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「生きる」の観察

人間の限界

「人の限界」はどれくらいだろうか、と最近よく考える。

自然界、などというかけ離れた世界と比較するのは極端だとして、「人」が本来持っている限界と、それを超えた場合に起こる事を、今リアルタイムで観察できている。それが大変貴重で勉強になる。

十五年程前に身体の性質の問題で、浅く広く世間を見たときに目に飛び込んでくる「健康」に関する情報をいろいろ試してみた。私財をなげうって、自分の体を使っての人体実験に等しい数年間を過ごした。当時明らかな肥満で、ぷにぷにを通り越してパンパンだった。小麦が大好きで主食にしていた。今では懐かしいが、外食率が高く食費は月に10万円を超えた。そんな生活を「レギュラー」として過ごしていた。そんな生活が動物の生活として良いわけが無かった。空腹、という状態が一日に一秒も存在しない異常な状態。常に満腹。常に何かを食べている。そういう印象だった。

そんな状況下で「健康志向」もへったくれもないのだが、人は何かを取り入れる事で物事を手っ取り早く解決しようとする。これもこの時に学んだ。人は「時間」を買おうとするのだ。「欲求の抑制」を買おうとするのだ。体調が優れない時、人は薬を望む。テンションが上がらない時、人は栄養ドリンクを望む。しかし、体調をいち早く確実に改善する方法は、正しい食事と睡眠だ。その時に達したこの結論を覆す薬は未だに見つけていない。

コロナ禍にあって、否が応でも健康に対する意識が高まった昨今、私の両親の奇妙な行動について思うところがあったので、久々にnoteに書き記す事にした。ウチの両親が特殊なことはよくわかっているし、「世代の傾向である」、などと豪語するつもりはない。ただ、「似た人間は多い」のもまた事実。なのにそれらの話があまり聞こえてこない。おそらくは「金」にならないからだろう。仕方ない。それが「経済活動」というものだから。なので、このnoteの片隅で、金にならない、誰も喜んで読まない内容をひっそりとしたためようと思ったのだ。

医者信仰

私の両親は、医者が大好きだ。病院に行くのが大好きだ。薬を飲むのが大好きである。そう、本人に言うと否定する。病院は「仕方なく行っている」のだと主張する。薬も「飲まなくてはならないから飲んでいる」と主張する。しかし、その病院様とのお付き合いは数十年に及ぶ。一度も離れた事が無い。毎週決まって病院に行き、やれ目だ、やれ肩だ、心臓だ、と総合病院で彷徨い歩く。定期的に検査し、身体の欠陥を目ざとく見つけそれを修復しようと薬を望む。

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