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短編小説 | 最後の接吻

最後の接吻をするには、あと3cm、唇を突き出すことが必要だった。もしくは、オオアリクイのように舌を伸ばすしか方法がない。
突然の大きな揺れで倒れた机や、背の高い棚に阻まれて、オフィスに二人だけ残っていた僕たちは、互いに動くことが出来なくなった。

「どうしてこんなことに……」
ついに巡ってきたチャンスだった。彼女を誘い出すのに半年も要した。半年間、一人の女性を思って、全てを我慢してきたのだ。
新年を迎えたら、僕たちは離れ離れになる。彼女はこの会社を去るのだ。僕と過ごしたこのオフィスからも居なくなってしまう。
だから、彼女と過ごす最後のこの夜にかけていたんだ。

実際は唇を3cm伸ばすなんて無理な話だし、舌をオオアリクイのように伸ばすしかない。「ねえ、君。もう少し首を前に伸ばして」
僕は彼女に協力を求めた。
「これ以上は無理よ。私は太っていて、そもそも首がないの」
またか。彼女は自分が太っていることをネタにするのが好きな人だ。僕も普段なら笑ってやるが、今はそんな話、聞きたくない。

「ねえ、君。頼むから協力して」
「わかった。何でもする。どうしたらいい?」
「できるだけ首を伸ばして、唇を突き出す。そしてオオアリクイのように舌を伸ばすんだ」
「なんのためだかわからないけど、やってみる。だけど私はまん丸の顔で、どちらかというと、唇よりもほっぺたが前に出ているタイプよ。それに舌まで太っているから、だから……」
「ああ!もういい!」

予期せぬ大地震で、ドラマティックなシチュエーションを楽しめるかと思ったのに、全く乗ってこない彼女にうんざりだった。
僕は立ち上がった。倒れた机に挟まれたように見せていただけで、本当はいつでも体を動かすことができた。

「あら、あなたも立てたの」
彼女も演技をしていただけで、本当は動けたらしい。彼女はよいしょ、と自分の膝に手をついてよろよろと大きな体を起こした。
僕たちは無言でしばらく睨み合ったが、今の現状に目を向けると、やがて冷静さを取り戻した。

「とんでもない光景ね」
「ああ」

僕たちはオフィスの窓に近づき、外を眺めた。炎に包まれた街にサイレンが鳴り響いている。

「本当に最期かもしれないな」
「まさか……」
彼女は眉をひそめて、背の低い僕を見下ろした。
「ね。そういえば、あなたは今日、私と二人でなにをしたかったの?私とここで会える、最後の日に」

ああ、そうだ。僕は彼女と会える最後の今夜、彼女にキスをするつもりだった。
僕は年初に、様々なタイプの女性と口付けを交わす目標を立てたのだ。
女性のことを大好きな僕が女性を語るには、あらゆる女性の唇を知ることが最低条件だと自分に課して、ここまで頑張ってきた。
彼女のように背が高く、恰幅のいい女性とはそうそう出会えない。ひと目見た時から、僕は彼女の唇をいつか奪うと決めていたのだ。

「なあんだ、そんなこと」
彼女は笑った。
「いつでもしてあげたのに」
彼女は怪しく目を細めた。

「そう言われると、なんだかあっけないな」
「何があっけない、よ。まだなにもしてないじゃない」
彼女がじりじりと僕との距離を詰めてきた。
「待って、僕からいくから」
「嫌よ。私は攻めたいタイプなの」
相撲取りのように腰を少し沈ませてにじり寄ってくる彼女に恐れをなして、僕は窓に張り付いて動けなくなった。

「壁ドンならぬ、窓ドン。女性からされるなんて、贅沢な男ね」
彼女がくっくっと不気味に笑う。
僕は観念して目を閉じた。

初めに感じたのは彼女の柔らかい腹の肉が僕を包み込む温かさだった。次に、窒息しそうなくらいに押し付けられた胸の重み。その後、大きなほっぺたが僕の顔面を直撃して、危うく意識が飛びそうになったところに、嘘のようにぽってりと弾力のある唇がそっと触れた。

「うそだろう……」
「なにがよ」
「今のが、君からのキスだなんて」
ふふん、と彼女は得意げに笑った。
「私、キスには定評があるの」
僕はまだ信じられない気持ちで立ち尽くしていた。
今までの誰よりも衝撃的な接吻だった。
「私とキスをした人はね、私の唇を忘れられないのよ」
僕はぼんやりとした意識の中で彼女の声を聞いた。
「だから、今のはあなたにとって、ある意味最後の接吻なのよ」
僕は膝から崩れ落ちた。奪うつもりが奪われた。僕の、最後の接吻。

彼女は得意げに大きな尻を振りながら、倒れた家具のあいだを抜けていく。するとその時、ふたたび大きな揺れに襲われた。
直後、彼女は悲鳴と共に突然目の前から消えてしまった。老朽化の進んだこのオフィスは、彼女の重みに耐えられず床が抜けてしまったのだ。

幸い、彼女は下の階に落ちただけではあったが、その衝撃で建物全体がぐらぐらと揺れ続けている。
しかし僕はそんな状況など、どうでもよくて、頭の中は彼女の唇のことでいっぱいだった。
「たすけてー」と叫ぶ彼女のことさえ、どうでもよかった。




[完]


#短編小説
#最後の接吻

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