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短編「四人の女の影」(10枚、マジックリアリズムの文体)

「そろそろあのころの風景や心象やできごとを、あなた自身のためにどのような形でもまとめてみてはいかがか、過去や記憶はうすれる。いかようにも変わる。だがなにひとつ焦る必要はありません。他者にみせる必要もない。わたしは来月定年。あなたの過去や記憶をみる機会はない。では今回の診療をもってわたしはあなたの診療を次の医師に引きつぎます。二十五年のあいだおつかれさま」

 医局部長の診察はまるでブレーカーがおとされたようにとつぜん終わった。

 四半世紀にわたった心療が突如終わってすさまじい虚脱感に襲われた男は、あてのない生き霊のようになってうつろな目のまま荷物をまとめ療養していた実家をとびだした。

 男は2ミリほど足を宙に浮かせホームセンターまであるき陳列された二十七すべての種類の錠前と掛け金を指さした。それからクラスメイトにも担任にも校長にもPTAにも教育委員会にも用務員が飼う犬にもいじめられた思いだしたくもない小学の母校まであるき、交番の角を曲がってそのまま駅前ロータリーまであるき、ロータリーぞいに建つ古書店とパチンコ屋アンラッキーをぬけて、通行人を邪魔するようにラクダ色の股引やババシャツのワゴンにサイズが異常に小さいキティちゃんのショッキングピンクのエナメルバッグが歩道につきでたシャッター街金天閣をあるき、精神医療センターの通院のかえりに必ずよる中央図書館を尻目に昼休みのバンや軽の窓からでる腕が灰皿をひっくりかえしている農道をあるき、クヌギやサクラなどの広葉樹にかくれるようにひっそりとたつ共同霊廟まであるき、その向かいにあるコンビニをうしろめたい目でみながらあるいて、坊ッちゃんスタジアムから逸れた街のはずれの工業団地まであるき、男が小さかったころ上流からよく人の死体や動物の死骸が流(なが)れてくると噂が絶えなかった川に沿って戦後の政府の事情かなにかで近隣から村八分の路地まで地に足を一度もつけずにあるいた。

 目のうつろな男は左手を路地にこすりつけボヤだかつけ火だかで半壊し、夜ごとに花火の燃えカス、干からびたコンドーム、金属バット、拷問板のようなものに吊るされた電池の切れたハンドマッサージ器、聴診器、ナース服、医療用ベッド、われた百円ライター、焼けたアルミホイル、焦げたスプーン、折れた注射針や、よく目を凝らしてみるとくだけた乳児の白骨が堆積する産婦人科の看板がくずれおちた廃屋の二階ににげこみ二十七の錠前と掛け金を取りつけ閉じこもった。

 三日三晩の、堕されすてられた赤子やつながれて嬲られ犯され殺された女の死霊たちの説得がようやく実ったころ男の金がつきた。

 男は自分の障害者年金を管理している母に連絡ととろうとしたが携帯が死んでいることに気がつき二階から町を見渡し電話ボックスをさがすが路地の電線はみな金に変えられていた。男は二階の窓から携帯をなげ捨てた。携帯は放物線をえがきドブ板にあたると板の裏にびっしりついていた肉厚ゴキブリが散った。それを合図に塀や生け垣の陰から目をかがやかせた片足や片腕や片目や片耳や指や鼻がおちたまた目や鼻や頭や腕やまた足がひとつふたつ余計に多い子どもらとともに野犬がわいてでた。鉈をもった大男が肉づきのいい犬を選んで真二つにして担いで去っていった。

 男は隣町の電話ボックスへ行って母に年金は自分で管理すると伝え預金通帳をたしかめると二十五年間、夜は不眠で昼は過眠で寝たきりで食事は母がつくるさばの塩焼きと味噌汁の一日一膳だったのに残高は0だった。母は男の年金を二十五年間着服していた。男はとりあえずまとまった額を口座に入金させ家族と縁を切った。いっそのこといま男の住む四国から海の見えない北海道の山塊の奥地とかへ引っ越そうか迷ったが思い残しがふたつあるため外へ出ることができなかった。

 ひきこもった廃屋の産婦人科の二階で男は医局部長の言葉を思いだしていた。医局部長は男が発狂した発端の過去をまとめてみてはいかがかと簡単に言った。だが一度とおり過ぎて失われたひとの過去の記憶をなんらかの形に再構成するのは至難の業とかの問題ではない。無理な作業だ。記憶は常に美しく捏造される。なにか決まった型のフォルムの容器に入れるかして限りなく過去に近い形の幻想をでっち上げるくらいが関の山だ。が医局部長の言葉は男の胸のなかでグツグツと対流するマグマのようにつかえていた。

「二十五年前の記憶をあなた自身のために、どのような形でもまとめてみてはいかがか」

 ある真冬の日(まさに今日だ! )男の頭にふと医局部長の診察室で面壁二十五年をしてきた成果が降って湧いた。男は医局部長がのこした言葉どおりどのような形であれ二十五年のあいだ男の頭のなかで捏造されつづける記憶のなかに足を踏みこんでいった。

 男は、沼の底に沈む二枚貝のように堅くひきこもっていた二十七の留め金で固められた廃屋の戸を足でぶちあけコンビニへはしった。

 戸をでてすぐ男は階段を転げおちた。それでも男は全身打撲で顔や肩や胸や膝や腿やあちこち紫に染まりながら数キロはしりつづけた。

 全身打撲の激痛でのたうっている頃、男はすでにひとりの力では後戻りできないところまできていた。コンビニは眼前にあった。二十五年来の運動不足で肺と心臓に無数の針がさした。両脚がもつれどちらかわからなくなった片一方が腓返りをおこし男はコンビニまであと一歩の所で石手川に転落した。

 男は石手川の薄氷のうえを真冬の風がふきすさぶなかバリバリところげ回った。全身を血にそめた。はだしのまんま部屋をとびだした男の皮はぜんぶはがれ塩を塗りこんだようにいたんだ。八時間をかけてコンビニについた。

「いらっしゃいませ! 」

 男はあわててコンビニからにげようとしたが、ずぶ濡れの足が床に滑ってまたすっころんだ。

「お客さま大丈夫ですか? 」

 レジに立っていたのは、男が絶対に会いたくない二十五年のあいだずっと思いを寄せている女性だ。ひとつ目の男の思いのこしだ。

 店内には彼女しかいなかった。男はおろおろし色えんぴつも買おうとした。だがコンビニにそれはなかった。男は色ペンを買った。

 自動ドアが閉まる直前、コンビニの女性店員の声に男は背筋が凍りついた。

「さようなら、二十五年の間ひと言もお声をおかになってくださいませんでした。わたし明日、引っ越します。結婚するんです。わたしもう四十五です。富山へ嫁ぎます。富山の一ノ瀬旅館の若女将になるんです。もしあなたがわたしに…   一言でもわたしに…   声をかけてくださっていたら、わたしの人生はちがっていたかもしれません。本当にさようなら」

 男は崩れさった。

 コンビニの女性店員は流暢な日本語を話す中国人女性だった。コンビニの女性店員は男が二十七年前、中国の北京に留学していた時の北京語教室の恩師にそっくりだった。男は王老師に思いを告げず身近で手軽だったクラスメイトの韓国人女性とつきあい結婚し女児をもうけ娘が二歳の時、王老師を想いながら男は離婚した。男はいまも王老師の影を追っている。男はその足で図書館へ走った。 

 部屋から股引にパーカー姿でで、パーカーは川で濡れて捨てたのでいまの男は生乾きのシャツに股引姿のありさまだ。

「こんにちは」と司書の声が聞こえた。

「ぐゃッ」
 男は図書館からにげようとしたが寒さで膝から崩れおちた。

「大丈夫ですか? 」

 受付にいたのは男が絶対に会いたくない二十五年のあいだ思いを寄せる女性司書だ。男のふたつ目の思い残しだ。

 図書館の女性司書は男が二十八年前に惚れけっきょく思いを告げられずいまでも彼女の影を追い求めている女性と、男がそのむかし東京で学生のころ作った劇団の振付師と瓜二つだった。男は女性司書をみるたびに司書の彼女が好きなのか二十八年前の振付師の彼女を追い求めているのか、彼女という影はいったい何者なのか? わからなくなる。

 男は図書館の女性司書、あるいはコンビニの中国人女性店員、またその両方をみかけるたび家に帰ってすぐ、はげしく自慰をする。だが男の根本的な問題は自慰で簡単にながせる問題ではなかった。閉館間際だった。

「帰るんですね」
 と女性司書はいった。

「ひゃッ」

 男は飛びあがったまま空中でかたまった。

「また、帰るんですね」と女性秘書は、はっきりと、まとた、の母音を強調して言った。それは閉館だから帰るんですね。という意味合いとはニュアンスがあきらかにちがっていた。

「ひッ! 」

 だが男は、いく度目かの膝からの全身瓦解に耐えた。男は黒豹に睨まれた小動物のように震えただ呆然と立っていただけだったが。

「帰ってしまうんですね」

 明らかにトーンダウンした演技めいた語調の「帰ってしまうんですね」のなかには、女性司書の、男に対する諦めや不満や憎悪や哀しみや哀願や軽蔑や性欲や祈りや絶望などがふくまれていた。男はそれが愛だと女性司書自身に悟られることを恐れた。ふたりは阿形吽形のようににらみ合ったままかたまった。

 五分か十分か。一時間か。どれくらい経ったろうか…   ブーン…   うなる図書館の生暖かい空調…   ドライアイスのような冷えた女性司書(コンビニの中国人女性)の鋭いまなじり…    王老師…    劇団員の振付師…     医局部長のことば…     男は自分の肉体が冬眠から溶解するようにかんじた。

 男は部屋にもどって物語をかきはじめた。

「そろそろあのころの風景や心象やできごとを、あなた自身のためにどのような形でもまとめてみてはいかがか、過去や記憶はうすれる。いかようにも変わる。だがなにひとつ焦る必要はありません。他者にみせる必要もない。わたしは来月定年。あなたの過去や記憶をみる機会はない。では今回の診療をもってわたしはあなたの診療を次の医師に引きつぎます。二十五年のあいだおつかれさま…


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