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【評】色気とあざとさ(色気・色香 つづき)

色気が各人の歴史から立ち上るものなら、あざとさはそれを小手先で真似たテクニックだ。憧れ・嫉妬・悪事・恨み・魅了…「あざとさ」に向けられる感情は、良いものから悪いものまで、様々あるだろう。わたしが小さい頃は、悪い意味が主だっていたが、今では認められ、市民権を得た人気の言葉のように思える。

言葉は、それ自体では何の意味も持たない。文脈によってのみ理解されるものである。巷には常に諸説が存在するが、社会が、加速度的に便利になり、効率的に物事を処理できるようになったことについて異議を唱える者は少ない。「生きる」とは、真に面倒臭いものであるが、「生きる」ための仕事について、技術開発により多くの工程が削除され、わたしたちはより多くの時間を、自分の『好きなこと』に使えるようになった。

最近は、この『好きなこと』でさえ、簡略化されているのではないだろうか。テレビを観る若者は減り、紙の本や雑誌を手に取る者も減り、それらは動画配信サイトや電子書籍に変わった。現物がデータに置き換わることで、どれだけのものが短縮されているか、日々考えてみることはほとんど無い。しかし、確かに受け取る情報の性質は大きく異なるものになっているのである。それは、ある面では一度に受け取れる純粋なデータ量が増えたとも見えるが、他方では生物・動物としての「ヒト」が感じ取れる総体のごく一部しか認識しなくなったともとれる。言うなれば現代社会はデータの海であり、機能が単一で局所的に研ぎ澄まされたカタチのコンテンツが散らばっている。

社会はそのままでは意味を持たない。データそのものは、ただのカケラである。そこらの塵芥と何も変わりはしない。言葉に意味を持たせるのは文脈だと言ったが、社会を社会たりしめるのもまた、単純化ではなく複雑化である。
猫がいるから犬がわかるのであり、ぶどうがあるからりんごを認識できる。机や椅子や布団がわからなければ、こたつなんて複雑な概念は理解できない。また逆に、高次の概念の理解が、低次の事象の理解に役立つことも多い。太陽系を知れば、地球や月の理解が進むように。

複雑化、というと語弊が生じるかもしれない。要は、他のものと比べて初めて"意味"が生まれるのだ。相対的にしか概念は認知出来ない。また、その解釈(=相対的な位置付け=意味付け)の部分こそがヒトにしかできない、価値のある行為である。

比較する概念の体系が一つ繰り上がることを、抽象化と呼び、人によっては成長とも言う。繰り上がることが善いことであるとはわたしは主張しないが、"繰り上がる"その感覚は、知っておくに越したことはないと思う。事象から離れた、もう一つの世界の広がりを認識する目を持つことになるからだ。選択肢を多く持っておくことは、生物にとって必ず有益となる。レベルの昇降が可能になることは、受け取るデータそのものの量を増やすよりも遥かに有益である。

さて、冒頭に戻ると、「あざとさ」は色気を単純化した概念ではないかとわたしは考えている。元々は小賢しい、といった意味合いもあったが、最近はもっぱら「他人に可愛らしさや愛らしさ・また特に恋愛的な意味での魅力を感じさせるため"だけ"の行為全般」を指して用いられることが多い。つまり、『色気』・『色香』という言葉を成熟した意味合いに押し上げた為に、より低次元に単純化された概念として『あざとさ』が頻繁に用いられるようになったのではないか、とわたしは考えている。

私が育ったのは、海も空も近い町でした。風が抜ける図書室の一角で、出会った言葉たちに何度救われたかわかりません。元気のない時でも、心に染み込んでくる文章があります。そこに学べるような意味など無くとも、確かに有意義でした。私もあなたを支えたい。サポートありがとうございます。