食器洗い、買い物、洗濯、愛

 久々にひどい風邪を引いた。病院にはまだ行っていないのでインフルエンザかどうかはわからない。でも、たぶんインフルエンザだと思う。一昨日会っていた和美がインフレンザA型になったと昨日の朝に連絡してきて、それから程なくしてオレも具合が悪くなり始めた。初めは呼吸器のあたりがゼエゼエするようなって、そのうちに乾いてむせるような咳が止まらなくなった。熱は全く無かったし、寒気も無かったので、まさか自分がインフルエンザだろうとは夢にも思わず、その日は普通にいつも通りに仕事をして過ごした。副業でしている中古車の販売業では、その延長で代書屋のような仕事をすることもあって、昨日は朝から軽自動車検査協会とか、陸運局とかをオレは行ったり来たりしていた。手続きの途中で陸運局の昼休みの時間に運悪く当たってしまって、その窓口業務が停止している間の時間に、近くを散歩したりするくらいの元気が昨日のオレにはまだあった。鮫洲の運河は、むかしも免許の関係の手続きとかできた時によく立ち寄っていた。冬の晴れた空の下、ビルとか倉庫とか橋とか道路とかに囲まれた景色の中で、青緑色の水面がキラキラと光っていた。夕方を過ぎて家に帰る頃にはどうにも具合が悪くなってきた気がしたが、まだ熱も寒気もなくて、家に帰ってそのままさっさと寝た。ずいぶんと早くに寝てしまったこともあって、真夜中に目が覚めて、ちょうど昼間に陸運局の貨物運送業監査窓口の待合ベンチで読んでいた池波正太郎のエッセーを思い出した。池波は、夕飯が終わるとそのまま仮眠を取って、それからもそもそと夜中に起きて、深夜の一時から四時までの間、きっかり仕事をして、それからブランデーを舐めながら眠る、という暮らしをしているのだというようなことを書いていた。それを読んで、一日が二回に分かれているような感じがなんだかお得だな、とオレは馬鹿なことを思ったりしたのだが、昨日は深夜に目がさめたら、如実に具合が悪くなっていて、全身が痛み、頭がぼーっとして、物を書いたりするのはもちろん、本を読んだり映画を観たりする気にさえなれなくて、ちょうど枕元に置いてあったカティサークをちびちびと舐めて、スポーツドリンクをガバガバと飲みながら、ぼんやりと天井を仰いで過ごした。気がつくと眠っていて、朝に一度目が覚めて、それから次に気がつくと昼になっていた。とはいえ、そんなにひどい風邪だという自覚があまりなかったオレは、そのまま起きて、昨日やり残した分の仕事の続きに出かけた。取引先に手続き用のはんこをもらい、追加での提出が必要だった書類を陸運局に出して、その控えを持ってまた軽自動車検査教会に行ったりしていたら夕方になっていた。運転してる間も、身体が痛いし、息は苦しいしで、出かけたことを少し後悔したがさっさと終わらせたかった仕事なので諦めて働いた。そして、いま、また真夜中に目が覚めたのだが、寒気はすっかり引いて、布団に汗をかいていた。空腹を感じて、何か胃に入れようと台所に行くと食器が散らかっていて作り置いてあったスープに火を入れながら、オレは無心になって食器を洗った。食器洗いというのはつい面倒で、ためてしまうこともあるが、その作業そのものは別に嫌いではない。泡で汚れをこすり落として、その泡をまたお湯で流す、単純で美しい作業だと思う。たぶん熱があるような気がしたし、マスクの中に篭もる息も熱かった。ぼんやりと頭痛がして、意識の状態もなんだかいつもとは違うような気がした。洗い物をしながら、ぼんやりとした頭でオレはまた和美のことを考えていた。和美とは知り合ってもう一年以上経つし、その間に、和美のことを異性として見たことがないわけではなかった。趣味とか関心とか価値観とか、そういうものが近いとは思うし、なにしろ、一緒にスーパーに行ってもオレがイライラしない女、というのがオレは久しぶりだった。オレはずぼらでいい加減なところも多い性格だが、こと家事とか衛生管理とかに関しては、やたらにうるさい母親に育てられたせいもあってか男のくせにかなりきっちりしているほうで、料理とか掃除とか洗濯とかの、技術的なこととか知識的なことで、今までの人生のなかで生活を重ねてきた女たちに、内心で不満に思ったことも多くあった。たとえば付き合っている彼女とスーパーに行ったときに、あまりにも何も考えずに食品を選んでいたり、添加物だらけの全く美味しくない加工食品を喜々としてカゴに放り込んでいたりするその姿にオレは辟易してしまって、買い物が終わる頃にはひとりで胸の裡ではやたらにイライラしていたりした。たとえば洗濯しても衣類のにおいが取れないからと、それが正しい方法だと信じて疑わずに規定量以上の柔軟剤をドバドバと入れまくっている彼女の部屋の洗濯機が、洗濯槽のなかにべっとりとこびりついた柔軟剤のカスでカビの温床になっているのを発見してしまい、嫌だなと思ったりしていた。ちなみにその場合の正しい対処は、柔軟剤をドバドバ入れるのではなく、粉末の酸素系漂白剤とお湯で衣類を漬け込んで匂いや雑菌をなくして、それから洗濯槽も漂白剤で掃除する、というものだが、あんまり知っているひとはいないような気がする。もちろん完璧な人なんてこの世にはいないし、できればそういう、生活における些細なことには目をつむりたいと思いながらも、しかし、目を背けたくとも背けられないのが生活面の問題だと思う。いつかその人と一緒に暮らすかもしれない、ということを考えると、衣食住に関係する意識や知識のレベルや、価値観の近似性の問題というのは、あながち軽視出来るものではないと思う。和美とは何度も一緒にスーパーに行ったことがあるが、どういうわけか全くイライラしなかった。和美の洗濯とか掃除とかのことはまだよくわからないにしても、それ以外の、もっと重要な価値観、たとえば人生に対するそれとか、仕事に対するそれとかでも、近しさを感じることが多かったし、生活を共にできそう、という妙な自信のような感覚がオレのなかでの和美との関係性にはあった。だからと言って、和美のことが好きなのかというと、それはそれでまだよくわからなかった。二十代の半ばの頃のオレがずっと好きだった智美に抱いていたような、絶対的な好意、のようなものを和美に対して自分が感じているようにはまだ思えなかったし、何としても手にしたい、何としても共にいて欲しい、たとえばそんなような何かしらの強烈な感情が和美に対してあるわけでもなかった。それに、和美のほうにしたって、恋愛にあまり関心がないのか、異性としてのモード、みたいなものを知り合ったばかりの頃から殆ど全くオレには見せようとしなかった。でもそのくせに、妙にオレに関心を持っているような素振りをみせたり、妙にオレに心をひらいてみせたりとかするから、それがどういうことなのか、オレにはもうよくわからなかった。育った家庭環境とか、衣食住とか仕事とかお金に対する価値観とか、それぞれのそういうものを重ね合わせると、他の人ではあり得ないくらいに重なり合うだろうという気がするし、たとえば、共に生きていく、ということになっても、うまくやっていけそうな自信はある。和美はすぐに結婚するつもりは無いと常々言っているし、オレだって結婚できるほど安定した収入が今は無いから、すぐに結婚がどうのこうのということはないだろうにしても、そういう近似性は、とはいえ無視できない重要なものなんだろうな、と二十九歳のいまのオレは食器の泡をお湯で洗い流しながら、考えた。年長者たちに、結婚の決め手を聞くと、たいてい皆口をそろえて、なんとなく、というようなことを答える。相手のこういうところが決め手になった、みたいな話は、大抵、笑えるくらいにどうでもいいことだったりして、結局それだってなんとなくだろ、といつも思ってしまう。和美の匂いとか、和美の顔とか、和美の仕草とか和美のセンスとか、そういうものが好きかどうかと問われたら、オレは迷いなく好きだと答えるだろう。それなのに、じゃあ和美のことをおまえは好きなのか、と問われると、オレはその答えに口籠るような気がする。たぶん、どこか自信がないというだけなのかもしれない。誰かのことを好きだと言い切る自信、誰かに好きになられるという自信、そういうものが、なぜなのかはわからないが、いまのオレには欠けているような気がする。食器を全て洗い終わって、手を拭きながら、信頼ということについて、それからオレは考えた。オレも寝込んでいるが、同じように寝込んでいる和美に、映画を観れるようにと、オレのアマゾンのアカウントのログイン情報をさっき教えた。別に見られて困るようなものを買ったりはしていないにせよ、アマゾンのアカウントを誰かに教えたことはいままで、一度もなかった。アカウントとパスワードを教える時、すこしくらいは躊躇いもあったが、結局、別に和美にならいいや、と思ってすんなり教えてしまった。それはつまり、信頼している、ということなのだと思うのだが、信頼には、いくつか種類がある。人間性に対する信頼と、能力や技術に対する信頼、そして、考え方や価値観に対する信頼。悪いことをする人ではないというだけの信頼、というのはそうハードルは高くないが、あとの二つ、つまり、何かを頼んでもきちんとやってくれる、という信頼、考えることや決断を信頼できる、という信頼、これらのハードルはそう低くはない。和美のことを、オレはなんだかんだで全ての方法で信頼しているということに、アマゾンのアカウントの件での自分の行動から、気がついた気がした。当然だが、誰かのことをそういうふうに信頼するのは、簡単なことではないし、そういうふうに信頼できるひとは、世の中に、そう多くはいないような気がする。キッチンの電気を消して寝室に戻りながら、いつか和美と暮らせたらいいな、とオレは思った。薄っすらと汗が身体に滲みはじめていて、風邪が少し良くなってきているような気がした。オレは部屋に戻って、またカティーサークとスポーツドリンクを飲んだ。ふと、和美に会いたいと思った。(2018/02/08/05:40)

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Aki

aoyorimoaoiao

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