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小説 | ならわし (⑦)

夫は夫なりに抱えるものがある、そんなことを感じて、私たちは理解し合えるかもしれないと思い始めていた。
予定日も近づき、段々と増え始めたベビー用品を見ながら、隣で本を読んでいる夫にふと尋ねた。
「ねえ、生まれた子が女の子だったらどうするの?」
私たちの通う産院は、事前に性別を教えてくれない。それもこの家系のしきたりなのだそうだ。私は特にそこは気にしていなかった。むしろ楽しみではあったのだが、ひとりっ子の多い夫の家系で、女の子が生まれた場合、家が途絶えてしまうことをどう思っているのか聞いてみたくなったのだ。
「大丈夫だよ」
「大丈夫って、どういう意味で?跡継ぎがいなくても大丈夫ってこと?」
「そう。この家が途絶えることは多分誰も気にしていない。むしろ途絶えてもいいんじゃないかな」
夫が読んでいる本から顔も上げずにそんなことを言うので私は驚いた。
「え、だって。こんなに普通じゃない習わしがあるのに?いったいどういうこと?」
私にはさっぱりわからない感覚だった。
夫はうーんと小さく唸ったが、やがて顔を上げて言った。
「ほら、あのじいさん先生だってもう年だし、いつまでもこんなお産に付き合ってられないだろ。あの産院を継ぐ人もいないようだし。だけど……」
夫はまた本に顔を戻して独り言のようにつぶやいた。
「不思議なことに、なぜかうちは男ばかり生まれるんだよなあ」


・・・

出産予定日から1週間早い、金曜日のことだった。陣痛が始まったのは突然だった。
前駆陣痛や「おしるし」なるもので、徐々に心の準備をするものかと思っていたのに、突然、大きなとんがった石で股を突かれたような痛みを感じ、飛び上がった。夜の九時だった。
キッチンで皿を洗っていた私の悲鳴を聞きつけて、夫が走り寄ってきた。
「どうした」
「だめ。きたかも」
「なにが」
「陣痛に決まってるでしょう」
夫ははっとした表情を見せた。そしてみるみる顔が青ざめていく。
「ちょっと、大丈夫?」
私に揺さぶられ、われにかえったのか、私を支えるとソファーに座らせてくれた。
「とりあえず陣痛の間隔測るから、スマホ取って」
夫は私の指示に従い、スマートフォンを私に手渡すと、所在なげにリビングを歩き回った。
「どうなる?これから」夫が不安そうに訊いてきた。
「どうなるって、陣痛の間隔が一定で縮まってきたらまずは産院に電話する」
「それで?」
「わかんないわよ、私だって初めてなんだから!」
直後、また下腹部を痛みが襲った。
「10分……。電話したほうがいいかも」
私は産院の番号を表示させ、電話をかけた。
「もしもし…はい…そうです。10分です。ええ。そうですね…。できると思います。ああ……そうですか。わかりました。はい……。はい……。では」
私の顔のすぐ横で会話を聞いていた夫が頷いて言った。
「まずはシャワーか。どっちが先に浴びる?」
「私かな。髪乾かすの、時間かかるから」
産院からの指示で、できればシャワーを浴びるように言われた。おそらくまだ本陣痛までは時間がかかるだろうからという見込みだった。そして、夫も下半身を清潔にしておくようにとの指示があった。

夫はいつになく落ち着かない様子だった。その気持ちはわからなくはない。しかし、命をかけた出産に挑むのは私なのだ。夫はいわば「プレイ」の一環のようなもので、こんなにうろたえられては先が思いやられる。
「ねえ。大丈夫?」
夫は何度も顔を手で撫でるような仕草をしている。目は怯えていて、空いた手は自然と股間にいくようだった。
「やめてもいいんだよ?私は最初から、ごく普通の自然分娩を望んでいるわけだし」
私の言葉で、弱気になった自分にようやく気づいたのか、夫は激しく頭をふった。
「大丈夫。覚悟は出来てるよ。物心ついた頃から親父に言い聞かされていたんだ。頑張るよ。君と一緒に生むんだ。たとえ……たとえ、とれてしまっても……!」




つづく


#短編小説
全九話


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