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散歩中見かけた時代に取り残されたデンジャラス遊具に同情した。

最近散歩をする。
金がないのでやることがないからだ。
家で本を読んで、筋トレをして、飽きたらあえて遠くのスーパーまでコーラを1本買いにいく。いつも違う道を歩くので地元なのに知らない街に来た気分になれる。とても楽しい。ちょっと横道に逸れるけれど、無料で楽しめる人間は強いと思っている。自分を肯定したいだけなのだけれども。
そんな感じで今日も散歩をしていると見覚えのない公園にたどり着いた。いや、地元だから知っているはずなんだけれども。スーパーまで徒歩20分、倍の時間をかけて歩くから、僕の散歩範囲は割と広い。それに加えて田舎なものだから公園がめちゃくちゃある。住宅街にぽっかり空間を空けてそこに土と遊具をぶち込んだような公園がたくさんある。それゆえに「え、こんなところに公園が?現象」が度々起こる。本当はそこをなん度も通っているはずなのだけれど、そういうときは決まって移動の最中に通り過ぎるだけなので、散歩で街をジロジロと見ると意外と、知らない景色に見えたりする。
その見覚えのない公園は、バスケットコート2,3面はあるんじゃないかというサイズで、結構大きかった。住宅街のど真ん中にはふさわしくない規模と生い茂る草木に違和感を覚えずにはいられなかった。その公園にはブランコ、滑り台、そしてジャングルジムと吊り橋とよじ登る網的なアトラクションが合体した遊具があった。最後のやつは多分、想像できる人も多いかもしれない。アレである。公園の広さの割に遊具が少なくて、遊具の位置関係も奇妙な感じがしたのでおそらくかつてはもっと遊具があったのだろう。誰かが怪我をしたとか、破損したとか、近所のお節介爺さん婆さんPTAが自治体に「危ないから撤去しろ」とでも言ったのだろう。実際、僕の家の近くの公園もかつてはブランコ、滑り台、鉄棒、タイヤ(飛び飛びするやつ)、動物の乗り物(跨ってグングン揺らすやつ)、砂場、シーソー、それらに加えてフェンス付きのグラウンドと実にバラエティに富んだ、贅沢な公園がいくつかあったのだが、時の流れとともに遊具は徐々に減っていき、中には砂場だけという変わり果てた公園もある。もはや猫のトイレ。これも時代の流れなのかなと一抹の寂しさを覚えた。
その公園もきっとそうなのであろう。しかし、先ほどの「アレ」。あれがなぜ、この、大撤去時代に生き残っているかが不思議でならなかった。8割は錆びついているし、多分、僕が1日中そこで遊んだら壊せる自信がある。元々デンジャラス要素強めの遊具な上にボロい。なぜ生き残っている。鉄棒を撤去して奴が残ったのだとしたらその真意を自治体に問いたい。危険度マックスなその遊具は、撤去を待っているような顔をしていて、僕は無機物の彼に少し同情した。その公園には誰もおらず、スーパーの帰りも寄ったが、放課後の小学生繁盛時間帯にも関わらず閑散としていた。僕はまたしても彼に同情した。早く撤去されたいよな、と。

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