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小説『チョコレートの落ちるころ』(2105文字)

 どこまでも高い空の中を、たくさんのチョコレートの包み紙と一緒に、私はふわふわ降下していた。
 まるでパラシュートのないスカイダイビングみたいだった。この世にはもう、私を受け止める地面なんてないんだと思った。
 私の眼下に広がる、赤と青で彩られた東京の街は、今や廃墟の群れでしかなかった。街灯も信号機も道路標識も、すべてがひび割れたり欠けていたりした。まるで大きな隕石がいくつも衝突したみたいな景色だ。
 廃墟の中の赤色の正体は、燃え盛る自動車たちだった。青い方は水面の青。炎と水の都が眼下にあった。

 私は自分の手を顔の前に持ってきてみた。指先の感触は、確かに人間のそれだ。でもそれは、人間の手というよりは機械の手のように思えた。皮膚はプラスチックみたいに硬くて冷たかったし、爪も鉄みたいに鋭かったからだ。その硬い手の中に握り締められているのは、銀色に輝く拳銃だった。
 私は銃口を自分のこめかみに当てた。それから引き金を引いた。耳元で大きな音がして、視界が真っ白になった。痛みはなかった。ただ、目の前にあったものが粉々になって消えていっただけだ。

 視界が戻ってくると、そこはさっきまでと同じ世界だった。私はまだ落ち続けていた。こめかみにも傷一つないらしかった。
 今度は少し考えてから、もう一度引き金を引こうとした。ところができなかった。
 できないというより、やり方を忘れてしまった感じだった。
 だから私は、代わりに右手を持ち上げて、銃口の代わりに頭の上に向けることにした。そしてそのまま引き金を引いた。再び耳の奥で大きな音が鳴ると同時に、頭の上の方に大きな穴ができた。そこから大量の血が流れ出したけれど、不思議と痛くなかった。
 ただ、目の前にあるはずの東京の街が見えなくなってしまっただけだった。

 私は依然として、東京の街の上空にいた。
 見渡す限り、廃墟しかない場所だ。
 私はそこで、誰かの名前を呼ぼうとしてみようとした。でも無駄だった。誰の名前も出てこなかったのだ。どうしようかと考えた結果、私が思いついた名前は〈死〉という名前だった。なんだかしっくりこなくて、もっと別の名前を探すことにした。すると突然、ある単語が浮かんできた。

 ——〈マザーグース〉。

 なぜそんな言葉が出てきたのか分からなかったので、私はとりあえず、自分がその言葉を知っていることだけを確かめておいた。

 次に私は、自分の体について調べることにした。まずは胸から始めた。
 服の下に隠れているはずの乳房に触れようとしてもうまくいかなかった。仕方なく服をまくって確認してみた。しかしそこにあったのは、金属板に覆われた冷たい肉体だけだった。私の体は金属製になっていたのだ。それに気づいた瞬間、激しい怒りを感じたけれど、すぐに別の感情に上書きされてしまった。

〈おなかすいたなあ……〉

そう思った途端に猛烈な空腹に襲われた。同時に強烈な喉の渇きも感じた。私は慌てて両手で体をまさぐった。ポケットを探してみるけれどどこにもなかった。服の中にも何一つなかった。それでもあきらめきれずに探していると、不意に何か硬いものに触れたような気がした。私はそこに意識を向けたまま引っ張った。すると信じられないくらい簡単にそれは出てきた。小さな銀色の鍵だった。
 鍵を握っているだけで、私は安心することができた。とても大事なものだということが分かった。どうしてこんなところにあるんだろう? とにかく、これがあればきっと大丈夫だと思った。
 私は、自分の記憶や感情や体の状態をできるだけ詳しく分析することにした。それが今の私に残された最後の行動のような気がしたからだ。

 〈マザーグース〉という言葉の意味は知っていた。それは、百年以上前に英国で生まれた童謡の題名だ。有名な話だから、誰もが聞いたことがあるだろうと思う。

 私は落下しながら、童謡を歌った。

 歌詞を覚えていたわけじゃないから、所々おかしなことになっていたけれど気にしないことにする。でもなぜか途中で、声帯の調整が必要になってしまった。
 私はしばらく歌うことをあきらめて調整を続けた。ようやく歌が終わってみると、私の声には聞き覚えのない電子的な響きが混じっていて、しかも妙に大きく響いていた。どうせなら思いっきり歌ってしまおうと思って、さらに大きな声で歌った。今度は声が大きすぎたらしくて、また調節が必要だった。
 何度かの失敗の後で、なんとか普通に聞こえるようになった。それからもう一度歌い直そうとした時だった。私の背後に大きな黒い物体が出現した。振り返るとそれは大きな船だった。私はその船の名を思い出そうと必死になった。
 しばらくして思い出せたその名前を口にしようとした瞬間に、私の中からあらゆる情報が溢れ出してきた。私は自分が今どこに向かっていて、何をしようとしているのかを理解した。
 私はマザーグースになりたかったのだ。
 そして今まさに、私はマザーグースになろうとしているところなのだ。
 私は再び空を見上げた。
 そこには相変わらず廃墟の街があった。私はその街に向けて急降下を始めた。

 私はマザーグースになるのだ。

〈了〉

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