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母の光 (短編小説)

実母に聞かないと答えようがない宿題が出たので、1時間だけ、どこかで会えませんか

暮らしを共にしていない母とのやり取りは、Eメールを使うようにしている。
不規則な生活を送る母との連絡は、いつだって滑らかにいかない。
既読がついたことを確認してから、返信の有り無しにその都度傷つくより、“もしかしたら、メールに気づいていないのかもしれない”という淡い期待を持っていられる方が、いくらか気が楽だということに気づいたからだ。

メールを送ってから2日目の夜、返事はきた。

こんにちは。まだまだ暑いですね。
お元気ですか。
宿題の件、承知しました。
明日の12時、前と同じ喫茶店で待っています。

翌日、指定された喫茶店に入ると、角の4人席に母を見つけた。
「お待たせしました。こんにちは」
席に座る前に私は、母に向けて他人行儀な挨拶をする。他人に限りなく近い存在になった母だから、当然と言えば当然だ。

「もうさー、私すっごい汗かいちゃって。
いやー暑かった。更年期の症状もあるしさ」
送ってくるメールの文面とは別人格のような話し方をするのが私の母だ。
「あまり時間もないので、早速インタビューさせてね。あ、メロンソーダ…じゃなくて、クリームソーダください」
私が店員にそう注文すると、母は「ほほっ」と笑った。
鼻の下を伸ばして笑ったのか、伸びた部分を手で隠している。

「なにかおかしい?」
「クリームソーダね、なんか懐かしくてさ」
「あぁ、思い出話は今はいいよ。録音させてもらうね」
私は母に無駄話をさせないよう、スマートフォンの電池の残りが十分にあることを確認してから、それを母の前に置いた。
「何を聞きたいかというと、『生命が誕生した瞬間、もしくは生命が誕生するまでの間に何を思ったか』ということを聞きたいの」
「へぇー。17年前の記憶を呼び起こせってわけね?」
「ま、普通の親なら、何年経とうが覚えてることだとは思うんだけどね」
娘から心無いことを言われた時の母は、必ず目線を逸らして飲み物を飲む癖がある。今だって、少し斜め上を見ながらアイスカフェラテを飲んだ。

「で、どうだった?」
「んー」
母がストローでカフェラテの氷をカラカラとさせる音を聞きながら、私は17年前の母を想像した。

今よりも艶があった、と思う。
痩せていた、と思う。
身なりに気をつけていた、と思う。
愛する人が隣にいた、と思う。
笑顔だった、と思う。
私が無事に産まれたことを喜んでいた、と思う。

「急だったんだよねー。バシャッと」
「バシャッと?」
「そう。1人で街を歩いてたのね。いつ生まれてもおかしくない状況だったけど、若かったし、体力もあって。暇だし、散歩でもしようかって」
「ふーん」
「そうしたら、急に破水したの」
「陣痛からじゃなかったんだ」
「そう。思い描いていたのと違ったから焦ってさ、よくわからないけど、コンビニに入ってパンとか飲み物を多めに買ったの。あははは」
「はぁ、それで?」
「それでね、あんたの父さんに電話したの。なんかすごい漏れてきた!って。そしたら、すぐタクシーに乗れって。この水漏れはどうする?って聞いたら、オムツ買えって」
「オムツ?大人用の?」
「そう。でも介護用オムツなんてそんな都合よく売ってないから、持ってたパーカーを股に挟んでタクシーに乗ったのよ」
「そういうのって、救急車呼ぶものじゃないの?」
「まぁね、でもタクシーはすぐに拾えたから」
そこまで聞いたところで、私の前にソフトクリームの乗ったメロンソーダが運ばれてきた。
店員が去ったのを確認すると、私はすぐさまソフトクリームの先端をスプーンですくって口に入れた。
「あっ」
「あ…」
ふふっと母に笑われて、恥ずかしくなる。だけど誤魔化すのはもっと恥ずかしい気がして、私は母に言った。
「ソフトクリームは鮮度が大切。特に先端の部分は1番美味しいところだからすぐに食べた方がいいって、よく言ってたよね」
「そうそう、これ本当だから。ちゃんと守ってくれてるんだ、母の教え」
「唯一のね」
私は忙しなく、何度もクリームをスプーンですくっては食べ進めた。

「それで、私を生む時はどんなだった?」
「うーん。どんなってねぇ。いや、だってさ。ずっと一緒にいたんだもん、お腹の中にいたあんたとは。いっつも話してた気がするなぁ。私は妊娠に気づくのが遅かったから、生まれるまでの約半年間か。いつも心の中で話しかけてたねぇ。だから、生む時も2人で頑張ったって感じだったかな。既に通じあってる相手と、初めての共同作業。うちらならできる!みたいなね」
「へぇ、そうなの」
「さすがに覚えてないもんね?」
「そりゃあね」
「だから、“新たな生命”を生んだっていうより、やっぱり私は“あんた”を生んだのよね」
母は優しい笑みを浮かべている。
母のこんな表情を見るのはいつぶりだろう。

「いつもお腹の中に、光があるみたいだったなぁ」
母は嬉しそうに語る。それは私を複雑な気持ちにさせた。
「なら…それなら、いつから私は光じゃ無くなったの?」
母は少し驚いていた。私が言っている意味がわからないのだろう。それでも、私は説明をしたくない。
「そうだねぇ。お腹から出てきたあんたは、確かに光ってはいなかったけど…」
母は真面目な顔で私を見た。
「ありふれた表現にはなるけど、本っっ当に、天使だったなぁ。そう見えたのよね」
「だけど、生まれたての赤ちゃんって、言うほど可愛くないじゃない」
「可愛いよぉ。めちゃくちゃ可愛い。
あんたが生まれた日の夜、同じベッドで寝たんだよ。間違って潰してしまうのが怖くて、ずっと起きてた。それでさー、私、何してたと思う?」
母はとても楽しそうに笑っている。
「わからないよ…」
んふふ、と笑って照れているような母は、これから一体何を言うのだろう。

「あんたにね、夜通し“ちゅー”してたのよ」
「何それ。やだぁ」
笑っている母は、しきりに目の端を指で撫でている。
「愛しくてね。可愛くて」

もう、いいよ。わかったから。
私はスマートフォンの録音を止めた。
「ありがとね。これでもう大丈夫だから」
メロンソーダを一気に飲み干して、私は席を立った。
「あ、そうだ。バイト始めたって、言ってなかったよね。これ、バイト代から。今日は私の初奢り」
私は机の上に2千円を置いて立ち去ろうとした。そんな私を母は呼び止めて言った。
「今もね」
母がはっきりした声で言う。
「あんたは私には眩しいよ」
「そう…」

私は店を出た。
歩きながら、スマートフォンに録音した母の声を聞いてみる。
母の声は、たまらなく優しかった。



[完]


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