようだ。

 だけど、そのように仮説を変更してみたところでうまくつじつまを合わせることはできない。
 今度は「警官の制服と拳銃」、「月面基地」、「さきがけとあけぼの」、「NHK集金人の事件」などの過去の出来事の変化が説明できなくなるだけだ。

 青豆の提示したパラレル・ワールドの仮説が正しいと仮定した場合、候補としてあげられる世界の分岐点は「七年前」と「四月初旬の午後四時ごろ」の二択だ。
 しかし、どちらを採用したところで、1Q84年という世界をうまく説明することはできない。
 その原因は、過去の出来事における分岐点と人々の時間性における分岐点が大きく(およそ七年)ずれてしまっているからだ。
 リトル・ピープルはなぜこんなよくわからないポイントの切り替え方をしてしまったのだろう?
 こんなことをするくらいなら、七年前に山羊の口から出てきた時点で人々の時間性も切り替えておけばよかったのだ。
 そうすれば、青豆も自分の知る過去と実際の過去が違っていることに戸惑う必要もない。わざわざ図書館に行って新聞を繰る必要もない。
 小説としても、それらいくつかの場面が削られるだけで、特に大きな変更を迫られることなく既存の1Q84のストーリーを展開できる。
 見える人にだけ月が二つ見えて、リトル・ピープルが暗躍する世界。
 とても村上春樹的だ。

 こう考えると、小説『1Q84』にとって、パラレル・ワールド的設定は一見不要なものに思えてくる。
 それは青豆を世界から孤立させる手段としては有効に機能しているけれど、それ以上に全体に与える齟齬が大きい。
 一見不要に思えるにもかかわらず、それはくりかえし描写される。
 青豆は何度もそこが元の世界ではないことを自覚する。
 天吾もときどきねじれの感覚に襲われる。

 不要であるにもかかわらず、くりかえし語られること。
 おそらく私たちはそこから目をそらしてはならないのだろう。
 不要なことが語られるからこそ、そこには重要な意味がある。
 私も1Q84を読みながら、こんなややこしいことを考えていたわけではない。ただ、読みながら随所に感じていた違和感を整理していくと、こういうことになる。
 まずはこの違和感を共有してもらいたい。あるいは、このねじれの感覚を。
 1Q84においては、このねじれの感覚からすべてが始まるのだから。

 青豆も、天吾も、そして私たちも。


3. ものごとのあるべき姿を目にするために

 では結局、「1Q84年」とはいったいどんな世界なのだろう?

 四月初旬の冷たい風の吹く午後四時ごろから突然始まっていて、それなのに現実世界と同じような(少しだけ異なる)過去を持つ世界。

 まるでなぞなぞのようだ。

 ある時から突然始まっていて、それなのに現実世界と同じような(少しだけ異なる)過去を持つ世界、なあ~んだ?

 このなぞなぞに答えようとして、どこかにヒントや手掛かりはないかと『1Q84』のページを次々めくってみても、これ以上のものはなかなか見つからない。
 しかし、やがて考えあぐねて、そのページをめくっていた本をパタンと閉じたとき、答えは私たちの前に現れる。「1Q84年」とは○○だ、とまでは書かれていないが、その答えのうえにちゃんと「1Q84」と明記された状態で。

 そう。「1Q84年」とは小説『1Q84』のことなのだ。

 これ以上ないくらい当たり前で、しかしだからこそ気づきにくい。
 1Q84はけっしてパラレル・ワールドではない。
 物語なのだ。

 第一章の ”タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた”(BOOK1 p11)時点から突然始まっていて、それなのに現実世界と同じような、しかし少しだけ書き換えられた過去を持つ世界。それが『1Q84』という物語であり、青豆が入り込んだ世界だ。

 この冒頭のシーンで、今から高速道路の非常階段を降りようという青豆に、タクシーの運転手はこう助言する。

「それから」と運転手はルームミラーに向かって言った。「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」
【中略】
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけに騙されないように。現実というのは常にひとつきりです」

1Q84 BOOK1 p22

 運転手の言うとおり、『1Q84』という小説における現実ははじめから『1Q84』の物語世界ひとつきりであり、決して高速道路の非常階段を通過する前後で世界が切り替わるわけではない。

 青豆の時間性があの四月初旬の午後四時ごろ切り替わったというのも、言ってみれば、物語は物語の始まるところから始まるものであり、そして青豆は物語の登場人物として、物語の始まりから、物語の中へと入っていった、ということに尽きる。
 非常階段は、青豆が物語の中へ入ったことを示す、遅すぎるメタファーにすぎないのだ。
  
 青豆と一緒に物語の中へと入っていく人が他にもいる(天吾ではない。天吾については後述するが、その話はもう少し込み入っている)。
 それは、私やあなた、つまり読者だ。
 青豆は読者とともに1Q84に入っていき、そして物語の全体にわたって読者的な視点を持ち続けることになる(物語開始時点の時間性の変化を意識したり、過去の書き換えに気づいたりする)。
 読者的な視点を持つ青豆のおかげで私たちはスムーズに1Q84の中へ入っていくことができるわけだが、その一方で青豆が物語の内側に読者的な視点を持ちこんで、世界に疑問を持ち続けることによって、1Q84は自らが物語であることに自覚的な物語、自らが物語であることを主張しつづける物語となっているのだ。

 過去の事実の変更も「1Q84年世界」が『1Q84』という物語そのものであるという視点に立てば途端に当たり前のことになる。天吾の小説の書き方を見るまでもなく、過去の事実を書き換えるという作業は物語を書く際の常套手段なのだから。
 「1Q84年世界」がパラレル・ワールドではなく物語であるなら、書き換えられた出来事の起きた時期と青豆の時間性が切り替わったポイント(=物語開始の時点)が異なっていることもまったく問題にならない。ここには「分岐のポイントはいつか?」という論点をさしはさむ余地はもうどこにもないのだ。

 ここでひとつ注意しておきたいのが、物語において事実を書き換えることのその意味だ。
 天吾は、物語世界がここではない世界であることの意味を問われてこう答えている。

「ここではない世界であることの意味は、ここにある世界の過去を書き換えられることなんだ」と天吾は言った。
【中略】
 彼女は首を振った。「私は過去だとか歴史だとか、そんなものを書き換えたいとはちっとも思わない。私が書き換えたいのはね、今ここにある現在よ」
「でも過去を書き換えれば、当然ながら現在だって変わる。現在というのは過去の集積によって形作られているわけだから」
 彼女はまた深いため息をついた。そして天吾のペニスを載せた手のひらを何度か上下させた。エレベーターの試運転でもしているみたいに。「ひとつだけ言えることがある。あなたはかつての数学の神童で、柔道の有段者で、長い小説だって書いている。それにもかかわらず、あなたにはこの世界のことがなんにもわかっていない。何ひとつ」

1Q84 BOOK1 p552

 金曜日のガールフレンドがたしなめているとおり、物語の世界がここではない世界であることの意味は過去を自由に書き換えられることにはないし、物語世界の現在とは、過去を書き換えた結果、その集積として書き換えられるものでもない。

 物語を書くにあたってまず行われるのは、物語の舞台となる現在の状況を設定すること、すなわち現在の書き換え(一次的な書き換え)であり、次いで、そこから逆算して、現在がそうであるために要請される過去の書き換え(二次的な書き換え)がなされるのだ。

 つまり、「私は先月宝くじを買った」と過去を書き換えると、その結果として「今日一億円が当たった」というふうに現在も書き換わるのではなく、
まず物語の舞台として「私に一億円が当たった」現在を設定する(現在を書き換える)と、現在がそうであるために「私は先月宝くじを買った」などのように過去を書き換える必要が生じる、ということだ。
 また、そうやってひとたび過去を書き換えると、今度はその新しく現れた過去から因果論的に「私に一億円が当たった」とは別の結果も引き起こされることになる(三次的な書き換え)。
 先の例でいけば、「私は先月宝くじを買った」と過去を書き換えた結果、本当であれば当たりくじを買うはずだった誰かは外れくじをつかまされることになったはずだ。
 そのわずかな誤差は先に行くにしたがって少しずつ膨らんでいき、ときとして作者さえ思わぬ場所に物語を運んでいくこともあるだろう。

 以上のように、物語における事実の書き換えには、作者の意思を直接に反映した「一次的な書き換え」、その一次的な書き換えのつじつまを合わせるために過去へと因果を逆行する形で要請される「二次的な書き換え」、その二次的な書き換えを原因として、今度は因果を順行する形で副次的に発生する結果としての「三次的な書き換え」の三つがあって、先にあげた例でいえば、「さきがけとあけぼの」が二次的な書き換え、「警官の制服と拳銃」、「月面基地」、「NHK集金人の事件」が三次的な書き換えにあたる。
 それぞれの書き換えがどのような因果のもとに要請されたのかについては、随時後述したい。

 さて、話をもとに戻そう。

 1Q84が物語だと気がついてから『1Q84』を読み返してみると、それらしきことがあちこちに書かれているのが目につくだろう。
 それはもう物語が始まる前から明示されている。

ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる

1Q84 BOOK1 p1

 今ならこの1行目の意味がはっきりとわかる。
 タマルも言う。
 チェーホフの拳銃のくだりで、「でもこれは物語じゃない。現実の話よ」と指摘する青豆にタマルが答える場面だ。

タマルは目を細め、青豆の顔をじっと見つめた。それからおもむろに口を開いた。「誰にそんなことがわかる?」

1Q84 BOOK2 p33

 天吾も二つめの月を目にして、その可能性に気づいている。彼はみんなからさんざんわかっていない人呼ばわりされるけれど、そのわりには重要なことによく気がつく、よいレシヴァだ。

ということは――と天吾は自らに問いかける――ここは小説の世界なのだろうか? おれはひょっとして、何かの加減で現実の世界を離れ、『空気さなぎ』の世界に入り込んでしまったのだろうか。ウサギ穴に落ちたアリスみたいに。それとも現実の世界が『空気さなぎ』という物語にあわせて、そっくり作り替えられてしまったということなのだろうか。もともとあった世界は――ひとつの月しかないお馴染みの世界は――もうどこにも存在しないということなのだろうか。

1Q84 BOOK2 p426

 また、1Q84が物語だと了解することで、さきがけのリーダーの不可解な発言も理解しやすくなる。

「ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に進行しているというようなことじゃないんだ。1984年はもうどこにも存在しない。君にとっても、わたしたちにとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」

1Q84 BOOK2 p272

 たしかに、物語の登場人物にとって世界といえばその物語世界しか存在しないし、また、それは決して一般的な意味でのパラレル・ワールドではない。

「おおかたの人々にとってここは何の変哲もない、いつもの世界なんだ。『これは本当の世界だ』とわたしがいうのは、そういう意味あいにおいてだよ」

1Q84 BOOK2 p273

 おおかたの人々とは、物語の外とのつながりなど持たず、それゆえそこが物語の中かもしれないなどとは夢にも思わない無垢な物語の住人たちのことだ。

「もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ」「しかしそれは簡単なことではない」

1Q84 BOOK2 p282

 この発言は、直前のパラレル・ワールドを否定するセリフと矛盾しているように聞こえるけど、「世界」を「物語」に置き換えれば矛盾はなくなる。
 1Q84という物語の中で青豆と天吾が結ばれることはない。歓迎すべき解決方法は二人が手に手を取ってこの物語から出て別の物語の中で幸せに暮らすことだ。しかしそれは簡単なことではない、と彼は言っているのだ。
 言われるまでもなく、それは簡単なことではない。

 初めて読んだときにはどうにも要領を得ないことばかり言うように思えたリーダーであるが、こうして1Q84が物語であることを理解してから見返してみると、彼はリーダー(leader、導く者)の名にふさわしく、青豆や青豆を通して私たち読者を、1Q84の成り立ちについての正しい理解へ導こうと言葉を尽くしてくれていることがわかる。
 しかし、下記のシーンに象徴されるように、リーダー自身もまた1Q84の登場人物であることがその発言を限界づけていて、そのせいで青豆も私たちも理解に苦しむはめになっていたのだ。
 青豆が、自分と天吾が何らかの形ある意思に導かれ、目的をもってこの1Q84の世界にやってきたことを聞かされて、「それはどんな意思で、どんな目的なの?」と問う場面だ。

「それを説明することはわたしの任ではない」と男は言った。「申し訳ないが」
「どうして説明できないの?」
「説明ができないということではない。しかし言葉で説明されたとたんに失われてしまう意味がある」

1Q84 BOOK2 p279

 リーダーがときどき1984年の世界に言及することも話をややこしくする一因となっているが(たとえば「しかし、1984年の世界にあっては、君はそんな風に考えることすらなかったはずだ」など)、彼の言う1984年の世界とは、物語の外から見れば『1Q84』を書くにあたって参照された1984年であり、物語の中から見れば、1Q84年から遡って7年前のリトル・ピープルの出現がなかったらと仮定した場合に想定される1984年のことだ。
 後者の1984年はあくまで架空の1984年であり、前者の1984年は小説『1Q84』が出版された2009年時点ですでに記憶と記録の中にしかなく、どちらの意味合いにおいても、「1984年はもうどこにも存在しない」。

 リーダーの言葉の多くは、1Q84が物語だと気づくことで理解可能なものになるが、それでもいくつかは不可解なままに残る。
 その中でも特に異質なセリフがある。
 まずは青豆の質問から入ろう。

「天吾くんは、私が彼のために死んでいったことを、何かのかたちで知ることになるのでしょうか。それとも何も知らないままに終わるのでしょうか?」
 男は長いあいだその質問について考えていた。「それはおそらく君次第だ」
 「私次第」と青豆は言った。そしてわずかに顔を歪めた。「それはどういうこと?」
 男は静かに首を振った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ。それ以上のことはわたしにも言えない。実際に死んでみるまでは、死ぬということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」

1Q84 BOOK2 p290

 青豆はこのあと小説『空気さなぎ』を読み、自分が天吾の物語の中にいることを知る。
 「ものごとのあるべき姿」とはそのことだろうか?
 しかしそれでは「重い試練」の意味がわからなくなる。
 いや、そうでなくても、「重い試練」が何を指すのかは最後まで明らかにならない。
「実際に死んでみるまでは、死ぬということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」
 ここでいう「死」とは誰の死をさすのだろう?
 リーダーの死か?
 それとも青豆の死か?
 どちらにとっても全体の意味するところはわからない。
 興味深いセリフだ。
 でも、今の私たちはここにもうひとつの可能性を読み取ることができるはずだ。
 リーダーの死でもなく、青豆の死でもない、三つめの「死」の意味。
 世界=物語という視点に立ってはじめて見えてくる意味がある。
 物語の終わり、だ。
 実際に物語が終わるまでは、物語が終わるということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない。
 この三つめの可能性を通して、ようやく先のリーダーの不可解なセリフに対するひとつの解釈が浮かび上がってくる。
 物語の終わった後のことを、登場人物に向かって語るはずはない。
 そんなことには意味がない。
 では、「君次第だ」とは誰に向かって語られた言葉なのか。
 青豆は読者的視点を持つ。リーダーは導く者として発言する。
 であれば、「君次第だ」とはリーダーから、読者的視点を持つ青豆を通して、文字通り「君」へ、すなわち、物語が終わった後にも存在し続ける私やあなたへ向けて発せられた言葉なのではないだろうか。
 1Q84が終わった後のその先へと私たちを導くために。

 つまり「重い試練」は、1Q84を読み終わった後の、この私に、そしてあなたに課せられているのだ。

 長い序論ではあったが、私たちはようやく扉を見つけた。
 まずは歩を進めよう。
 天吾のために死を受け入れた青豆のその思いを彼に届けるために。
 ものごとのあるべき姿を目にするために。


4. ふかえりの空気さなぎと二つめの月

 私たちは重い試練をくぐり抜けなくてはならない。
 そしてそれをくぐり抜けたとき、私たちはものごとのあるべき姿を目にするはずだ。
 1Q84を読み終わった今、私たちはここをあとにする前に、どうやら1Q84を振り返らなくてはならないらしい。
 なぜ振り返る必要があるのか。その理由はさっきのリーダーの言葉だけではない。
 リーダーはこうも言う。

「原因と結果という論法はここではあまり力を持たない」

1Q84 BOOK2 p273

 天吾も言う。

「原因と結果がどうしようもなく入り乱れているみたいだ」
「どちらが先でどちらが後なのか順番がわからない」

1Q84 BOOK2 p455

 原因と結果が入り乱れている、この混乱した事態を収拾する方法はひとつだ。
 すべてが終わったあとで全体を俯瞰すればいい。そうしてものごとの因果関係を丁寧にたどるしかない。
 もちろん現実の世界ではそんなことはできない。ものごとには終わりというものがないし、私たちは俯瞰する視点を持たないからだ。
 だが、それが物語であれば、話は別になる。

 さあ、1Q84を振り返ろう。少しだけ特別な方法で。
 ものごとのあるべき姿を目にするために。
 まだ温もりが残っているうちに。

 
 因果のはじまりの場所は、青豆が教えてくれる。

すべてはこの物語から始まっているのだ。

1Q84 BOOK2 p421

 小説『空気さなぎ』を読み終わってすぐに、青豆はそう感じる。
 すべてはこの物語から始まる。
 私たちもこの仮定から歩き始めてみよう。

 『空気さなぎ』は、さきがけ内部の生活の描写からはじまり、そこにリトル・ピープルが現れて、ふかえりとともに空気さなぎを作る場面へと進む。
 空気さなぎの中に自分のドウタを見たふかえりは、そこに正しくないものを感じて、さきがけから逃げ出し、戎野先生のもとに身を寄せる。
 ここまでは他の場面でも多かれ少なかれ語られているエピソードだ。
 しかし『空気さなぎ』にはもう少し先がある。
 戎野先生のところで、ふかえりに友達ができる。しかしその友達にリトル・ピープルが害をなして、彼は失われてしまう。そして、ふかえりは自らの空気さなぎを作り始める。リトル・ピープルの秘密を解き明かして彼らに対抗するために。物語はふかえりが通路の扉を開けようとするところで、象徴的に終わる。
 『空気さなぎ』に描写されているものごとの大半は、ふかえりが身をもってくぐり抜けてきた紛れもない現実なのだ、と青豆は思う。
 私たちも青豆に賛成する。なぜなら私たちはそうであることをすでに知っているのだから。
 しかし、だとすれば、『空気さなぎ』には、私たちが知っていなければならないのに知らない事実が描かれているのではないだろうか。

 ふかえりが空気さなぎを作っている、というその事実だ。

 そんな描写は小説『空気さなぎ』のほかにはどこにも見当たらない。
 では、ふかえりの作った空気さなぎとはいったい何なのだろう?

 この問いをたてたときには、答えはすでに私の前にあった。
 もちろん、あなたの前にもある。
 それは逃げも隠れもせずに、ずっと1Q84の中心にあったのだ。
 ふかえりが作った空気さなぎとは何か?
 ありがたいことに、誰かががわざわざ名前入りのラベルまで貼ってくれている。1Q84年の世界の正体に『1Q84』と明記してあったのと同じように。
 ただ私たちが気づかなかっただけだ。
 ふかえりの作った空気さなぎとは何か?
 それは、小説『空気さなぎ』のことだ。
 小説『空気さなぎ』に記されていたあの物語のことだ。
 ふかえりは、天吾と最初に会った中村屋で、「空気さなぎ」というタイトルをはじめて耳にする。

「くうきさなぎ」とふかえりは言った。そして目を細めた。
「『空気さなぎ』君の書いた小説のタイトルだよ」と天吾は言った。
ふかえりは何も言わずにただそのまま目を細めていた。

1Q84 BOOK1 p93

 自分の作った空気さなぎに、「空気さなぎ」とタイトルがつけられたことを知って、ふかえりは何らかの感慨をおぼえているように見える。

 リトル・ピープルは日が暮れてから夜が明けるまで、空気さなぎを作る。
 ふかえりはアザミに夜ごと物語り、アザミがそれを文章にして『空気さなぎ』を書いた。
 言い換えれば、ふかえりは夜ごとに空気さなぎを作り、アザミがそれを(私たちにも一応は読むことのできる)文章に翻訳して『空気さなぎ』を書いた。
 ふかえりの『空気さなぎ』は不完全であったため、それを完成させるために優れたレシヴァが要請され、天吾が1Q84の世界に登場することになる。
 そして、天吾とふかえりはふたりでホンをかく。
 『空気さなぎ』を完成させる。
 
 その際、天吾は必要に応じて自分なりのアレンジを施す。
 ひとつは空気さなぎの形状。
 そしてもうひとつは、二つめの月だ。
 月。
 あの教室で青豆に手を握られながら、二人見つめていた月。

寡黙で一人ぼっちの衛星。二人は並んでその月を見ていた。

1Q84 BOOK2 p391

それはおそらく純粋な孤独と静謐だ。それは月が人に与え得る最良のものごとだった。

1Q84 BOOK2 p392

 その月の横に、天吾が置いたものを私たちはしっかりと見なければならない。
 まずは青豆の目を通して。

空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣りにもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。

1Q84 BOOK1 p351

 次に天吾の目を通して。

ひとつは昔からずっとあるもともとの月であり、もうひとつはずっと小振りな緑色の月だった。それは本来の月よりかたちがいびつで、明るさも劣っていた。

1Q84 BOOK2 p424

その新しく加わった月は、まったくのところ、天吾が思いつきで描写したとおりの大きさと形状を持っていた。比喩の文脈までそっくりだ。

1Q84 BOOK2 p425

 二つめの月について私たちに伝わる情報は、それが小さくて、緑色で、明るさは暗めで、そして形はいびつだということだけだ。
 形はいびつ。
 なんでこの作者は小松に怒られなかったのだろう?

「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな? しかし空に月が二つ並んでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまでに目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる」

1Q84 BOOK1 p309

 でも、どういうわけだか1Q84の二つめの月には「なるたけ細かい的確な描写」がなされていない。
 そのため、二つめの月の形状を具体的に知るには、天吾が小説『空気さなぎ』に記した二つめの月の描写に頼らざるをえない。
 私たちは青豆の目を通してそれを読む。

画家の家に引き取られた翌日、部屋の窓から空を見上げ、月が二個に増えていることを少女は発見する。いつもの月の近くに、より小さな二つめの月が、ひからびかけた豆のように浮かんでいた。

1Q84 BOOK2 p414

 BOOK2も終盤に差し掛かろうという頃になってようやく、読者は二つめの月の形を知ることができる。

小さくて、緑色で、明るさは暗めで、豆のようなかたちをした二つめの月。

 私たちはそれと同じ色形の物を知っている。
 そして、その物の名を冠したひとりの女性を知っている。
 天吾は一人ぼっちの月の横に、彼自身自覚することなしに、彼女を求めていたのだ。
 ――青豆。

月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。

1Q84 BOOK2 p395

リーダーの言ったとおりだ。

「きわめて簡単なことだ。それは君と天吾くんが、互いを強く引き寄せ合っていたからだ」

1Q84 BOOK2 p280

「天吾くんはレシヴァとしての優れた能力を具えていたようだ。君をここに連れてきたのも、言いかえるならその車両に君を乗せたのも、彼のそんな能力かもしれない」 

1Q84 BOOK2 p284

 リトル・ピープルの出現が、結果的にふかえりに『空気さなぎ』を書かせ、その『空気さなぎ』がふかえりの持つ欠落を補うかたちで天吾を物語の中へと呼び寄せる。
 天吾の優れたレシヴァとしての能力が物語世界に影響を与え、互いに引き合うように青豆を呼び寄せる。
 その青豆が世界に名前を与える。
 「1Q84」
 そして、物語はそこから始まる。

 たしかに原因と結果が入り乱れている。
 結果として始まる物語の中に原因が内包されている。
 天吾と青豆はそれぞれ違う因果で物語へと導かれながら、互いに引き合って、同時に物語の中へと入っていく。

 ふたりの後を追って、私たちも一旦物語の冒頭へともどろう。


5. つくりものの天吾

 物語の冒頭では、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が流れている。
 そして、青豆はなぜかそれがヤナーチェックの『シンフォニエッタ』であることがわかる。
 この意味するところは、二つめの月の話を持ち出すまでもなく明らかだ。
 『シンフォニエッタ』のエピソードは、天吾が立ち上げに関わった物語のその入り口を青豆が通っていくしるしであり、その証拠なのだ。
 青豆の中心にはいつも天吾がいて、『シンフォニエッタ』はその天吾とつながっている。そのため『シンフォニエッタ』はどうしても青豆の心の繊細な部分に触れてしまう。彼女は否応なく大塚環との秘密のエピソードを思い出してしまう。ホテルの一室で男を別の世界へと送った後でも、その鼓動にあわせて、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』、冒頭のファンファーレが彼女の頭の中で鳴り響いている。

 そしてもう一つ。物語へと入っていく際に、青豆はねじれの感覚も感じている。

その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞り上げられているような感じがあるだけだ。

1Q84 BOOK1 p16

 天吾も似たような感覚を味わう。戎野先生から『あけぼの』の銃撃戦の話を聞いたときだ。

銃撃戦、と天吾は思った。そんな話を耳にした覚えがある。大きな事件だ。しかしなぜかその詳細を思い出すことができない。ものごとの前後が入り乱れている。無理に思い出そうとすると身体全体を強くねじられるような感覚があった。まるで上半身と下半身がそれぞれ逆の方向に曲げられているみたいだ。 

1Q84 BOOK1 p231

 物語の外側を暗示するものに対してねじれのような感覚を覚えるという点において、二人は共通の態度を示す。
 しかしそれを除けば、天吾の1Q84の世界に対する反応は青豆と大きく違っている。
 天吾の書き換えられた過去に対する反応は、登場人物の誰とも異なっている。
 青豆のように過去の書き換えを認識することも、リーダーのようにそれを超越的に説明することもない。かと言って、その他の人々のように過去を当然の事実として受容しているわけでもない。

さきがけ? と天吾は思った。名前には聞き覚えがある。しかしどこでそれを耳にしたのか思い出せない。記憶をたどることができない。それが彼の神経をいつになく苛立たせた。

1Q84 BOOK1 p225

天吾は顔を上げ、目を細めた。「ちょっと待って下さい」と彼は言った。あけぼの。その名前にもはっきり聞き覚えがある。しかし記憶はなぜかひどく漠然としてとりとめがなかった。彼が手で探りとれるのは、事実らしきもののいくつかのあやふやな断片だけだった。

1Q84 BOOK1 p230

 書き換えられた過去を、天吾は一応は記憶している。
 知らなかったわけではないし、違う過去を知っているわけでもない。
 しかし、その記憶はひどく不鮮明だ。
 その記憶を無理に思い出そうとすると、天吾はねじれの感覚を感じる。
 それは青豆が物語の中に入っていくときに感じた感覚に似ているが、天吾のねじれの感覚にはまだその先がある。

頭の芯が鈍く疼き、まわりの空気が急速に希薄になっていった。水の中にいる時のように音がくぐもった。今にもあの「発作」が襲ってきそうだ。

1Q84 BOOK1 p231

そう、ねじれの感覚はあの「発作」へとつながっているのだ。

彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親でない男に乳首を吸わせている。天吾はその隣で寝息をたてて眠っている。しかし同時に天吾は眠っていない。彼は母親の姿を見ている。

1Q84 BOOK1 p173

 天吾自身もこの「発作」の映像に対して考えを巡らせている。
 まずはフェイクの記憶である可能性について。

子供が自分のまわりにある情景を、ある程度論理性を有したものとして目撃し、認識できるようになるのは少なくとも三歳になってかららしい。

1Q84 BOOK1 p30

一歳か二歳の幼児にそこまでの細かい見分けがつくものだろうか。そんな光景がありありと細部まで記憶できるものだろうか? それは後日、天吾が自分の身を護るために都合よく作り上げたフェイクの記憶ではないのか。

1Q84 BOOK1 p491

 そして次に、実際の記憶である可能性について。

拵えものであるにしては記憶はあまりに鮮明であり、深い説得力をもっている。そこにある光や、匂いや、鼓動。それらの実在感は圧倒的で、まがいものとは思えない。

1Q84 BOOK1 p31

それが本物の、実際の記憶であると考えてみよう。 
赤ん坊である天吾はその情景を目にして、きっと怯えたに違いない。自分に与えられるべき乳房を、誰か別の人間が吸っている。自分より大きく強そうな誰かが。そして母親の脳裏からは自分の存在が、たとえ一時的にせよ消えてしまっているように見える。それはひ弱な彼の生存を根本から脅かす状況である。そのときの根元的な恐怖が、意識の印画紙に激しく焼きつけられてしまったのかもしれない。

1Q84 BOOK1 p492

 そのどちらの可能性も、この事態を十全に説明することはできない。
 だが、今の私たちにならそれができるのではないだろうか。
 ちょっとやってみよう。

 青豆がねじれの感覚を感じたのは、『1Q84』の冒頭、物語の外から中へと入っていくときで、天吾が感じたのは物語の中と外とで齟齬のある記憶を思い出そうとしたときだ。
 つまり、ねじれの感覚とは物語の中と外のその境界で生じる感覚であり、言い換えれば、天吾も青豆も物語の内外の境界に触れたとき、その境界に発生するねじれを感じている、ということだ。

 このねじれの感覚が、天吾に「発作」の記憶を思い出させるという事実。
 そして、天吾の章の冒頭で、この「発作」の記憶を経て天吾が1Q84の物語へと入ってきた、という事実。
 この二つの事実を考え合わせれば、「発作」の記憶がフェイクの記憶でも実際の記憶でもないような三つめの可能性が浮かび上がる。
 この赤ん坊の天吾と母親とそして父親ではない男の記憶が、物語の外側に属しているという可能性だ。

 この記憶が物語の外側に属している。
 そう考えてみると、「発作」のときに天吾を襲ういくつもの症状、それらの意味するところが見えてくる。

手足はすっかり痺れている。時間の流れがいったん止まる。まわりの空気が希薄になり、うまく呼吸ができなくなる。まわりの人々や事物が、すべて自分とは無縁のものと化してしまう。その液体の壁は彼の全身を呑み込んでいく。世界が暗く閉ざされていく感覚があるものの、意識が薄れるわけではない。レールのポイントが切り替えられるだけだ。意識は部分的にはむしろ鋭敏になる。恐怖はない。しかし目を開けていることはできない。まぶたは固く閉じられる。まわりの物音は遠のいていく。

1Q84 BOOK1 p32

 感覚の麻痺、時間の停止、世界とのつながりの途絶、視覚、聴覚の遮断。
 描写されている症状のすべては、天吾を物語の文脈から切り離そうとしているように見える。
 世界を認識するための五感を閉ざされて、天吾の意識はレールのポイントの切り替えられた方向に向いている。
 つまり物語の外側に向いているのだ。

 では、あの記憶は何のか?
 もちろん、天吾の出生に関する記憶だ。
 しかし、物語の文脈に沿った出生ではない。
 平たく言ってしまうなら、それは天吾というキャラクターの創造過程のある一瞬を焼きつけた記憶か、あるいはその成り立ちのようなものを暗示する記憶なのだ。
 そうしようと思えば、あの記憶のひとつひとつに意味づけをしていくこともできる。
 例えばこういうふうに。
 一歳半の天吾は、天吾というキャラクターの原型のようなものだ。そして、そこにさらに二つの要素が付与される。ひとつは作者の意識下にある認識可能なファクターとしての母親(その姿、表情が見てとれる)、もうひとつは作者の無意識に属する認識困難なファクターとしての男(「父親ではない」ことしかわからない)だ。意識下のファクターと無意識下のファクターは、乳房を吸い吸われるようなかたちで互いに影響を及ぼしあいながら天吾というキャラクターを形作る。そして、その構造を作者自身が内観している。その内観の記憶を、作者の分身である天吾が自らの記憶として持つ。

 一応の意味づけはできる。
 でも、この意味付け自体にはそれほど意味がない。
 ここで重要なことは、天吾が自らのキャラクターとしての成り立ちの記憶を持っている、というそのことに尽きるのだ。
 青豆は物語の登場人物でありながら、そこがつくりものの世界であることを示唆していた。
 それと同様に、天吾は物語の登場人物でありながら、無自覚的にではあるけれど、天吾自身がつくりものであることを示唆しているのだ。
 つくりものの主人公。ピノキオみたいだ。

ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる

1Q84 BOOK1 p1

 天吾は「発作」の記憶から良いものも受け取っている。

それが天吾にとっての母親の記念写真だった。(中略)天吾の意識はそのイメージを通して辛うじて母親に通じている。仮設的なへその緒で結びつけられている。彼の意識は記憶の羊水に浮かび、過去からのこだまを聞きとっている。しかし、父親は天吾がそんな光景を鮮明に頭に焼きつけていることを知らない。彼がその情景の断片を野原の牛のようにきりなく反芻し、そこから大事な滋養を得ていることを知らない。

1Q84 BOOK1 p173

 そのイメージは天吾に大事な滋養を与えているが、その一方でそこには呪いにも似たメッセージが刻まれている。

これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。

1Q84 BOOK1 p33

お前はどこに行こうと、何をしていようと、この水圧から逃げ切ることはできないのだ。この記憶はお前という人間を規定し、人生をかたちづくり、お前をある決められた場所に送り込もうとしている。どのようにあがこうと、お前がこの力から逃れることはできないのだ、と。

1Q84 BOOK1 p492

 「お前はどこまで行ってもつくりものにすぎないのだ」とそれは言っている。
 そして、天吾はその呪いを越え出ていくことになる。

 『空気さなぎ』のリライトを終えたあたりから、天吾は少しずつ変化しはじめる。

しかしそこにはひとつの変化が見受けられた。よき変化だ。天吾は小説を書きながら、自分の中に新しい源泉のようなものが生まれていることに気がついた。(中略)そのようにして物語は自然に前に進んでいった。

1Q84 BOOK1 p354

ふかえりの物語を自分の文章で書き直したことによって、自らの内にある物語を自分の作品としてかたちにしたという思いが、天吾の中で強くなった。意欲と呼べそうなものがそこに生まれた。その新たな意欲の中には、青豆を求める気持ちも含まれているようだった。(2p96)

1Q84 BOOK2 p96

 しかしその変化を快く思わないものもいる。
 牛河を使役するさきがけであり、その影に潜むリトル・ピープルだ。
 そして、天吾と彼らの攻防の火蓋が切って落とされることになる。


6. リトル・ピープルの正体と価値の物語

 天吾とリトル・ピープルの攻防に進む前に、少し横道にそれよう。

「深田夫妻の身に、あるいはまたエリの身に何が起こったのかを知るためには、我々はリトル・ピープルが何であるかをまず知らなくてはならないのかもしれない」

1Q84 BOOK1 p422

と戎野先生は言っていた。

 私たちは青豆と天吾の身に何が起こりつつあるのかを知るために、リトル・ピープルが何であるかをまず知らなくてはならない。
 そして、マザとドウタ、パシヴァとレシヴァ、さらにはアザミが何を意味するかを知らなくてはならない。

もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル・ピープルがいる。リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。

1Q84 BOOK1 p539

「リトル・ピープルが何ものかを正確に知るものは、おそらくどこにもいない」と男は言った。「人が知りえるのはただ、彼らがそこに存在しているということだけだ」

1Q84 BOOK2 p241

 おそらくはリーダーの言うとおりだろう。
 私たちはリトル・ピープルが何ものかを正確に知ることはできない。
 だが、リトル・ピープルが作り出すものなら知ることができる。彼らが何をすることができて、何をすることができないかなら知ることができる。
 リトル・ピープルが作りだすものは空気さなぎだ。
 ふかえりの作った空気さなぎとは小説『空気さなぎ』だと先に述べた。
 リトル・ピープルの作る空気さなぎも、やはり物語なのだ。あるいは物語的なものだ。

 1Q84の中には、じつに様々な物語が出てくる。
 たとえば、『平家物語』、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』、チェーホフの『サハリン島』、タマルの話す『一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う話』、『猫の町』etc。このあたりは物語らしい物語といっていいだろう。
 どの物語も示唆に富んでいる。

 個人的な物語も数多く語られる。天吾、青豆、老婦人、タマル、そして、天吾の父親、登場人物たちの人生の物語。
 それから、物語に留まらない物語、いわゆる大きな物語もある。宗教(さきがけ、証人会)、政治的主義(あけぼの、タカシマ塾)、いくつかの過去と歴史、そして、青豆と老婦人が共有する狂気の物語。

 リトル・ピープルは物語を作る、といっても、彼らはもちろん小説家ではない。
 彼らが作るのは物語に留まらない物語だ。
 そして、そのような「物語」と一体となっている「価値の体系」だ。

 何が善で何が悪か、何が幸福で何が不幸か、そういう価値観はなんの前提もなしに存在しているわけではない。

「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。とてもはっきりしている。もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃するだろう」

1Q84 BOOK2 p234

「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ」

1Q84 BOOK2 p244

「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけにはいかない。そういうことですか?」

1Q84 BOOK1 p385

 そういう価値観の前提となるもの、価値観を規定するものが「物語」であり、「物語」によって規定される諸価値観の総体が「価値の体系」だ。「物語」と「価値の体系」は一体となっていて、わけて語ることはできない。
 リトル・ピープルの与える価値について、リーダーは「恩寵」と「代償・代価」という言葉で語る。
 同じ意味ではあるが、私は天吾の読んだ呪術についての本(”社会システムの不備や矛盾を埋め、補完することが呪いの役目だった。”(BOOK1 p82))から拝借して、「祝い」と「呪い」という使い慣れた言葉で価値について語りなおしたい。

「しかしすべての恩寵がそうであるように、人は受け取ったギフトの代価をどこかで払わなくてはならない」

1Q84 BOOK2 p237

 「恩寵/代価」、「祝い/呪い」はそれぞれ、価値というものの二面性をあらわしている。
 ある事物Aが価値あるものとみなされるということは、事物Aに祝いが与えられ、その他の事物B、C、Dに呪いが与えられるということと同義だ。
 「物語」「価値の体系」を、価値の地形にたとえてみてもいいかもしれない。
 地面は山あり谷ありのでこぼこした地形で、それぞれの地点A、B、C、Dの高低に、事物A、B、C、Dの価値(祝い/呪い)が対応している。事物Aに価値があるということは、地点Aが山であることによって示される。そして地点Aが山であるためには、地点B、C、Dは低地である必要があるのだ。
 価値とは相対的なものであり、比較によってのみ規定される。
 あるものが祝いを受けているということは、とりもなおさず他のものが呪いを受けていることを指す。
 強い祝いは、それだけ深い呪いを伴う。

「その痛みはわたしから多くのものを奪っていったが、同時に見返りとして、多くのものを与えてくれた。特別な深い痛みが与えてくれるものは、特別な深い恩寵だ」

1Q84 BOOK2 p201

神は与え、神は奪う。

1Q84 BOOK2 p237

 神は祝い、神は呪う。

 価値の相対性には、もうひとつ意味がある。

「善悪とは静止されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ」

1Q84 BOOK2 p244

 それはつまり、山がいつまでも山であるとは限らないということだ。
 価値の地形は固定されたものではなく、揺れ動きつづける水面のようなものなのだ。地点Aが高まりすぎると、その反動として逆向きの強い力が価値の地形に加わることになる。

「しかし大事なのは彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のようなものになった。そのようにして均衡が維持された」

1Q84 BOOK2 p276

 1Q84に登場するいくつかの物語らしい物語は、それぞれこの価値の体系について私たちに何かを語ろうとしているように見える。
 その声に少しばかり耳を傾けてみよう。

 『平家物語』は絶大な権力を誇っていた平家の一族が源氏に打ち滅ぼされる物語で、そこにはひとつの価値の体系が他の価値の体系に取って代わる様子が描かれている。
 ふかえりが天吾の前で暗唱した「壇ノ浦の合戦」は平家を頂点とする価値の体系がまさに滅ぼうとしている場面だ。

 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の中では、ビッグ・ブラザーという独裁者ただひとりの指示によって歴史という「物語」が書き換えられている。
 だが1Q84の世界ではリトル・ピープルと呼ばれる不特定多数の存在が「物語」を作っている。
 戎野先生の言うとおり、なかなか興味深い対比だ。

 『サハリン島』のギリヤーク人について書かれた章には、モスクワで華やかな生活をしていたチェーホフの目を通して、異質な「物語」を持つギリヤーク人の生活が描かれている。
 ギリヤーク人の価値観がなぜそうであるのかは、違う「物語」に属するチェーホフには理解できない。
 だが、違うことは理解できる。そこに違う「物語」があり、違う「価値の体系」があることは理解できる。
 そしてそのようなギリヤーク人の異質な「物語」に触れることを通して、自らも限定された「物語」の中にいるにすぎないことと向き合おうとするチェーホフの姿勢がそこにある。

 タマルの『一匹のネズミが菜食主義者の猫に出会う話』は、彼らがとても長い腕を持っていることを教えてくれる。
 一般的な猫の「物語」においては、ネズミはエサだ。その「物語」の中ではネズミは生まれながらの被害者だ。だからネズミはその「物語」に組み込まれることを恐れる。しかし、幸運なことに今回の相手は菜食主義者の猫だった。彼は「一般的な猫の物語」の中ではなくて、「菜食主義者の猫の物語」の中にいるのだ。そしてその「物語」の中ではネズミはエサではない。
 でもネズミは結局捕まってしまう。
 レタスと交換にエサにされるのだ。
 ポイントは、「交換」を介して祝いと呪いの長い腕はどこまでも伸びてくる、というところにある。
「心温まらない話」
 青豆のかわりに言っておこう。

 空気さなぎが物語だと気がつくと、そのほかのものごとの意味も見えてくる。
 まずはマザとドウタ。
 その二つが何であるかを知るうえで、1Q84に提示されるヒントはきわめて少ない。『空気さなぎ』に描かれていることがほぼすべてだ。だが、実をいうとそれで十分なのだ。
 『空気さなぎ』では、ふかえりがリトル・ピープルとともに空気さなぎを作る。空気さなぎを作るふかえりはマザと呼ばれ、空気さなぎの中にはふかえりのドウタが見出される。
 ここに、私たちの持つ「空気さなぎとは物語である」というヒントを足すことで答えが導かれる。

 『空気さなぎ』では、ふかえりがリトル・ピープルとともに物語を作る。物語を作るふかえりはマザと呼ばれ、その物語の中にふかえりのドウタが見出される。

 つまり平たく言えば、マザとは物語の作者であり、ドウタとは物語の中の作者の分身たる登場人物のことだ。
 しかしドウタとは小説家だけのものではない。
 1Q84の中でも、多くの登場人物たちが自身の声で自らの過去について、人生について語っている。
 人が自分の物語を語るとき、その物語る本人がマザであり、物語られる自分がドウタだ。
 これで、リトル・ピープルの言葉もいくらか理解できるようになる。

「ドウタはマザの代理をつとめる」
「キミは何も二つに分かれるわけじゃないぞ。キミは隅から隅までもとのままのキミだ。心配はいらない。ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。それがかたちになったものだ」

1Q84 BOOK2 p411

「マザはドウタの近くにいる」「ドウタの面倒をよく見るように」
「マザの世話なしにドウタは完全ではない。長く生きることはむずかしくなる」
「ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」
「こころのかげをなくしたマザはどうなる」と少女は尋ねる。彼らは互いに顔を見合わせる。誰もその問いには答えない。

1Q84 BOOK2 p412

 マザが世話をしないとドウタが長く生きることができない、というのはわかる。
 語るものなくして、語られるものは存在できない。
 では、マザがドウタを失う、とはどういうことだろう?
 ふかえりの質問にリトル・ピープルは答えない。
 私が、私のままでありながら、語られるべき私を失う。
 戎野先生の家に来たばかりの頃のふかえりが、その状態にあったはずだ。

「そのときの彼女は、誰に対しても口をきけない状態になっていた。言葉そのものを失ってしまったようだった。話しかけても、それに対して肯くか首を振るか、その程度のことしかできなかった」

1Q84 BOOK1 p257

「いや、ショックを受けているとか、何かに怯えているとか、両親と離されて一人ぼっちになって不安だとか、そんな雰囲気はなかった。ただ無感覚なだけだ。それでもエリはうちでの生活に支障なく馴染んでいった。むしろ拍子抜けするくらいすんなりと」

1Q84 BOOK1 p261

 ふかえりの内面についてはうかがい知れないが、ドウタを失ったふかえりは自分のことに限らず、すべてのことについて語ることができなくなっているようだ。語る視点を持たない物語が、物語として成立しないのと同じことなのかもしれない。

 そのドウタの役割についてのふかえりの問いに、リトル・ピープルが答えているところで今度はパシヴァ、レシヴァという言葉が出てくる。

「このドウタはわたしのこころのかげとしてなにをする」と少女が尋ねる。
「パシヴァの役目をする」と小さな声がこっそりと言う。
「パシヴァ」と少女が言う。
「知覚するもの」としゃがれ声が言う。
「知覚したことをレシヴァに伝える」と甲高い声が言う。

1Q84 BOOK2 p411

 パシヴァとは知覚するもので、レシヴァとはそれを受け入れるもの、ということだが、私たちに即して考えるなら、知覚することとその知覚を受け入れることはひとつのことで、わけて考えるのは難しい。
 でもじつを言うと、あなたはレシヴァとは何かを、すでにあなた自身で体現している。
 あなたは1Q84を読んでいるあいだずっと、青豆や天吾が目にした光景を、耳にした音を、口にした味を、嗅いだ匂いを、肌に触れた感触を受け入れていたはずだ。
 そう、レシヴァとは読者のことで、パシヴァとは読者が感情移入する登場人物のことなのだ。
 登場人物が知覚し、読者はその知覚を受け入れる。
 「レシヴァとパシヴァがひとつになる」とは、読者が登場人物に深く感情移入してその人になりきることを指す。そうすることで初めて、物語は生きた物語となる。

 しかし、作者(マザ)が自分の分身(ドウタ)を主人公にして物語を作ったり、読者(レシヴァ)が物語の登場人物(パシヴァ)に感情移入したりすることは、この現実の世界でも特に珍しいことではない。
 1Q84を1Q84たらしめているのは、それらマザ、ドウタ、パシヴァ、レシヴァ、そして空気さなぎが同一平面上に存在して互いに干渉しあっているという特異な状況にある。
 そして、その特異な状況を可能にしているのが、空気さなぎやドウタの「通路」としての機能だ。
 この「通路」について整理するために、もう一度小説『空気さなぎ』のラストを見返してみよう。

 少女はやがて決心して自分の空気さなぎを作り始める。彼女にはそれができる。リトル・ピープルたちは通路をたどって、彼らの場所からやってきたのだと言った。だとすれば自分だって通路を逆方向にたどって、その場所に行くことはできるはずだ。【中略】少女は通路を作り始める。空気の中から糸をとりだし、さなぎを紡げばいいのだ。時間はかかる。しかし時間さえかければそれはできる。

1Q84 BOOK2 p417

 空気さなぎが物語だとすると、それが通路としての役割をするというのはどういうことだろうか?
 この疑問の答えは、青豆が実際にその通路を歩いてみせることによって教えてくれている。
 青豆が小説『空気さなぎ』を読み始めたシーンだ。

彼女【『空気さなぎ』の主人公】はゆっくりと、適度な足取りで前に進み続ける。読者はその視線を借りて、少女の歩みについていく。とても自然に。そして気がつくと、彼らは別の世界に入っている。ここではない世界だ。

1Q84 BOOK2 p396

 つまり、「通路をたどる」とは、読者(レシヴァ)が登場人物(パシヴァ)に感情移入することによって、自然とその物語世界の中へ没入していくことを指している。
 別の言い方をすれば、物語を読むことによって読者(レシヴァ)と登場人物(パシヴァ=ドウタ)のあいだにそのような深いつながりが形成されるとき、物語とその登場人物は読者をその物語世界へといざなう「通路」の役割を果たしている、ということだ。
 一般的には、この通路は現実世界から物語世界への一方通行なのだが、1Q84の世界ではこのルールが変更されていて、その物語が空気さなぎであるならドウタ(登場人物)は物語世界から現実世界へと通路を逆行することが許されている(あるいはそのような逆方向の通路として機能する物語を空気さなぎと呼んでいるのかもしれない)。
 そして、そのようにして物語世界から現実世界へと出てきたのが、ふかえり(ドウタ)やつばさをはじめとするさきがけの巫女たちであり、トオルを害した三匹の黒蛇たちであり、そして、あるいはリトル・ピープルたちだ。

 以上のように、1Q84に現れる諸概念(マザ、ドウタ、レシヴァ、パシヴァ、空気さなぎ、通路)を整理すると、ふかえりに関して二つの疑問が浮かび上がってくる。 
 一つめはこのセリフだ。

「そのまえから」とふかえりは言った。そして右手のひとさし指で自分を指し、それから天吾を指した。「わたしがパシヴァであなたがレシヴァ」

1Q84 BOOK2 p454

「わたしがパシヴァであなたがレシヴァ」
 さきがけでリトル・ピープルとともに空気さなぎを作り、戎野宅でも『空気さなぎ』という空気さなぎを作ったマザ(作者)であるふかえりが、同時にパシヴァ(登場人物)でもあるとはいったいどういうことなのだろう?
 ふかえりは、ほんとうにマザなのか、あるいはドウタなのか?
 同じ疑問が『空気さなぎ』のラストにも描かれていた。

それでもときどき彼女はわからなくなる。混乱が彼女をとらえる。私は本当にマザなのだろうか。私はドウタと入れ替わってしまったのではあるまいか。考えれば考えるほど彼女には確信が持てなくなる。私が私の実体であることをどのように証明すればいいのだろう?

1Q84 BOOK2 p417

 思い返してみれば、ふかえりには小さな矛盾がつきまとっていた。
 記者会見の練習のときに、どうしてボーイフレンドがいないのかと天吾に聞かれて、「ニンシンしたくないから」(BOOK1 p370)と答えているけど、オハライの際に天吾と交わったときには「わたしはニンシンしない。わたしにはセイリがないから」(BOOK2 p308)と言っている。(そしてリーダーの話によればドウタには生理がない。)
 リトル・ピープルについて話すときもそうだ。
 電話で天吾に、山羊を実際に飼ったことがあるのかと聞かれて、「ヤギのはなしはしない」(BOOK1 p140)と言ったり、電車の中で、『空気さなぎ』の書き方について話しているときに「でもちいさなコエではなさなくてはならない」「あのひとたちにきかれないように」(BOOK1 p183)と言ったりと、リトル・ピープルに関連する明言を避けているように見えるときもあるが、しかしそれ以外の場面ではわりと平気そうにリトル・ピープルの話をしている。
 
 二つめの疑問は、小説『空気さなぎ』の、その終わり方についてだ。
 小説『空気さなぎ』のラストは、ふかえりが空気さなぎを作り、そしてその通路の扉を開けようとするところで終わっていた。
 この空気さなぎが小説『空気さなぎ』であることは先述したが、『空気さなぎ』が空気さなぎであり、その扉が開かれて通路として機能したのであれば、その通路はいったいどのような役割を果たしたのだろうか?
 ふかえりは通路を逆方向(この場合は現実世界→物語世界)にたどってリトル・ピープルの場所へ行くことに成功したのだろうか?
 それとも、結局それは順方向にしか機能しなかったのだろうか?

 それらの矛盾と疑問が、私たちをひとつの結論に導く。
 1Q84にふかえりとして描写されている人物には、さきがけから逃亡してきたマザと小説『空気さなぎ』から出てきたドウタの二人がいるのだ。
 そして、その二人めのふかえりという発想がある名前に結びつく。
 マザはmotherだった。
 ドウタはdaughterだった。
 パシヴァはperceiverで、レシヴァはreceiverだ。

 そして、アザミはother me(もう一人の私)なのだ。

 このことに気づいて読み返してみると、「ニンシンしたくないから」と言いアザミについて言及するふかえり(マザ)は「リトル・ピープル」という言葉を決して口にせず、逆に「わたしはニンシンしない」と言い「リトル・ピープル」という言葉を口にするふかえり(ドウタ=アザミ)はアザミについては一切言及していないことがわかる。
 ふかえり(マザ)の言動は、さきがけにいるふかえり(一人めのドウタ)を通してリトル・ピープルに筒抜けになっている(そのため「リトル・ピープル」と口にすることにリスクがある)ということなのかもしれない。

 小説『空気さなぎ』の執筆に関わった重要人物であるにも関わらず『1Q84』に一度も登場していないかに思われていたアザミであるが、実はその登場シーンはふかえり(マザ)よりも多い。
 ふかえり(マザ)が登場するのは、BOOK1第6章の天吾と電話する場面、第8,10,12章の電車を乗り継ぎ戎野宅へと赴いて先生と会話する場面、そして第24章のカセットテープに録音されたメッセージの中のわずか三シーンだけで、BOOK1の残りのシーンとBOOK2に登場するふかえりは全部ふかえり(ドウタ=アザミ)だ。
 初登場からすでにふかえり(ドウタ)だというのだから恐れ入る。

 BOOK1 第24章のカセットテープが特にややこしくて、録音されていることを確認するとき、二度目の水を飲むとき、そのあと間を置いたときの計三回、ふかえり(マザ)とふかえり(ドウタ)が交代しているようだ。

 ふかえりが二人いるという事実がわかってようやく、ふかえりの言う「わたしたちはひとつになっている」「ホンをいっしょにかいた」(BOOK1 p426)の意味が正しく理解できる。
 この言葉を口にするふかえりは常にふかえり(ドウタ)であり、それはつまり『空気さなぎ』の語り手である十歳の少女だ。天吾はこの十歳の少女とレシヴァとパシヴァとしてひとつになることで『空気さなぎ』をリライトした。
 別の言い方をすれば、天吾が物語の外側から、ふかえり(ドウタ)が物語の内側から一緒になってホンをかいた、といことだ。

 その『空気さなぎ』の登場人物(ドウタ)であるふかえりに、あの激しい雷雨の夜、天吾がひとつ興味深い問を投げかけている。

 天吾は前からしようと思っていた質問を思い切って口にした。「ねえ、『空気さなぎ』はどこまで本当に起こったことなんだろう?」
「ほんとうというのはどういうこと」とふかえりは疑問符抜きで質問した。
 もちろん天吾は答えを持たない。

1Q84 BOOK2 p268

  天吾の問は、さらに興味深い問で返される。
 物語の世界からこちら側の世界に出てきたドウタにとって、「ほんとう」というのはどういうことか?
 物語と現実とが特殊な通路によって架橋されたこの世界において、「本当のこと」(BOOK2 p177)とはいったい何か?
 天吾もふかえりも、そして私たちも、もはやその答えを持ってはいない。

 ふかえりが二人いる、という事実をわかりにくくしているのは戎野先生で、彼はおそらくふかえりにも嘘をつくように指示している。
 小松も言っている。

「腹の底が読みきれない人だからな」

1Q84 BOOK1 p361

「見かけはその変の罪のないじいさんだが、実はまったく得体の知れない人だ」

1Q84 BOOK1 p362

 ふかえりが二人いることがわかっても、戎野先生の発言のどこまでが本当でどこからが嘘なのかは、ようとして知れない。
 父親のことを先生と呼ぶという実の娘が本当にいるのかどうかすらわからない。
 得体の知れないじいさんだ。

 「物語」の話にもどろう。
 「物語」あるいは価値の体系を考える際に、私たちがもっとも危険視しなければいけないものは、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者、ではない。
 家庭内暴力をふるう卑劣な男たちでもなければ、もちろん便秘でもない。
 それらはすべて三番目だ。
 
 もっとも危険なのは、空白だ。
 価値の体系のないところでは、私たちは一歩も動けない。私たちは価値の体系なしには生きられない。そして価値の体系の外には善も悪もない。
 つまり、空白は、そこを何らかの価値の体系で埋めようとする力に対して、何ひとつ抵抗するすべを持たないのだ。
 たとえそれが、自らを呪うような価値の体系であったとしても。

あゆみは大きな欠落のようなものを内側に抱えていた。それは地球の果ての砂漠にも似た場所だ。(中略)彼女はその致命的な欠落のまわりを囲うように、自分という人間をこしらえなくてはならなかった。作り上げてきた装飾的自我をひとつひとつ剥いでいけば、そのあとに残るのは無の深淵でしかない。

1Q84 BOOK2 p104

「誰が彼女を殺したにせよ、ものごとの脆弱な部分がいつも最初に狙われることになる。狼たちが、羊の群れの中の一番弱い一頭を選んで追い立てるように」

1Q84 BOOK2 p246

 リトル・ピープルはおそらくあゆみの無の深淵に空気さなぎを作ったのだ。それも彼女自身を呪うような空気さなぎを。そしてそれが彼女を破滅的な行動に走らせて殺してしまったのだろう。
 年上のガールフレンドに対してもリトル・ピープルが害をなしている。
 それがどのような害であったかを私たちは知ることができないが、彼女の空白についてなら、ある程度知ることができる。
 彼女が天吾に話したあの夢の話から。

 彼女は森の中を一人で歩いている。
 午後で、温かくて気持ちのいい、明るい森だ。おそらく彼女自身の物語の森なのだろう。
 行く手にフレンドリーな外観の小さな家がある。
 ところがノックしても声をかけても返事がない。
 中はシンプルな造りで、テーブルには四人分の料理がきれいに並べられている。お皿からは白い湯気が立っている。
 でも誰もいない。
 彼女はみんなが何かの怪物を恐れて逃げ出したように感じる。
 日は暮れて森は深くなっていく。どれだけ待っても誰も現れない。料理からは相変わらず湯気が立ち続けている。
 夢は凶兆をはらんだまま終わってしまう。

1Q84 BOOK1 P546,547要約

 年上のガールフレンドは自分がその怪物である可能性を恐れている。
 そうであるなら、彼女がいるかぎり小屋の住人が戻ってくることは永久にない。
 それに対して天吾が言う。

「そこは君自身の家で、君は逃げ出した自分自身を待っているのかもしれない」

1Q84 BOOK1 p548

 天吾の解釈に従うと、こういうことになる。
 夢の中で、彼女はマザとして自分の物語の森に入っていく。
 そしてそこに彼女自身の家を見つける。
 でも、そこにはいなければならない人がいない。
 彼女の物語において語られるはずの、彼女のドウタがいないのだ。
 「君の中には語られるべき君がいないのかもしれない」と言っているのだ。天吾は睾丸を二つとも握りつぶされたとしても、文句はいえなかっただろう。
 そのあと、彼女は天吾のひどい仮説を否定するように、自らの物語を語る。

私は十八歳で、フリルのついたかわいいワンピースを着て、髪はポニーテイル。すごく真面目な学生で、そのときは処女だった。

1Q84 BOOK1 p544

 彼女のドウタはちゃんとここにいる。
 しかし、それとは別に彼女の物語の森の中には空白の小屋がある。そしてリトル・ピープルがその脆い部分を見逃すことはない。彼らはそこに空気さなぎを作って、彼女を損なってしまう。

 リトル・ピープルは、「物語」の、あるいは価値の体系の空白に入りこむ。
 7年前の「さきがけ」で、ふかえりが盲目の山羊を死なせてしまったときにも、そこに空白が生まれ、そしてリトル・ピープルが現れたのだろう。
 『1Q84』では、この「さきがけ」に生じる空白を決定的なものとするために、明示的・非明示的にさらに二つの「書き換え」がなされている。
 明示的な書き換えは武闘派(のちの「あけぼの」)の離脱で、非明示的な書き換えは冷戦構造の相対的弱体化だ(この明示的な書き換えは「あけぼの」と山梨県警の銃撃戦を経て、「警官の制服と拳銃」の書き換えへとつながり、非明示的な書き換えは「米ソ共同月面基地建設」の書き換えを引き起こしている)。

 もともと資本主義とコミュニズムの対立が現実世界ほど強固でなかった世界にあって、当時の「さきがけ」では資本主義は否定され、私有財産制を排した厳格なコミュニズムも退けられている。革命の思想も武闘派の離脱とともに廃れてしまい、後には、語るに足る明確な主義はほとんど何も残されていない。
 気がつけば「さきがけ」の物語は、年老い病を得て死に瀕した盲目の山羊を最後のよすがとするまでに細っている。
 そして、ふかえりのミスをひとつのきっかけにして、その特別な意味を持つとされている山羊に、もともと不可避であった死が訪れる。
 そのようにして、そこに大きな空白がもたらされ、その空白を通路として「さきがけ」にリトル・ピープルが姿を現すことが可能となったのだ。

 しかし、この価値の体系の話から、リトル・ピープルに対抗する手段も見えてくる。
 自分の中に、価値の体系に組み込むことが不可能であるような自らの「物語」を持っていれば、リトル・ピープルに対抗できるのだ。

 リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。

1Q84 BOOK1 p539

 ふかえりが言っているのは、おそらくそういうことだ。
 このことに関して、天吾が興味深い発言をしている。あの雷雨の夜に天吾がふかえりに、リトル・ピープルについての推論を話している場面だ。

「しかし彼らには限界もある」
ふかえりは肯いた。
「なぜなら彼らは森の奥に住んでいる人々であり、森から離れるとその能力をうまく発揮できないからだ。そしてこの世界には彼らの知恵や力に対抗できる何らかの価値観のようなものが存在している。そういうことかな?」

1Q84 BOOK2 p267

 知恵や力に対抗できる何らかの価値観のようなもの?
 冷静に読むとかなりおかしな発想だ。どういうふうに考えたら、知恵や力といった実際的なものに対抗する手段として、価値観なんてものを思いつくのだろうか?
 この「価値観」という言葉は本当に何の脈絡もなく唐突に語られている。
 でも今なら、それがおおむね正解であることがわかる。
 天吾はみんなからさんざんわかっていない人呼ばわりされるけど、なぜだか難しいところを言い当てる。いいレシヴァだ。
 そして、天吾は今、そのリトル・ピープルの知恵や力に対抗できる何らかの価値観のようなものを実際に手にしつつある。
「物語」に組み込まれることのない天吾自身の物語を作りはじめている。

 では、長い脱線を終えて、天吾とリトル・ピープルの攻防にもどることにしよう。


7. そして因果は円を描く

 天吾は『空気さなぎ』のリライトを終えてから、少しずつ変化してきた。
 つくりものが本物に近づいていくように、自らの物語の源泉を見つけ、意欲を持つようになった。
 その事態をリーダーはこう表現している。

「『空気さなぎ』を実質的に書いたのは天吾くんだ。そして今、彼は新しい自分の物語を書いている。彼はそこに、つまり月の二つある世界の中に、自らの物語を発見したんだよ。絵里子という優れたパシヴァが彼の中にその抗体としての物語を立ち上げさせた」

1Q84 BOOK2 p284

 『空気さなぎ』を完成させたことに加えて、天吾が自らの物語を立ち上げつつあることがリトル・ピープルに危機感を募らせているようだ。
 この天吾の自らの物語こそが、「抗体としての物語」であり、「リトル・ピープルのもたないもの」、つまり価値の体系に組み込むことのできないものであり、「彼らの知恵や力に対抗できる何らかの価値観のようなもの」なのだ。
 リトル・ピープルは牛河を使って、その物語を無理やり価値の体系に組み込んでしまおうとする。
 まずは助成金三百万円という値段をつけることで、資本主義という価値の体系の中に位置づけてしまおうとする。
 それを天吾にはねつけられると、今度は年上のガールフレンドに何らかの害をなし、天吾の不安をあおることで、安心を盾にして再び価値の体系に取り込もうとする。
 だが、それも拒絶される。
 天吾の中にあるものは、何かと交換したりすることのできるようなものではないし、何かと比較したりするべきものでもない。天吾にはそのことがわかっている。だから取引に応じることはできない。
 魂は誰にもわたせない。

 そして、天吾は千倉の療養所あるいは猫の町へと向かい、そこで父親からいくつかの言葉を聞く。
 猫の町とはどういう場所か。小説『猫の町』の言葉を引こう。

ここは猫の町なんかじゃないんだ、と彼はようやく悟った。そこは彼が失われるべき場所だった。そこは彼自身のために用意された、この世ではない場所だった。

1Q84 BOOK2 p167

 千倉の療養所は、失われるべき場所だ。
 そして天吾のために用意された、この物語の世界ではない場所なのだ。
 では、そこでいったい何が失われたのだろう?
 『猫の町』で失われたのは、主人公の彼自身だった。
 であれば、千倉の療養所で失われたのは天吾自身でなければならない。
 しかし、見てのとおり天吾のすべてが失われたわけではない。
 失われたのはその一部だ。
 療養所を訪れた天吾に父親は言う。

「私に息子はおらない」
「あなたは何ものでもない」

1Q84 BOOK2 p174

「何ものでもなかったし、何ものでもないし、これから先も何ものにもなれないだろう」

1Q84 BOOK2 p175

 見てのとおり、この時点で既に1Q84の文脈に沿った天吾の出生が失われている。天吾とNHKの集金人のあいだにあったはずの父子という関係性が失われ、その結果、天吾は1Q84の文脈において文字どおり何者でもなくなっている。

 しかし、彼の発言はこれで終わりではない。
 NHKの集金人は天吾の朗読を聞いて『猫の町』へと深く入り込み、長い時間をかけて、その1Q84の外にある場所から1Q84の中へともどってくる。
 そして、その物語の外から中への視点の移動に基づいて、天吾についての「本当のこと」を話しはじめる。

「あんたを産んだ女はもうどこにもいない」

1Q84 BOOK2 p182

 天吾というキャラクターを生み出したマザ(作者)は、1Q84の世界のどこにもいない。

「あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ」

1Q84 BOOK2 p183

 マザ(作者)は天吾というキャラクターをゼロ(空白)から立ち上げた。

「私がその空白を埋めた」

1Q84 BOO2 p183

 現実には存在しない天吾という登場人物を物語世界に存在させると、その結果として現在にいたるまでの経緯(どのようにして生を受け、どのようにして育ったのか、など)に因果論的空白が生じる。
 その空白をとりあえず埋めるために作られたのがNHKの集金人というキャラクターだ(その「とりあえず」性を強調するかのように、NHKの集金人には下の名前が与えられていない)。

 このようにして、1Q84の世界に川奈天吾が送り込まれる(一次的な書き換え)とともに、その因果論的空白を埋めるためにNHKの集金人であり天吾の父親でもある川奈某氏が送り込まれたのだ(二次的な書き換え)。
 この二次的な書き換えの一環として、川奈某氏は満州時代に親しくしていた役人の紹介でNHKの集金の仕事につき、やがてその優秀な成績と勤務態度が評価されて正規集金職員として採用されているのだが、この書き換えの余波は、天吾という一人の男の人格形成に暗い影を落とすだけにとどまらなかったようだ。
 川奈某氏が委託集金人から「異例の抜擢」と称されるほどの狭き門をくぐりNHKの正規集金職員として採用されたことによって、ただでさえ狭かったその門は長い期間閉ざされることになり、正規集金職員の枠のひとつが長期にわたって彼に占有されることになった。
 その結果、書き換え前の世界では異例の抜擢を受け、正規集金職員となっていたはずの男がひとり、その枠からあぶれてしまう。川奈某氏と同じく "勤務態度はまじめで成績も優秀だった”(BOOK1 p190)その男の名は、芥川真之介という。
 その芥川真之介がようやくNHKの正規集金職員となれたのは、それからおよそ25年後、彼が50歳のときのことだったが、それで帳尻が合うということにはまずならなかった。それまでの長い不遇の期間を経てためこまれた鬱屈は出刃包丁という形をとって彼の鞄のなかにじっと身を潜めていて、1981年10月12日、集金先の大学生との口論をきっかけにその白刃を衆目にさらすことになる。
 私たちはその因果のもの悲しい結末を、区立図書館の縮刷版の新聞の三次的な書き換えとして目にすることができる。

 話はだいぶ逸れてしまったが、この失われるべき町でNHKの集金人の口から「本当のこと」として語られるのは、天吾というキャラクターの成り立ちであり、この「本当のこと」のもとではもう、1Q84の物語としての文脈も、その文脈に沿った天吾の出生も失われてしまっている。
 そして、天吾はその喪失と自らの成り立ちを「本当のこと」として受け入れる。

「世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」

1Q84 BOOK1 p525

 あゆみの言うとおりだ。
 私たちはここにその果てしない闘いの一応の決着を見る。
 天吾の持つ二つの出生、1Q84の文脈に沿ったNHKの集金人の息子としての出生と1Q84の文脈から乖離したマザ(作者)とドウタ(登場人物)の関係に根差した出生。
 今その一方が失われて、一方が残る。
 そして、天吾は生まれ変わる。

翌朝、八時過ぎに目を覚ましたとき、自分が新しい人間になっていることに天吾は気づいた。(中略)あの映像は意味のない幻覚じゃなかった。どこまでもそれが真実を反映しているのか正確にはわからない。しかしそれはおそらく母親が彼に残していった唯一の情報であり、良くも悪くも彼の人生の基盤となっているものだった。それが明らかになったことで、天吾は背中から荷物を下ろしたような気持ちになれた。いったん下ろしてしまうと、自分がこれまでどれほどの重みを抱えてきたのかが実感できた。

1Q84 BOOK2 p206

 天吾は、彼を縛りつけていた1Q84という物語の文脈から解き放たれたのだ。そして、1Q84の物語の文脈において何者でもなくなったのだ。

ふかえりは天吾の顔をしばらくしげしげと見た。それから言った。「あなたはこれまでとはちがってみえる」

1Q84 BOOK2 p213

 しかし、それに応ずるリトル・ピープルの行動もすばやい。
 彼らは牛河を介して天吾にある情報を与えようとする。

「ですから、もしあなたがお知りになりたいというのであれば、お母さんの情報をそのままお渡しすることもできます。私の理解するところでは、あなたはたぶん母上のことを何ひとつご存じないまま育ってこられたはずだ。ただしあまり愉快とは言えない種類の情報も、そこには含まれているかもしれません」

1Q84 BOOK2 p220

 彼らは物語の中の母親の情報を天吾に与えることで、再び彼を1Q84の物語の文脈に引き戻そうとするが、申し出は拒絶される。

 天吾はその出生の過去を失うことで、物語から解放される。
 しかし、いいことばかりではない。
 その失われたところには、空白が残る。
 そして、リトル・ピープルはものごとの脆弱な部分を狙ってくる。

「ネコのまちにいってそのままにしておくとよいことはない」
「リトル・ピープルがいりぐちをみつけるかもしれない」

1Q84 BOOK2 p270

と、ふかえりは言う。「オハライをしなくてはいけない」
 具体的なことはわからないけど、天吾の失われた過去の空白を入り口として、リトル・ピープルが二人のところまで侵入してきて何らかの害をなす、ということだろうか。
 オハライはその対策のようなものだろう。
 空白を埋めるのだから、その空白の部分に何か他のものを、他の物語のようなものをあてがえばいい、と普通は考えるんじゃないだろうか。
 少なくとも私はそう考えた。
 でも違っていた。
 ふかえりのオハライはもっとユニークで、かつ決定的なものだ。
 そしてそれは、私たちにとっても重要な意味を持つことになる。

 オハライに際して、天吾はパシヴァでもレシヴァでもマザでもドウタでもない、もう一つの役目を負わされている。
 それが「物語」としての役目だ。
 私たちは誰しも自らの人生の物語を持っている。
 その人生という物語に注目するとき、私たちは皆その物語のマザ(作者)であり、その物語の中で語られるドウタ(登場人物)であり、そして「物語」それ自体でもあるのだ。

 オハライのはじまりで、ふかえりは挿入というかたちをとって、天吾を『天吾』というひとつの物語として深く受け入れる。
 作者の手を離れて読者へとゆだねられた物語が、もはや一切の書き直しを受け付けない固定された物語となるように、天吾の身体は重くこわばりついて、指一本持ち上げることができなくなっている。

ふかえりは目を閉じ、天吾の上で避雷針みたいに身体を直立させたまま、動きをとめていた。口は軽く半開きになり、唇がさざ波のように微かに動いているのが見える。それは何かの言葉を形作ろうと宙を模索していた。しかしそのほかには動きらしきものはなかった。彼女はその体勢のまま何かが起こるのを待ち受けているようだった。

1Q84 BOO2 p304

 ふかえりはそのできたての性器に『天吾』の物語を受け入れるその一方で、文章を小声でなぞりながらその中に特定の単語を探し求める有能な司書のように、もうひとつの何かを探知しようとしている。

 そして、その時が訪れる。
 ふかえりが1Q84という物語の中の、近接した場所にそれを見つける。

テンゴくん」とふかえりは言った。彼女がそんな呼び方をするのは初めてのことだった。「テンゴくん」と彼女は繰り返した。

1Q84 BOOK2 p304

 ふかえりが見つけたのは、リーダーの口から青豆に向けて語られたもう一つの『天吾』の物語だ。

「またそれほど前のことではないが、君もよく知っている川奈天吾くんがそこに新たに関わることになった。天吾くんとわたしの娘は、偶然によって引き合わされ、チームを組んだ」
 時間がそこで唐突に停止してしまったようだった。青豆はうまく言葉を見つけることができなかった。彼女は身体をこわばらせたまま、時間が再び動き出すのをじっと待っていた。

1Q84 BOOK2 p278

 『天吾』の物語はここからまだしばらく続くのだけど、この最初の二文を聞いただけで、ただそれだけで、青豆の時間性は1Q84を離れて、『天吾』の物語の時間性へと切り替わってしまう。
 青豆は語られる天吾(パシヴァ)のレシヴァとなって、あっという間に『天吾』の物語へと深く引き込まれてしまう。

 そのレシヴァを宿したパシヴァの名は、ふかえりの柔らかい舌に乗り、天吾の中へと導かれる。

テンゴくん」とふかえりは言った。彼女がそんな呼び方をするのは初めてのことだった。「テンゴくん」と彼女は繰り返した。【中略】それからふかえりはゆっくり前屈みになり、彼の顔に顔を近づけ、天吾の唇に唇をつけた。半開きだった唇が大きく開き、彼女の柔らかい舌が天吾の口の中に入ってきた。

1Q84 BOOK2 p304

そして、天吾自身もまた『天吾』の物語の中へと導かれていく。

「めをとじて」

1Q84 BOOK2 p305

 天吾自身によって体現されている『天吾』の物語と、
 リーダーの口から語られる『天吾』の物語。
 青豆と天吾は別々の通路をたどって、それぞれの『天吾』の物語の中へと導かれて、その二つの『天吾』の物語をふかえりがひとつにつなげる。

 そして二人は、二人を結ぶあの場所で邂逅する。

気がつくと彼は十歳で、小学校の教室にいた。それは本物の時間で、本物の場所だった。本物の光で、本物の十歳の彼自身だった。【中略】少女はそこに立ち、右手を伸ばして天吾の左手を握りしめていた。彼女の瞳を天吾の目をじっとのぞき込んでいた。

1Q84 BOOK2 p306

 天吾にはそれが本物であることがわかる。
 幻覚でもなければ回想でもない。
 再現ですらない。
 そこは十歳のときの教室で、そこにはいるのは十歳の天吾と青豆だ。
 でも、十歳の天吾であると同時に現在の天吾だ。
 十歳の青豆であると同時に現在の青豆だ。
 しかし、青豆自身はこのことを知ることはない。

 ――現在の青豆。
 青豆は今、ひとり別の場所でリーダーと対峙している。
 リーダーの口から、1Q84の成り立ちについて、リトル・ピープルについて、青豆と天吾の巻き込まれている事態について聞かされているところだ。

彼女はいろんなことをすでに知っている、と天吾は思った。彼はまだそれを知らない。その新しいフィールドでは彼女が主導権を持っていた。そこには新しいルールがあり、新しいゴールと新しい力学があった。天吾は何も知らない。彼女は知っている。

1Q84 BOOK2 p307

 青豆はリーダーから心愉しいものではない二つの選択肢を提示され、そのひとつを自ら選ぶ。
 天吾が生き、おそらく青豆が死ぬであろう選択肢だ。
 そしてひとつ、些細な、しかし重大な願いを口にする。
 私たちはすでにそれを聞いている。
 もうずいぶん昔のことのような気がするが、私たちがなぜ今ここにいるのか、それを思い出しほしい。

「ひとつ教えてほしいことがあります」と青豆は言った。
「わたしに教えられることなら」と男はうつぶせになったまま言った。
「天吾くんは、私が彼のために死んでいったことを、何かのかたちで知ることになるのでしょうか。それとも何も知らないままに終わるのでしょうか?」
 男は長いあいだその質問について考えていた。「それはおそらく君次第だ」
 「私次第」と青豆は言った。そしてわずかに顔を歪めた。「それはどういうこと?」
 男は静かに首を振った。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ。それ以上のことはわたしにも言えない。実際に死んでみるまでは、死ぬということがどういうことなのか、正確なところは誰にもわからない」

1Q84 BOOK2 p290

 そう、私たちは青豆のこの願いを叶えるためにーー彼女の思いが天吾に届くことを願ってーー重い試練へと向かったのだった。

 そして今この教室で、青豆はそれを天吾に手渡しする。

 そして少女も、今ここで理解されることを期待してはいない。彼女が求めているのは、自分の感情を天吾にしっかり送り届けるという、ただそれだけのことだ。それは小さな固い箱に詰められ、清潔な包装紙にくるまれ、細い紐できつく結ばれている。そのようなパッケージを彼女は天吾に手渡していた。
 そのパッケージを今ここで開く必要はない、と少女は無言のうちに語っていた。そのときがくれば開ければいい。あなたは今これをただ受け取るだけでいい。

1Q84 BOOK2 p307

 私たちはようやく、ひとつの目的を終えたのかもしれない。そして確かに、世界のあるべき姿を目にしつつあるようだ。
 それが確かな現実であることの証として、赤い血が流される代わりにそこで現実の射精がなされ、現実の精液が放出されて、オハライは終わる。
 相変わらず、原因と結果が入り乱れている。
 十歳のときの教室。
 あれから紡がれた二十年間の物語がくるりとまかれて、今がふたたびあのときの教室に重なって、そこに円が作られたのだ。

そして(ふかえりは)空中に指先でするりと小さな円を描いた。ルネッサンス期のイタリア人画家が教会の壁に描くような、美しい完璧な円だった。始まりもなく、終わりもない円だ。その円はしばらくのあいだ空中に浮かんでいた。「もう終わった」

1Q84 BOOK2 p310

ものごとはしかるべき段階をたどって循環し、ようやくひとつのサイクルを終えたようだった。空中に完璧な円が描かれたのだ。

1Q84 BOOK2 p311

 円の中心には青豆がいて、そして青豆が託したパッケージがある。
 完璧な円には始まりも終わりもない。
 断端も空白もない。
 断端も空白もないところには、もちろん入り口もない。


8. 青豆のための二つの物語

 猫の町での喪失とふかえりによるオハライを経て天吾はとても特殊な存在になった。

青豆、と天吾は思った。
青豆に会わなくてはならない、と天吾は思った。彼女を探し出さなくてはならない。

1Q84 BOOK2 p309

 天吾はもはや作り物ではない。
 自らの意思で、自らの愛で、天吾は動きはじめる。
 もはやただのパシヴァではないし、ただのドウタでもない。
 彼を規定する物語は、1Q84の文脈の中でもなく、1Q84の外側でもなく、彼自身の内に完璧な円としてある。
 そしてその本当に意味するところを私たちはあとで知ることになる。もう少し先の話だ。

「ネコのまちにいけばわかる」とその美しい少女は言った。そして耳を露わにしたまま、白ワインを一口飲んだ。

1Q84 BOOK2 p458

 天吾の最後の変化と時を同じくして、世界も変化を見せる。
 青豆がリーダーを別の世界に移動させたことで、リトル・ピープルは〈声を聴くもの〉を失い、千倉では天吾の父が完全な空白に覆われる。
 そして、いよいよお化けの時間が始まる。物語はまるで幽霊船のように進んでいく。
 天吾と青豆はお互いに求めあいながら、多義的には出会うが(天吾は青豆を探して二つめの月を見つける。そしてその天吾を青豆が見つける)、一義的にはすれ違い、そして青豆は自らの運命を受け入れて、1Q84の世界から出て行くことを選ぶ。

 ものごとのあるべき姿を目にするために、私たちはここでいったん青豆の物語をさかのぼらなければならない。

 場所は柳屋敷。
 青豆と老婦人がお互いの秘密を交換しあったあとに、老婦人から信じがたい提案がなされた。慈悲をかける余地のない男たちを処理する仕事、それを手伝ってほしいと老婦人は言う。
 老婦人は間違いなくある種の狂気の中に、あるいは正しい偏見の中にいる。それは青豆にもわかっている。

どれほど長く考えていたのだろう。深く考えに耽っているうちに、時間の感覚がどこかで失われてしまったようだ。心臓だけが硬く一定のリズムを刻んでいた。青豆は自分の中にあるいくつかの小部屋を訪れ、魚が川を遡るように時間を遡った。そこには見慣れた光景があり、長く忘れていた匂いがあった。優しい懐かしさがあり、厳しい痛みがあった。どこかから入ってきた一筋の細い光が、青豆の体を唐突に刺し貫いた。まるで自分が透明になってしまったような不思議な感覚があった。手をその光にかざしてみると、向こう側が透けて見えた。身体が急に軽くなったようだった。そのとき青豆は思った。今ここで狂気なり偏見なりに身を任せ、それで身が破滅したところで、この世界がすっかり消えてなくなったところで、失うべきいったい何が私にあるだろう。
「わかりました」と青豆は言った。

1Q84 BOOK1 p394

 リトル・ピープルは空白に入り込んで、そこに空気さなぎを作る、という話を前にした。
 だが空白というものは本来、その人の心の奥深くに隠されていて、そう簡単にたどりつけるものではない。
 上に長く引用したこの場面は、青豆自身が長い時間をかけて自分の中の空白にたどり着き、そこに老婦人の「狂気の物語」を受け入れる様子を描写している。
 青豆はその「狂気の物語」が持つ価値の体系に身を投じて、その「物語」が規定する善と悪とに従って、慈悲をかける余地のない男たちを処理していき、その結果として、さきがけのリーダーと対峙する。
 そして、「狂気の物語」の善悪に従ってではなく、天吾への愛の物語に従ってリーダーを別の世界へと移動させた。
 気がついたときにはもう「狂気の物語」は「物語」としての効力を失っている。天吾への愛はしっかりとそこにある。でもそれとは別のところで「狂気の物語」が終わりを告げ、そしてあとには空白が残される。
 タマルは青豆に、タマル自身の物語を語る。青豆は彼らのファミリーの不可欠な一員であり、その絆が断ち切られることはない、というメッセージを送る。でもその物語もうまく機能しない。

しかしそのような密接な関係が、暴力というかたちを通してしか結ばれないのだと思うと、青豆はやりきれない気持ちになった。

1Q84 BOOK2 p373

 空白を埋めることはできない。
 青豆の中心には天吾への愛がある。
 その一方で、そこには確かに空白がある。
 そして、からっぽのアパートにただひとつ残してきた鉢植えのゴムの木のイメージが、青豆につきまといはじめる。

どうしてこんなにあのゴムの木のことが気になるのだろう?

1Q84 BOOK2 p434

 それは私たちにどうしても冒頭のゴムの木を連想させる。
 高速道路の非常階段を下りる途中で目に入った、小さなマンションのベランダにあったあのゴムの木だ。

うらぶれて色褪せたゴムの木だった。葉はぼろぼろになり、あちこちで茶色く枯れている。青豆はそのゴムの木に同情しないわけにはいかなかった。もし生まれ変われるとしてもそんなものにだけはなりたくない。

1Q84 BOOK1 p57

 その連想を止めることはできない。
 私たちはここで、青豆の中に二つの「物語」あるいは「価値の体系」を見ることになる。
 「天吾への愛」と「ゴムの木と金魚の物語」と名づけよう。
 「天吾への愛」は青豆に祝いを与える物語だが、常に抽象的でそして非現実的だ。
 「ゴムの木と金魚の物語」は青豆に呪いを与える物語だ。その価値の体系の中では、青豆には価値あるものは何も残されていない。天吾の温もりだけが別のところで唯一抗っている。
 「天吾への愛」は天吾の持つ物語と同じように、どこまでも青豆だけのものだ。だからこそそれはリトル・ピープルに対する抗体のような力を発揮した。作者から与えられた物語ですらないから、その内容が1Q84の中でそれとして描写されることはない。私たちは青豆の行動や思いの端々から、または天吾側の回想から、その大きさや色形を想像する。
 「ゴムの木と金魚の物語」は、青豆がリーダーを処理する話が具体的になり始めたあたりから、こっそり青豆の中にしのびこんでいた。
 柳屋敷で金魚を見た青豆は、無性に金魚が欲しくなって買いにいくが、どうしても買うことができなくて、かわりにゴムの木を買ってしまう。
 その話は小さな隙間に植えられた不吉な種子のようにそこにあった。
 そして青豆がリーダーを処理した次の日に、唐突に力を持ちはじめる。

「彼らはただそこに刺激を与えただけだ。タイマーの設定を変更するように」

1Q84 BOOK2 p247

 青豆は「天吾への愛」と「ゴムの木と金魚の物語」のあいだで、ふたつに引き裂かれそうになっている。
 「天吾への愛」は小説『空気さなぎ』を通して滋養を得る。
 青豆は『空気さなぎ』を読んで、自分が天吾の立ち上げた物語の中にいることに気がつく。

 私は今、天吾くんの中にいる。彼の体温に包まれ、彼の鼓動に導かれている。彼の論理と彼の鼓動に導かれている。そしておそらくは彼の文体に。なんと素晴らしいことだろう。彼の中にこうして含まれているということは。
 青豆は床に座ったまま目を閉じる。本のページに鼻をつけ、そこにある匂いを吸い込む。紙の匂い、インクの匂い。そこにある流れに静かに身を委ねる。天吾の心臓の鼓動に耳を澄ませる。
 これが王国なのだ、と彼女は思う。
 私には死ぬ用意ができている。いつでも。 

1Q84 BOOK2 p422

 しかし、その一方で「ゴムの木と金魚の物語」が、青豆を強く揺さぶる。

それからひとしきり青豆は泣いた。いったいどうしたのだろう、と青豆は小さく首を振りながら思う、このところ私は泣きすぎている。彼女は泣きたくなんかなかった。あのろくでもないゴムの木のことを考えながら、どうして私が涙を流さなくてはならないのだ。しかしこぼれ出る涙を抑えることはできなかった。彼女は肩を震わせて泣いた。私にはもう何も残されていない。みすぼらしいゴムの木ひとつ残されていない。少しでも価値あるものは次々に消えていった。何もかもが私のもとから去っていった。天吾の記憶の温もりのほかには。

1Q84 BOOK2 p436

 そこには二つの「物語」の綱引きがある。
 青豆は二つの感情のあいだで、二つの自己像のあいだで揺れ動いている。
 そして私たち自身もその「物語」の綱引きに否応なく巻き込まれてしまう。
 青豆は、死ぬ用意ができていると言う。いつ死んでもかまわないと言う。
 でも私たちにはそれが青豆の本心なのかどうかがわからない。
 それが善い意思から来ているものなのかどうかがわからない。
 天吾との運命の邂逅を望んでいたではないか、と思う。
「でも、本当のことをいえば、私は生きて天吾くんとひとつになりたかった」(BOOK2 p290)と言っていたではないか、と思う。
 どうしても「ゴムの木」のイメージがつきまとう。
 青豆の天吾への愛は確かにゆるぎないものだが、しかし、寄り添う現実があまりに儚い。青豆に与えられるのは抽象的なイメージや失われた可能性だけだ。
 一方、「ゴムの木」が青豆に、そして私たちに与える負のイメージは具体的でそれゆえ根強い。青豆は涙を抑えることができないし、その涙は私たちの胸を引き裂く。
 「ゴムの木と金魚の物語」は私たちにリトル・ピープルを思い出させる。
 彼らは、あゆみに対してしたことを、今、青豆にしようとしているのではないだろうか?
 「天吾への愛」の抗体としての力はどうしたのだろう?
 抗体を持っていても、そこに空白があれば彼らの侵入を許してしまうのだろうか?

「それでもいつか彼らは君を追い詰め、厳しく罰するだろう。そういう緊密で暴力的で、後戻りのできないシステムをわたしたちは作り上げたのだ」

1Q84 BOOK2 p286

 本当のところはわからない。
 わかったところで仕方がないかもしれない。それはもうそこにあるのだから。

 そして、その二つの「物語」の綱引きを、天吾との巡り合いが激しくかき回してしまう。
 その夜、青豆は現実の天吾を児童公園の滑り台の上に見つける。
 それは青豆に「今すぐここで彼の太い腕に抱かれたい」という強い思いをいだかせる。
 でも結局は間に合わない。

結果的にはそれでよかったのだ、と青豆は自分に言い聞かせる。おそらくはそれがいちばん正しいことだった。少なくとも私は天吾に巡り合えた。通りを一本隔てて彼の姿を目にし、彼の腕に抱かれるという可能性に身体を震わせることができた。たとえ数分間であっても、私はその激しい喜びと期待を全身で味わうことができた。彼女は目を閉じ、滑り台の手すりを握りしめ、唇を噛みしめる。

1Q84 BOOK2 p443

しかしその短い時間のあいだに、彼は私の中の多くのものごとを変成させていった。文字通りスプーンでココアをかき混ぜるみたいに、私の心と身体を大きくかき回していったのだ。内臓や子宮の奥まで。

1Q84 BOOK2 p460

 そして青豆は、かき回された綱引きを抱えたままに高速道路を訪れる。
 出口が塞がれていることを確認して覚悟を決める。
 私たちは、気持ちを見定められないままにそのときを迎える。

 「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。

1Q84 BOOK2 p474


9. 二つめの月とあなたについての短章

 終章へと進む今、あなたに話しておきたいことがある。
 二つめの月について、それから、あなたについて。

 『空気さなぎ』の中に天吾が描いた二つめの月が、青豆だという話はすでにした。
 では、そもそも月が二つになることの意味は何なのか?
 ヒントはいつも青豆がくれる。
 あゆみを家に泊めて二つめの月を発見した、その次の夜だ。
 月は相変わらず二つのままだが、青豆はもともとある大きいほうの月についてこう考える。

月は誰よりも長く、地球の姿を間近に眺めてきた。おそらくはこの地上で起こった現象や、行われた行為のすべてを目にしてきたはずだ。

1Q84 BOOK1 p381

 似たようなことが二つめの月に対しても言えるはずだが、二つめの月にはその性質上いくつかの条件がつくので、先の引用はこう書き換えられる。

二つめの月はドウタが目を覚ましたときから、地球の姿を間近に眺めてきた。おそらくは、その二つめの月が見えるひとのいる場所で起こった現象や、行われた行為のすべてを目にしてきたはずだ。

 ドウタ(登場人物)が目を覚ますのは、物語が始まるときだ。
 物語の始まりから、物語の世界で起こった現象や、行われた行為を目にしてきたもの、それが二つめの月が意味するものだ。
 つまり、二つめの月とは読者を、あるいは読者の視点をあらわしているのだ。
 そしてそれが、あなたについて話さなければならない理由になる。
 前にあなたはレシヴァだと書いた。
 では誰のレシヴァなのか?
 パシヴァは誰か?
 問われるまでもなく、あなたにはもうわかっているはずだ。
 あなたが誰の思いに心を動かされてここまで来たのか。
 あなたが誰の涙に胸を痛めてきたか。
 あなたが誰のために手を差し伸べられることを願ったのか。
 そして二つめの月。
 あなたははじめから1Q84に含まれていた。
 あなたの姿はそのパシヴァの名を模して、ずっと1Q84の空に描かれていたのだ。

 あなたは青豆のレシヴァだ。
 そして、いびつなかたちをした緑色の月だ。

「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」

1Q84 BOOK2 p290

 しかし、これはそんなに驚くことではないはずだ。
 もともとあなたは青豆に向けられたこの言葉を自分のものとして受け入れたからこそ、ここまで来たのだから。
 青豆が知覚する。あなたが受け入れる。
 そして、あなたは青豆のレシヴァとして終章へと進む。


10. 三文の物語とヘックラー&コッホの行方

 最初に言っておこう。
 私たちはここから少し先で道をわかつことになる。
 同じ道を歩くことができないと言っているのではない。
 私は、歩く道は同じだと確信している。
 言いたいのは、これから起きることはどこまでも個人的な体験にとどまる、ということだ。
 読書とはもともと個人的な体験じゃないかと言われればその通りなのだが、でも私が言いたいことはもう少しややこしい。
 1Q84は物語であることを主張するような物語であり、天吾は自らつくりものであることを示唆するような登場人物だった。それらと同じ意味あいにおいて、ここから先はどこまでも個人的な体験にとどまるのだ。
 私は案内役として私の歩いた道をあなたに示すが、私にできることはそこまでだ。
 あとはあなたが、青豆のレシヴァとして、あなたの足で歩かなければならない。

 千倉の療養所で、天吾は長い時間をかけて、意識のない父親に自分の物語を語る。
 夕方に父親は検査のために運び出されていく。
 そして日の暮れた病室のベッドのうえ、父親の身体が残したくぼみに、天吾は空気さなぎを見つける。
 天吾はそれが自分自身の空気さなぎだと直感的に判断するが、なぜそれがそこにあるのかがわからない。
 でも私たちにはわかる。私たちはその空気さなぎが長い時間をかけて作られていくさまをじっと見ていたのだから。
 空気さなぎとは物語だ。空白に紡がれる物語だ。天吾は空白に覆われた父親に向かって、自らの物語を語ることによって、そこに空気さなぎを作り出していたのだ。
「あなたはかわった」とふかえりは言った。でもどう変わったのか、天吾にはわからなかった。今ならそれがわかる。彼は自らの『天吾』の物語を、空気さなぎを作ることができるようになったのだ。
 天吾が父親に語った物語は、あの雷鳴轟く夜に、ふかえりのオハライによって作られた完璧な円の物語だ。円の中心には青豆がいるはずだ。青豆の託したパッケージがあるはずだ。
 
 でも天吾は怯える。
 それが自分の空気さなぎであることを直感的に理解しているにもかかわらず、いや、理解しているからこそ怯える。自らの空気さなぎと向きあうことに恐怖を感じる。
 「物語」あるいは価値の体系の話で、もっとも危険なのは空白だと言った。そして三番目に危険なものは偏狭な精神を持った宗教的原理主義者と、家庭内暴力をふるう卑劣な男たちと、便秘だと言った。そこに「折りじわのよった服を着ること」を加えてもいいかもしれない。
 では二番目に危険なものは何か。
 この「怯え」である。
 私を含み、私を護っているこの「物語」、この価値の体系そのものと向きあう、そのことに対する「怯え」だ。その怯え自体は正当なものだと思う。何が善くて何が悪いか、何が幸福で何が不幸か、何が価値あることで何がそうでないか、すべてはこの「物語」によって与えられている。じつはこの付与こそが、彼らが私たちに与えてくれる最大の恩寵なのだ。そしてこの「怯え」がその代償となる。自分の属する「物語」と直接に向きあった先に、何が起こるかは誰にもわからない。もし私が依拠している「物語」を私自身が否定するようなことになれば、私はすべてを、まさにすべてを失うことになるだろう。その「物語」が大切なものであればあるほど、それと向きあうことは恐怖となる。

「君は怯えている。かつてヴァチカンの人々が地動説を受け入れることを怯えたのと同じように。彼らにしたところで、天動説の無謬性を信じていたわけではない。地動説を受け入れることによってもたらされるであろう新しい状況に怯えただけだ。それにあわせて自らの意識を再編成しなくてはならないことに怯えただけだ。正確に言えば、カトリック教会はいまだに公的には地動説を受け入れていない」

1Q84 BOOK2 p282

 だが、その「怯え」を抱えているかぎり、私たちは偏狭な「物語」の中にいつまでも閉じこもることになる。
 外なる「物語」を認められないところにとどまることになる。
 なによりも自分にとって大切な「物語」と向きあえないことになる。
 天吾は自らの物語と向き合うために、その「怯え」を越えていく。
 その空気さなぎに手をかける。

 天吾がそこに見出したのは、美しい十歳の少女だった。
 青豆、と天吾は口に出した。(中略)天吾の口にした言葉は少女の鼓膜をわずかに震わせることができた。それは彼女の名前だった。

1Q84 BOOK2 p498

 そして、空気さなぎを介して、天吾の物語と青豆の物語がここで交わる。
 天吾の空気さなぎが、ほんの一瞬だけ天吾の物語の中に青豆の物語を引き入れる。
 

青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。

1Q84 BOOK2 p499

 青豆はあの高速道路にいる。
 場所は遠く離れていて、時間はまだ午前中だ。でもそんなことはかまわない。空気さなぎをあいだに挟んでいるのだ。
 原因と結果は入り乱れている。

「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。

1Q84 BOOK2 p474

 青豆の中には、かき回されたままの「天吾への愛」と「ゴムの木と金魚の物語」がある。
 私たちは青豆のレシヴァとして、二つの「物語」の綱引きにすでに巻き込まれている。
 その綱引きの結果に対する、私の、あるいはあなたの判定がここで静かに問われている。
 青豆の物語はわずか三文だ。

青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。

1Q84 BOOK2 p499

 青豆ははじめて天吾にその名前を呼ばれる。それが天吾の声であることが青豆にはわかる。そして青豆も天吾の名を呼ぶ。これ以上のことはなにも描かれていない。
 忘れてはならないのは、ここが新しいフィールドだということだ。
 ここには新しいルールがあり、新しいゴールと新しい力学がある。
 私たちはこの新しいフィールドを支配する新しいルールを、ほんの一部かもしれないが、知っている。
 ひとつは、空気さなぎが原因と結果の関係を超えて、世界に影響を与えうるということ。
 もうひとつは、私、あるいはあなたは、二つめの月として、青豆のレシヴァとして1Q84に含まれている、ということだ。
 そして、ここで私とあなたの道がわかれる。
 綱引きの結果は、私の心が決める。
 私の目が何を見ているか、私の心が何を感じているか、あとはそれら次第だ。レシヴァが受け入れていること、それはパシヴァが知覚しているものだから。
 青豆は、天吾が自分の名前を呼んでいることを知る。
 天吾が自分を探していることを知る。
 そして、青豆の心に、天吾の愛があふれ、綱引きはひとつの結末を迎える。
 そして、この新しいルールと綱引きの結末に基づいた視点が、私にあることに気づかせる。たったひとつの言葉だ。この視点がなければ、それは物語の文脈に埋もれてしまっていただろう。
 実際、BOOK2の終わりを読んでいるときは気にも留めていなかった。
 でも、今ならそれに気づくことができる。
 今私たちがいる場所はBOOK2の終わりではないからだ。
 私たちは物語が一度終わったところから出発している。
 テキストは同じだが、私たちはBOOK2の終わりのその遥か先にいる。
 それは、そこにはっきりと書かれている。いや、「はっきりと」と書かれている。

青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。

1Q84 BOOK2 p499

 その言葉はずっとそこで、ひとつの可能性を内包しながら、自分が発見されるのをじっと待っていた。
 青豆は「天吾くん」とはっきりと口に出している。
 いったい誰が銃を口にくわえながら、はっきり「天吾くん」なんて言えるだろうか。そこにヘックラー&コッホはないのだ。それはもう青豆の口からはずされている。
 空気さなぎが物語を書き換える。
 私の目は勝手に、その先を見てしまう。
 ヘックラー&コッホはすでに彼女の手から滑り落ちている。青豆は泣いているんじゃないかと私は思う。そしてメルセデス・ベンツ・クーペから降りた身なりのいい中年の女性が青豆に歩み寄っているんじゃないかと私は思う。泣く青豆の手に温かく触れるものがある。

 それから思い切って手を伸ばし、空気さなぎの中に横たわっている少女の手に触れた。そこに自分の大きな大人の手をそっと重ねた。その小さな手がかつて、十歳の天吾の手を堅く握りしめたのだ。その手が彼をまっすぐに求め、彼に励ましを与えた。淡い光の内側で眠っている少女の手には、紛れもない生命の温もりがあった。青豆はその温もりをここまで伝えに来てくれたのだ。天吾はそう思った。それが彼女が二十年前に、あの教室で手渡ししてくれたパッケージの意味だった。彼はようやくその包みを開き、中身を目にすることができたのだ。
 青豆、と天吾は言った。僕は必ず君をみつける。

1Q84 BOOK2 p499

山の迫った海岸線に沿って、特急列車が大きなカーブを描いたとき、空に並んで浮かんだ二個の月が見えた。静かな海の上に、それらはくっきりと浮かんでいた。大きな黄色い月と、小ぶりな緑色の月。輪郭はあくまで鮮やかだが、距離感がつかめない。その光を受けて海面の小波が、割れて散ったガラスのように神秘的に光った。二つの月はそれから、カーブにあわせて窓の外をゆっくりと移動して、その細かな破片を無言の示唆として残し、やがて視野から消えていった。

1Q84 BOOK2 p500

 私と天吾は、そこで最後に顔をあわせて、言葉を交わすことなく別れる。
 私は、月に与えられた特権として、そのあと少しのあいだ天吾の様子を見つめて、そして、長い物語が終わりを告げる。

 リーダーには申し訳ないが、実際に物語が終わってみても、物語が終わるということがどういうことなのか、私にはよくわからない。
 その先にはどのような世界があるのか、あるいは、ないのか。
 でも、天吾の心は決まっている。

僕は必ず君を見つける。

1Q84 BOOK2 p499

 その心が青豆を満たす。
 私はただそれを受け入れる。


11. 一匹の蝶の羽化するまで

  最初に「空気さなぎという名前の本当の意味を知ることなる」と書いた。
 その約束を今、果たしたい。
 空気さなぎは、その形状は「まゆ」なのに、なぜか名前には「さなぎ」を冠されている。

「だいたい題名からして、さなぎとまゆを混同しています」

1Q84 BOOK1 p35

 天吾も指摘している通りだ。
 辞典を引くとこう書いてある。

さなぎ【蛹】①完全変態を行う昆虫類の幼虫が、成虫に移る途中で食物の摂取を止め、脱皮して、静止しているもの。(中略)繭の中に入っているもの(ガ・ハチなど)と裸のもの(チョウ・甲虫など)とがある。

広辞苑 第六版

まゆ【繭】①昆虫の蛹を保護する包被。

広辞苑 第六版

 つまり、まゆが外殻、形状で、さなぎがその中身、内容だということだ。

 空気さなぎが、空気の中から取り出した白い糸をくっつけて作られていくのと同じように、物語は、何もなさそうに見えるところから、言葉を見つけて文章を紡ぎ、それらをひとつにつなぎあわせることで作られる。そして、物語においては、その形である文字の並びがそのまま物語の内容であり、その形と内容を切り離すことはできない。
 つまり物語とは、まゆのように作られるものなのだが、そうやって作られたものそれ自体がそれの意味内容、中身であるという点で、さなぎ的なのだ。
 空気さなぎが物語であるからこそ、それはまゆのような製法および形状とさなぎの名をあわせ持つ。

 空気さなぎがその成り立ちにおいて、まゆ的側面とさなぎ的側面を持っているということはわかった。
 では、空気さなぎの役割・機能についてはどうだろう?
 まゆとしての機能は明らかだ。
 私たちは1Q84の中で何度も空気さなぎがまゆのように割れて、その中身が出てくるところを目にした。それが割れて中身が出てくるからこそ、それはまゆなのだ。
 同じアナロジーに従うなら、そのさなぎとしての機能は、それ自体が中身として羽化すること、つまり空気さなぎが羽化することによって示されなければならない。
 しかし、1Q84の中の空気さなぎはどれもまゆのように割れてしまって、羽化についてはまったく描かれていない。

 だが、羽化する空気さなぎは存在する。
 1Q84という物語がそれだ。
 空気さなぎの羽化は、1Q84の中に描写されるものではない。
 それは1Q84によって示されるべきものなのだ。

 もう一度、小松のあの言葉を引こう。

「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな? しかし空に月が二つ並んでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまでに目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる」

1Q84 BOOK1 p309

 確かにその通りだ。
 でも、それが「誰もこれまでにまったく目にしたことのないものごと」だと、話は変わってくる。
 誰もまったく目にしたことのないものごとを、細かく的確に描写することなど私たちにはできない。それを伝えるための言葉を、私たちは持っていないのだから。
 あるいは、今持っている言葉で伝えることができないからこそ、これまで誰もまったく目にしたことがないと言えるのかもしれない。
 
 だから、あなた自身にここまで来てもらうしかなかった。
 ここに実際に立って、あなたの目で見てもらうしかなかった。

 あなたは一度1Q84を読み終えて、それから私の誘いにのって1Q84を振り返ってくれた。
 今、もう一度だけ後ろを振り返ってほしい。
 あなたにも見えているだろうか? この風景が。
 一度読み終えたときは物語にすぎなかったものが、ただの空気さなぎにすぎなかったものが、呼び名を持たない何かに姿を変えて、1Q84があったはずの場所で静かに動き出しているあの姿が。
 空気さなぎの白い糸の一本一本はそのまま変わることなく、でも互いの束縛を超えて組みかわり、あるいは右の翅の細かな鱗毛となって淡い色彩を帯び、あるいは左の翅脈となって全体に澄んだ液体を送り届けている、あの姿が。
 それはその場所で静かにうずくまりながら、その時が来るのをじっと待っている。目を凝らせば体幹の薄い表皮ごしに、できたてほやほやの心臓が儚く、でも確かに生の力強さを秘めて拍動している様子が見てとれる。心臓の送り出す液体は、淡い青の混じった光を宿しながら翅脈を登り、今はまだしわのよった弱々しい両翅を、ゆっくりと押し広げている。
 
 最後に、私はあなたに問いたい。
 もしかしたら、このために私はあなたにここまで来てもらったのかもしれない。
 誰かに問いかけたくてしかたがなかったのかもしれない。

 あれはいったい何なのだろう?

 答えを急ぐ必要はない。
 おそらく私たちはこの問いに答えるための言葉をまだ持っていないのだろう。
 それでも、問わずにはいられなかった。
 
 ここに示すことができたのは1Q84の基本的な構造にすぎない。その射程はあまり高く、あまりに広い。私たちはあの翅がどのようにはばたくのかをまだ知らない。そして、おそらくはこれから永い時間をかけてそれを目にすることになる。

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