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つれづれ杏子 #019

「生きづらみがふかい」

ふざけてんのか。いや、わりとまじめに、ライトでソフトに、感情を記そうとしてこうなった。

このタイトルを思いついてやっと布団から出てきた。ただそれだけ書きたかった気がする。言いたいだけなのかもしれない。今日はだめです。

何があったの?という問いへの、模範解答ならある。頑張れば書ける。けれど「んー。なんだろなぁ、いろいろ積み重なってしんどいのかもなぁ、あはは」と誤魔化してしまいたいくらいには、エネルギーがない。ということで書かない。じゃーん。謎に暗い雑記のはじまりはじまり〜〜〜

ずっと真夜中でいいのに。の「お勉強しといてよ」をさらっと歌うメンヘラになりたい。ラスサビの高音ムリだけどな。

質のいい病み感情が 溢れた時

そうなの。病み感情にも質があって、質がいいときは創作が捗ったり、青い空に何かを見出したり、泣く場所があるのなら星など見えなくていいと歌ったりできる。ごめん、3つめは鬼束ちひろです。でもそういうことです。

質が悪いと、こうなります。この雑記です。犬もくわねぇ。ほんとに犬って口にものを入れるの好きね。実家に犬がいまして、散歩に同行などするのですが大変です。手の焼けること。それでお腹弱いなんて馬鹿じゃねーの?と、あ、はい。かわいいんですよ。犬も。でもわたしは猫がいい。

聞き分けの悪いものを、わたしは悪だとみなしてきた。

そしてわたしの障害も、実に聞き分けの悪いタチだ。

そんなものを持っている自分を受け入れること、許してあげること、が、発症から10年経っても、弱ったら難しいことになる。

さっきまでふんわりと「しにたいなあ」と考えていた。希死念慮というもの。願ったり考えたりするだけです。大袈裟にではなく、ほんとうに、それは、「のどかわいたな」くらいの気軽さで脳裏に浮かぶ。

ちいさなことで挫けて、落ち込んで、なにも手につかないで、暗い部屋で横になってTwitterに暴言を吐いたりしながら泣いていることしかできない自分を、わたしがいちばん許せないのだ。いい子でいなければいけない、という呪いは大人になっても簡単に消えないというツイートを光速リツイートしたのだけれど、大人になって14年目だけど一向に消えそうにない。

そんな自分は要らない、価値なし。って思うから、しにたくなっちゃう。

母と妻をやっていた自分はキレたり怒鳴ったりすることが多かった。娘に戻ったら、泣いてばかりいる気がする。高齢の親に歯向かうのは気が引ける。自分で言ってしまうけれど、かなり遠慮している。伝わっているかはさておき。

家庭不適合者だし、社会不適合者だな。というのが、昨日わたしがわたしに吐いた、暴言だ。居場所がないじゃない?だったら自分で作るのよ。NASAによれば家族は「自らの意思で選んでつくるもの」らしいから。(参考:幡野広志「ぼくたちがえらべなかったことを、選びなおすために。」から考えるNASAが定める家族の定義がおもしろい

別居中の配偶者とは、遠からず離婚することになるだろう。わたしは残念ながら、彼らをまた自分の家族として選ぶことができないと悟った。配偶者や娘から連絡が来るとひどく情緒不安定になる。不快なのだ。もうそんな風になってしまった。親に気を遣って面倒だなぁとか犬うるせぇなとか思っても、わたしはあの家に戻りたいという気持ちが起こることはなかった。

あーー。俺の城まだー?

倍にして返すくらいの文章を書くよ!!!!!