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不器用さを自覚すると沁みる人

「なんとなく」が苦手な者なりの、ストレスのない暮らし方。

それは「全て決めてしまう」ことだ。

歯ブラシを変える頻度とか、衣替えの日付とか。「なんとなく汚れてきたから」「なんとなく寒くなってきたから」は苦手だ。そんなの気のせいな気がするし、そんな気まぐれで期間が長くなったり短くなったりするのが気持ち悪い。

この習慣は、いかにも「頭の固い人」という感じがするので、あまり人には言いたくない。なんなら少し前まで、自分の頭の固さを認めたくなくて、決めることを避けていた節もある。しかし誰にも見えない個人的な生活の中で、いろいろなものを決めてしまうようになってから、ずいぶんと楽に暮らせるようになった。

そんな感覚に味を占めたのか、もっと複雑なこと、特に時間の扱い方について途方に暮れたとき、全部全部決めてしまいたいという衝動に駆られることがある。

やりたいことややらなきゃいけないことがたくさんある。稼ぐこと、学ぶこと、遊ぶこと、未来のこと、炊事、洗濯、睡眠、俳句。毛色の違うものたちが、甲乙つけがたい優先度で生活の中に転がっている。

えーい並べ。一直線に。何曜日の何時に何をやるか、全部決めてやるからな。なんぴとの邪魔もさせるまい。

頭が固いわりに生真面目ではない私は、そんな風に作った時間割をたいていはうまく遂行できないのだけれど。


大家さんに、ネズミの声がしたからもっと掃除をしろと言われた。我が家に本当にネズミが住み着いているのかはわからないが、確かに掃除はもっとしたほうがいいと思った。

掃除、苦手だ。どこをどうやってどのくらいの頻度でやればいいのかわからない。「なんとなく汚くなってきたから」「なんとなく綺麗になればいいや」はできない。やるならきっちり、部屋の全エリア、1㎜も見逃さない年間スケジュールを立てたい。感覚なんかに頼らない、すべてがうまく回るルールを作りたいのだ。それができないから、目につくようになってきた汚れも見て見ぬふりをしていた。なんたる極端さ。

しかし大家さんに指摘されてはもう見て見ぬふりはできない。私は腹を決め、あらゆる水場の掃除方法と必要頻度をググり、週ごと、月ごとのリストを作った。このルールを守っていれば、いかなる汚れも取りこぼさず、部屋をきれいに保てる。やることは増えたが、また少し生きやすくなった。


社会生活でもそうだ。私はいま接客の仕事をしているが、まったくもって向いていないと思う。「スルースキル」という考え方に到底納得がいかないからだ。

日々相当数の人間を相手としていると、そこそこの頻度で「いやな客」というものに出会う。言わなくていいことを言ってきたり、あらゆる手段で支払いをケチろうとしたり。マネージャーたちの「いくらかディスカウントでもしてやって、さっさと帰ってもらうのが得策」という立場も理解はできるのだが、そんな客たちの後姿を見て私はいつもはらわたが煮えくり返っているのだ。

その方法では、場の被害は最小になるだろうが、同時に悪を野に放っている。それでは社会がうまく回らないじゃないか。ここで私たちが悪を見逃せば、きっとよそでも同じくらいの大きさの悪が見逃されている。世界がちっともよくならない。いつまでたっても道徳が実現されないじゃないか。


生活を、社会を、うまく回すために、いろいろなことを決めてしまいたい。物事が少しでも良い方向に回転するような、うまいルールがあったらいいのに。

ああ、そうか。あなたは不器用だったのか、カントよ。

倫理の授業で「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という考えに触れたとき、私は感動したんだ。これならすべてがうまくいくと思った。

「カントは毎日同じ時刻に散歩していて、近所の人がカントを見て時計を合わせていたくらいです」なんて逸話を聞いても、「生真面目な人なんだなあ」くらいにしか思わなかった。

そうかそうか、これらはつながっていたんだ、「不器用」で。

私は不器用ではあるが生真面目ではないので、このつながりが良く見えていなかった。しかし不器用さに苦しみ、向き合い、なんとか生きる道を見つけようとする中で、私を哲学の道に誘った最初のあこがれの先人を、1歩だけ理解できた気がした。

不器用さを自覚するとカントが沁みる。この感覚が勝手な思い込みかどうかは、さらに理解を深めることで確かめていかないといけないな。

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