文理選択というシステム、あるいは文武両道について
今日はとても暑かったですね。
とても暑かったので家で缶ビールをたくさん飲みました。爽快。さて、本日は酔いどれ気分で学校のあり方に疑問を呈したいと思います。
僕が改善するべきと考えている高校のシステムのひとつに文理選択制があります。大学受験に向けて文系と理系に分かれてそれぞれ別のカリキュラムで学ぶというシステムですね。
僕自身が長年理系コース(いわゆる理数科の出身です。)に所属していながら国語の教員にいわゆる「文転」した人間なので、このシステムにはまあ良い思い出が無くて。
文理選択制と文系軽視の風潮はある程度連続性のある要素なのではないかと僕は思っています。文転するときに「逃げ」とか「甘え」とか、クラスメイトに本気で言われましたからね笑
文と理を二項対立のように据えてどちらかを選ばせるというシステムは、選ばなかった方を意欲的に学ぶインセンティブを大幅に損ないます。
つまり文系は理系の勉強をせず、理系は文系の勉強をしないということです。する必要がないかのように学校が主導して演出してみせている。
当たり前の事ですがこれは非常にまずい。
確かに情報技術が高度に発展し、どんどん複雑化していく現代社会においては、一見すると理系の仕事の方が社会に貢献しているようにも見えます。
しかし、それだけを学んでも、それをどのように運用すべきか、あるいはもっと広い自己の有り様のような問題について積極的に考える力は身に付きません。むしろ、当面役に立ちそうな要素だけが重要なのだという間違った認識すら植え付けかねない。
国がやっている文系学部の縮小とはそういうことです。ひとまず役に立たなさそうなものは排除していくという発想は、人間をここまで進歩せしめた知性や探求心の有り様とは正反対の発想です。
日本は明治維新以降二度、理系科目を学ぶことで圧倒的な力の差があったはずの西洋に追い付いた経験がありますから、(明治から大正にかけてと、戦後高度経済成長)まあ安易に理系偏重になっちゃう気持ちも分からなくは無いです。
ちなみに明治維新が現代に残したさまざまな問題点を僕はまとめて「黒船ショック」と呼んでいます笑
機会があればこの辺のこともまた別の記事で。
また、文系についても理系の学びを全くやらなくて良いという主張をするべきではありません。現に世界はテクノロジー主導で動くように変わったのですから、具体的且つ高度な理論や法則の理解まではしなくとも、その理念や流れの大枠は当然把握しておくべきです。文系だからICT分かりません等という主張は成立しません。
あるいはそもそも、西洋近代を発展させてきた考え方の1つである「分化」「分業」の発想が文理の分断を招いた根本の原因かもしれません。
ですが、ポストモダン、あるいはその先を目指して生きるのであれば、いい加減その発想の枠からは抜け出すべきです。どちらも学ぶというのが基本中の基本です。高校程度の学習内容で文理を分けるべきではありません。(僕は理系だったので世界史や日本史の授業を高校でほとんど受けることが出来ず、高校大学の間に独学で全て学びました。文理選択は生徒の学ぶ機会を無自覚に奪い続けてきた訳です。)
さて、文理選択に関連して僕の嫌いな学校の言葉をもうひとつ挙げましょう。
それは「文武両道」です。
この言葉も文理選択と同様、片方をやればもう片方をやらなくても良いという発想を生みかねない。
始めにこれを言い出した人はどちらもやるべきという意味で使ったんでしょうが、学校がこれを目標に掲げることは間違っていると僕は思います。
なぜなら、文武両道を為せる人は限られているからです。高度な目標を教育理念として据えると、ルサンチマンが大量に発生してしまうというのが僕の意見です。
つまり、文武両道なんてやったって仕方がない。出来る訳がない。意味はない。という諦めです。
学校の多くは形だけの文武両道を強いてきますから、更に悪質です。
しかも、定義として、文を学業、武をそれ以外と置いているケースがほとんどで、これはもう最悪です。
特に武について。武って何ですか。これを運動だと捉える所も多いが、だったら文と武を二項対立的に据えるのはやめた方がいい。
教科の科目について振り返って考えても、運動を担う体育は10科目程度ある科目のうちの一科目でしかない。科目で考えるのは必ずしも本質的では無いかもしれませんが、少なくとも運動という意味での武は文と同じ比重ではないのは明らかです。
そう言うと、「いやいや武は文化的な活動、例えば吹奏楽や何やらも含んでるんです。だから武の範囲はやはり文と同じくらい広いんですよ。」と言われるかもしれない。
だが言わせてほしい。
いや文化的活動は「文」だろ。笑
何をどう解釈すれば文化的活動が武になるのか。認知の歪みも良いところです。もはや旧来の文、すなわち学ぶことの価値そのものをひっくり返そうとして武の重要性や価値性を高めようとしているようにすら見えます。
このような安直な二項対立の提示は危険です。無意識下で本来あるべき論理的な解釈を大いに阻害します。
学校が安易なスローガンを提示することに僕は強い抵抗感を覚えます。あまり考えずに伝統や権威の乗じたフレーズを推すからです。そしてそれは往々にして実態に即していない。
僕が教員としてある程度の発言力を持つようになったら、まずはこういうシステムやスローガンの有り様から問い直していくつもりです。
こういうこと言うと僕ら世代では「ひねくれてる」「性格がわるい」「何にでもケチをつけたがる奴」と思われやすいです。若い世代は戦うことに意味を見いだせずにいます。むしろ安定と平和を望む傾向がすごく強い。かえって病的なほどに。
ですがシステムを疑うことを知らない人間は「悪」たり得ます。システムを疑うことをしてこなかった学校が世間から大いに叩かれているのは、学校がもはや「悪」になりつつあるからです。僕にとってもそのような戦わない学校は「悪」です。
だからこそ、僕は戦いたいと思います。愚かな思考停止人間にはなりたくありませんから、声をあげることをやめる気はないです。
一教員が出来ることなんてたかがしれてはいますが、それでも諦めず、システムを疑うことをやめずに生きます。応援してくれたらやる気が出ます。
以上今日のnoteでしたおやすみ!!!最後自分語りになってゴメンね!!!酔ってるからね!!!