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ヨコハマ・チャイナ・ブルー

 とにかく誰もいないようなところに行ってみたくて、それでオレは行き先を式根島に決めた。伊豆七島に詳しい人はもちろんその存在を知っているが、メジャーな伊豆大島などと比べると、一気に知名度が下がるような気がする。オレは十六歳で、まだスマホもなかった時代で、ノートパソコンも持っていなかった。竹芝桟橋で、一番下のクラスの船室の券を現金で買った。大部屋に雑魚寝、というやつだ。長距離の船旅は、それが最初で最後で、それ以来、船でどこか遠くへ行ったりしたことはない。もう十五年近くも前のことだ。免許も持っていなかったし、島での移動に備えて、オレは旅の前に安い折りたたみ自転車をネットで買った。本当に安くて、旅の間こそきちんと乗れたが、帰ってしばらくするとすぐにボロボロに錆びて乗れなくなってしまった。バッグに入れていあれば自転車を持って船に乗るのは追加料金が不要だったので、袋に詰めると重くて運びにくくなる自転車を引きずってオレは船に乗った。ギターケースも背負っていたし、そう考えるとかなりの大荷物だったような気がする。夜通し海を渡る十時間くらいの船旅で、あっという間にオレは酔ってしまった。食べ物の準備もなかったので食えるものといえば自販機で割高な価格で売られているカップヌードルくらいで、オレはカップヌードルは買わずに、同じく割高な価格で売られていたサッポロ黒ラベルを買った。デッキに出て海を眺めてみたが、真っ暗で何も見えなくて、子供の頃に見たジェームズ・キャメロンのタイタニックを思い出した。煙草に火をつけたら吹き付ける風で目に灰が入って痛かった。ビールを飲んで船室でゴロゴロと寝ていたら、いつのまにか朝になって、島についていた。島はオフシーズンで、本当にめぼしいものはほとんど何もなかった。情報を集めようにも、公民館のようなところで辛うじてインターネットに接続することができたが、それ以外にはネットに入る方法はなかったし、当時のガラケーで出来ることはいまのスマホに比べると、随分と限られていた。観光も完全にオフシーズンだし、サーファーさえもまばらで、島は静かだった。春になる寸前の東京のまだ寒さが深い毎日に辟易していて、少しでも暖かいところに行きたい、そう思って伊豆の島を旅先に選んだのだが、その期待は大いに外れて、式根島も充分に寒かった。島についた途端にひどい花粉症になって、鼻づまりで苦しんだ。いまは随分と体質も改善して殆ど花粉に苦しむこともなくなったし、鼻づまりも処方箋のステロイドの外用薬をうまく駆使して乗り切れるようになったが、当時はかなりひどい花粉症体質で、おまけに薬の持ち合わせもなかったので、せっかくの旅を、鼻がつまったまま過ごすこととなった。島には薬局はなく、雑貨屋のようなところで市販の鼻炎薬が売られていたので買ったが、ジフェンヒドラミンを主成分とする前近代的な処方の商品しか売っていなくて、第一世代の抗ヒスタミン剤にありがちな強烈な口渇でも苦しむことになったし、肝心の鼻づまりは殆ど改善しなかった。応急的に血管収縮剤を含む点鼻スプレーが欲しかったが、東京だったらドラッグストアーで千円もだせば簡単に手に入るコールタイジンスプレーを求めて、島中の売店を巡ったりしたが、どこを探してもそんなものは売っていなかった。鼻がつまっていたこともあって、何を食べて島にいた数日を過ごしたのかを全く覚えていない。お金が無くてたしか民宿は素泊まりにしたとおもうので、ろくに食事をしていなかったような気がする。売店で買えるチョイスとかムーンライトとかのクッキーをかじって過ごしていた。たぶん、一箱二百円とかだったと思う。それから、民宿のロビーにセルフサービスのインスタントコーヒーが置いてあって、そのころオレはコーヒーが飲めなかったので、信じがたいことに、クリープと砂糖をお湯に溶いて飲んでいた。いまのオレには考えられないし、試したくさえもないが、温かい砂糖クリープは貴重な栄養源だと当時は思っていたような気がする。ほんとうにひどい話だが、滞在中にクリープを飲み尽くしてしまったような記憶がある。まぁ確かに、クリープは他の類似品と違い、基本的に牛乳に由来する成分だけで出来ているので、脱脂粉乳みたいなものというか、当時のオレがミルク感覚で飲んでいたとしてもおかしくはないとは思うが、それでもあんなにクリープを飲んだのは、後にも先にも、あの時だけだと思う。鼻づまりが酷かったのと、外が寒かったのとで、一日中ゴロゴロと民宿の部屋に転がって過ごしたりした日もあった。あだち充の虹色とうがらしという漫画を読んだのもここに泊まったときが最初だった。なんとなく伊豆諸島にも関係のあるストーリーなのも気に入って、打ち切り同然みたいな終わり方で最後は完結してしまったが、民宿には最終巻まで揃っていたので部屋に持ち込んで全巻を読んだ。滞在中に、有り金を振り絞って刺身定食みたいなものを食べたことが一度あって、練りわさびの辛さで一時的に鼻づまりが通ることに気が付き、我慢してわさびをバカ食いしてみたりしたが、食べ終わるとすぐに鼻づまりはもとに戻ってしまった。音楽はMDプレイヤーを使って聴いていた。あのガムみたいなバッテリーで再生できるソニーのポータブルプレイヤーだった。中学の時の部活の先輩が使っていたのにあこがれてオレもソニーのMDプレイヤーを使っていた。音質を下げて曲数を増やせるLPモードみたいなのがたしかあって、ディスク五枚くらいに持ってる限りのCDをダビングして持ってきていた。何を聴いていたのかはよく覚えていないが、吉田拓郎の曲があったことは覚えている。なんとなく、ふわふわとした、地に足が付かないような気持ちで過ごしていた。すごく、中途半端な感じの年頃だったような気がする。高校に行かないのが当たり前の暮らしをするようになって半年くらいが経ったころだった。少し前にひょんなことから人生で初めての彼女ができて、でもそれがどういうことなのかいまいちしっくりとは理解出来ていなかったし、バイトに明け暮れてギターを弾くだけの毎日だった。誰かのことを好きになるということがどういうことなのかもよくわからなかったし、自分がその彼女のことを好きなのかもよくわからなかった。アラサーになってしまったいまとは違い、付き合うということは結婚とは無関係のことだったし、でもそういうありあまる自由こそが、なんとなく、居心地を悪くしていたような気がする。もうすぐ春だというのに、島には強い風が吹きすさんでいて、高校生のオレが持っていた貧弱な防寒装備は風を通すばかりで、何枚着込んでも寒かった。おまけに、島は坂だらけで、変速機のついていない小径ホイールの折りたたみ自転車は全く役に立たなかった。とにかくお金がなかったので、金のかからないことをして過ごすしかなかった。帰る予定の前の日に、海にある温泉に行った。海中温泉と呼ばれていて、崖のように切り立った岩場を降りていくと、水面から湯気が出ていた。脱衣所もないし、崖を降りる階段もかなり急で、それまでのオレが知っていた温泉と呼ばれる施設とは随分と違っていた。源泉はかなり高温の部類の温泉で、冷たい海水と温泉が混ざって程よくなったあたりのところで入るのが丁度いい、というようなことが案内板に書いてあった。後ろは崖で前は海、というロケーションで、あたりには誰もいなかった。動物すらもいない。水着の着用の許されているらしいが、そんなものは持ってきていなかったし、湯加減を確かめてから、オレは服を脱いで濡れていない岩場に置いた。自然のなかで全裸になっているのはなんだか変な感じだった。お湯は少し熱かったが、なんとか肩まで入れるくらいの温度のところがあって、しばらく浸かっていたら冷たい海風で冷えた身体が芯から温まった。岩がところどころ錆びた鉄のような色に変色していて、温泉そのものも鉄臭かった。舐めると塩の味がした。お湯の熱さに耐えきれなくなって海から上がるとさっきと同じ海風が吹いている。しばらく海を眺めてそのまま裸で立っていた。誰もいない、何もない自然のなかに一人で裸で立っているということになんだか腹の下あたりがなんとなくムズムズしてきてオレは硬く勃起していた。それで、なにを思ったのか、そのへんの岩陰にとりあえずオレは精液をかけた。射精してもそのムズムズ感は別に消えはしなくて、だんだん身体が冷えてきたので急いで服を着て、とりあえず切り立った崖の急な階段を登った。崖の上に停めておいた自転車を漕いで民宿へ戻り始めたが、海から吹く風の冷たさは強烈で、驚くくらいにあっという間に身体が冷えた。寒さに震えながらとぼとぼ自転車で走っていると、軽トラックに乗ったやたら元気なじいさんが来て、自転車を荷台に積んで民宿まで送ってくれた。自転車だと漕いでも漕いでも進まない上り坂を軽トラックはスイスイと登っていく。その夜は海が荒れて、翌朝は東京へ向かう船が欠航した。欠航の報は民宿のおばさんから聞いたのだが、もうほとんどお金が残っていなくて、途方に暮れていると、延泊分の代金をかなり負けてくれたうえに、不憫に思ったのか、素泊まりなのにその日は食事をサービスしてくれた。よくある食堂のカレーライスみたいなカレーが昼食には出て、夕食は魚の煮付けだった。風が強すぎてその日はほとんど民宿の部屋にいて、開封されたばかりの新しいボトルのクリープを飲んで過ごした。次の日はきちんと船が出て、本土に戻ったのは夕方くらいだった。船の中でのことをほとんど覚えていないが、横浜に近づいて、観覧車が時刻を刻み、インターコンチのビルがシルエットになって、街の向こうに夕日が沈むのがキレイだった。その日は確かバイト先の飲み会で、竹芝に着くや否やおれは自転車を漕いで目黒の居酒屋に向かった。いまはもうないが魚民というしみったれた居酒屋がかつては西口にあって、なんとなく和民よりも雰囲気とかが好きでオレが幹事になるとよく使っていた。それから十年くらい経って、部屋に露天風呂があるラブホにその時付き合っていた彼女とオレは泊まっていた。中華料理屋で済ませた夕飯の前に街を歩いた時、時刻を刻む観覧車とインターコンチのビルのシルエットが浮かび上がる夜景を見ていて、式根島から帰ってきて魚民に行ったときのことを思い出した。そもそも、そういう類の居酒屋にはもうほとんど行くことがなくなったし、そういう甘ったるいカクテルを飲むこともなくなったが、そのころオレは魚民に行くとチャイナ・ブルーという水色のライチ・リキュールのカクテルをよく頼んでいた。バイト先のうだつの上がらない大人たちと、どうでもいいようなことを真剣に話をしながらオレはチャイナ・ブルーのサワーグラスを傾けた。ケバケバしくて鮮やかなそのブルーを、吐き出した煙草の煙の向こうに、十六歳のオレはぼんやりと眺めていた。(2018/01/30/16:20)

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