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ある女 (短編小説)

目覚めるとすぐにシャワーを浴びる。
新しい朝に「おはよう」を言うより前に、浴室の電球の眩しさに目を慣らす。
薄暗い電球を好む私が間違えて注文した明るすぎるその光は、私の体を細部まで照らしていく。
私は目を瞑り、シャワーを浴びる。温かい湯に刺激されながら、手のひらの感触で自分の体の状態を確かめる。
「まあまあだ」と思う。

高いところから放たれる強い水圧を背に受ける。脇の下から背中に回した手のひらで、肩甲骨周りに背負い込んだ皮下脂肪を荒々しくかき集めた。
寝ている間に背中に回った皮下脂肪は、朝になったらかき集めて胸に集合させる。
「背の肉は胸の一部なのだ」と言った、大して可愛くもないグラビアアイドルが放った言葉を忘れられず、いつしかこの行動は習慣になった。
何度も手を行ったり来たりさせながら、何となく胸の形が整ってきたような気持ちがして、ようやくシャワーを止めた。

シャワー室を出たところで、裸の自分と鏡越しに対面する。わざとこんなところに鏡を置いて、全くどういうつもりだと、毎度の事ながらこの家の設計者に毒を吐きたくなる。浴室からもれた湯気であっという間に見えなくなった自分の裸体は、いつまでも目の奥に張り付いていた。
目に見えてしまう現実は、理想とは程遠く苦々しい。
30代半ばで、自分の体を堂々と明るい光に晒せる女性がどのくらいいるのだろうか。などとくだらない思考に陥る前に、さっとタオルで体を包んだ。

ウォーキングクローゼットへ入っていく。この家の中で一番気に入っている場所だ。
ドアを開けるとすぐ右手にある大きな姿見には背を向けて、体に巻いていたタオルを床に放った。
引き出しに綺麗に並べたブラジャーをひとつ手に取り、前かがみになって身につける。重力で垂れた大きな乳房を片方ずつブラジャーのカップにしっかりと収める。
かがめていた体を起こし、ここでようやく振り返り、鏡を見る。どこぞのわんぱく小僧がお椀に盛り付けた山盛りの白米のように、白くてまあるい胸があった。確かにハリは失われつつあるが、存在を主張するには十分だった。
「20年目の地下アイドル」
今日の自分のテーマを口に出して、自分で吹いた。

マンションの敷地内にあるいくつかのエレベーターを日替わりで選んで使っている。毎日同じような時間に、同じ住人とエレベーターで出くわして無言の時を共有するのが嫌なのだ。
今日は少し歩いて、東側にあるエレベーターを使うことにした。
乗り込んだエレベーターには誰もいなかった。しかしすぐ下の階でドアが開くと、スーツを着た男性が乗ってきた。
一瞬目を合わせ、軽く会釈をする。

「はじめまして」
男性に向け、にっこり笑う。
「エレベーターを降りるまでの短い時間だけど楽しんでいってね!」
私は20年目の地下アイドルとして振る舞う。わざと髪の毛を手ぐしで大きくとかした。ふぁっと広がった髪の毛から、今朝使ったオーガニックオイルの香りがゆっくりと広がる。
すぐ横に棒立ちになっている男性にとびきりの笑顔で話しかける。
「今からお仕事なんですね。スーツ姿の男の人って素敵」
「そうですか。自分はあまり得意ではないんです。スーツってなんだか堅苦しくて」
男性が謙遜するので、口元に手を当て、きゃははと笑ってみせる。
「とっても恥ずかしがり屋さんなんですね。そろそろ1階に着いてしまいますが……今日はお会いできてよかったです。またぜひ、私に会いにきてくださいね!」
私は5分に一度はハンドクリームで潤している、しっとりした手を差し出し……現実にはその手でドアの「開」ボタンを押した。

「どうぞ」
私が言うと、男性は無言で軽く会釈をして先にエレベーターを降りた。
想像の中で男性は、私に会いに来たファンの設定だったが、現実では当然こちらを振り返りもせずどんどん歩き去っていった。
「アイドルと二人だけでエレベーターを降りる、一万円」
声に出して言ってみると、本当に今の行為に値段が付いたような気がして、嬉しくなった。
「今稼いだ一万円、何に使おう」
最近、割に合わないチャットサービスで稼いだ一万円が手元にある。今日はこの一万円を、自分を輝かせるために使おう。そう思った。
「プリティ・ウーマン」
今日これからのテーマを変更した。
頭の中で鳴り響くロイ・オービソンの「オー・プリティ・ウーマン」に合わせて、足取り軽く駅へ向かった。



[完]


#短編小説



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