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【言論】小学生YouTuberゆたぼんさんの発言をめぐる議論

小学生ユーチューバーのゆたぼんさんの発言がここ1週間世間を賑わせている。彼は「不登校は不幸じゃない」というキャッチフレーズを掲げてYouTubeクリエイターとして活動している沖縄の小学生だ。

彼の活動に対する世間の反響は非常に大きく、学校のありようを問い直すべきという指摘や学校は必ずしも学びに必要ないという指摘、場合によっては小学生に対して誹謗中傷ともとれる意見を発している層もあるようだ。

芸能人をはじめとする著名人には、ゆたぼんさんの生き方に「他人が口を出すべきではない」「学校に行かずとも有意義な学びは多い」「自由な生き方にこそ真の学びがある」と言うような肯定的な意見を述べている方が多い。

一方ネット上でゆたぼんさんに批判的な層の意見は「宿題をやりたくないという程度の理由で学校を休むな」「他の子どもに不登校を推奨するかのような無責任な真似はするな」「学校で規律を身に付けないと社会では生きていけない」と言ったものが多い。

これについてゆたぼんさんの父親が「自由に生きて何が悪い」「大人が寄ってたかって子どもを攻撃するなんて」などと反論し、議論の渦は更に各方面へと広がっている。

僕もゆたぼんさんの発言とその後の議論の経緯についてはツッコミを入れたい箇所が多くあるが、僕の個人的な意見を一度横におき、この問題にある1つの視点を付与するべく、あえてこの件を教育学の問題に落とし込んで考えてみたい。

僕がこの議論を一通り脇から眺めていて思い出したのは学校教育をめぐる「規律」と「自由」の対立議論だ。

学校が課す「ルール」は人間の「自由」を阻害するものであり、人間の尊厳や根元的な権利を考えると学校の「ルール」は極めて「不健康」なものであり、「ルール」はなるべく排除し、学校では子ども達は常に自由でなければならない、という主張がある。

昨今の「地毛証明書」や「ブラック校則」をめぐる議論を見ても、この主張が人々の一定の理解を得られるものであることは明らかだろう。

だがこの議論は何もいわゆる「ポストモダン」的相対主義の時代(1950以降)を待って現れたものではない。

この議論の起源は古く、少なくとも欧米では1800年代から為されてきた議論であるとされている。(日本ではこの10年でようやく議論の対象とされた訳だが‥。)

さて、皆さんはこの主張に賛成だろうか?あるいは反論することができるだろうか?

・・・

日本人の誰もが知っているような大哲学者達もこぞってこの議論に関して意見を述べている。Twitterなどのネットを開けばこの議論がいかに人の主張欲をくすぐるものかが良く分かるが、近代の偉人達にとってもそれは同様だった訳だ。

さて、それらの主張の応酬の中で、多少マイナーな研究者ではあるが、極めて有力な、ある意味でこの議論の1つの出口・答えを見いだした人物が存在する。

それはエミール・デュルケーム(1858~1917)だ。
彼は社会学者だったが、教育にも積極的に自身の意見を述べ、教育に関する著作も出版したマルチプレイヤーだった。

デュルケームはまず「自由」について次のように述べた。

「自由」を求める人間の精神は確かに崇高なものだ。しかし、自由主義者の要求する「自由」は往々にして病的であり、「不健康」である。

はじめに「自由」を阻む「規律」こそ、人間の精神に反する「不健康」極まりない概念であるという主張を紹介したが、デュルケームの意見はそれとは真っ向から対立した意見に見える。果たして病的な「自由」など存在するのだろうか。

デュルケームは「自由」を追い求める人間の性質は、人間の「欲望」に基づくものだと考えた。

人間の「欲望」つまり、食欲や睡眠欲や性欲といったものの1つとして、「自由」を求める精神性を分類した。

つまり、「自由」を求める精神性は人間にとって健全なものであり、誰もが持っているものなのだという。ではどのような「自由」が「不健康」だと彼は考えているか。彼は次のような論を提示した。

「自由」を求める精神性は間違ってはいない。だが、「自由」を無限に追い求める姿勢は、極めて「不健康」な人間の有り様であり、そのような無限の「欲望」は歪んでいる。

無限の「欲望」が歪んでいるとは、どういうことなのだろうか。少し考えてみるとその主張の妥当性が見えてくる。
いくら「食欲」が旺盛な人物であっても、いつかは腹はふくれ、それ以上食糧を求めはしない。「睡眠欲」もまた同様に、いくら寝坊助の人間であろうと、永遠の眠りを求めるなどということは無い。仮にそれらを「無限」に求めれば、その人間は自身の生活に著しく支障を来すことになる。

人間の「欲望」は正当化されるべきものではあるが、それに「際限」があることがその大前提である。「欲望」の「際限」が取り払われ、「無限」に何かを追い求める姿勢は、生物の本来の有り様から何か大きく道を踏み外しているのではないかと彼は言うのだ。

話を「自由」の話題に戻そう。
つまり、デュルケームの主張によると、「規律」とは「自由」を否定するものではない。「規律」はただ、「自由」にある程度の「際限」あるいは「チェックポイント」を設けるものに過ぎないし、そうでない「規律」は正しくない。

つまり、「自由」と「規律」は対立しない。「規律」を通して育まれる「自由」に関する感性の方が、無限の「自由」を希求する感性に比べはるかに「健全」なのだ。

デュルケームは「規律」の有り様や定義についてかなり具体的で深い領域にまで言及している人物であるが、そんな彼の定義する「規律」と現代日本の学校が示す「規律」には大きな乖離がある。

それが世の学校教育への反発の声を招き、先のゆたぼんさんのような子どもが現れるのだ。

それは我々の学校が西洋からの借り物に過ぎず、自分達で真剣に学校教育の理念や存在意義に向き合って来なかったことにその原因がある。そしてそれは必ずしも学校関係者だけの責任とは言えない。

デュルケームは「規律」の定義を

その共同体が持つ顕在的あるいは潜在的な文化的規範

と考えており、学校で適用されるべき「規律」は社会が持つ「規律」と一致しなければならないと述べる。

そういう意味では、学校の「規律」や不登校をめぐる問題には、日本社会の歪みが明示的に示されていると言える。

「宿題」「頭髪検査」「制服」「遅刻厳禁」

これら学校が課し且つ批判の多い「規律」は、同時に日本社会が人々に求めている「規律」でもある。(一切社会に連動しない「規律」については直ちに修正されなければならない)
今、日本の社会はそういう意味ではこれらの「規律」を求める者達と捨てようとする者達とで意見が真っ向から分かれている。

それを学校の抱える問題として社会の一人一人を責任から遠ざけ、世論vs学校教育という風に安直に捉え、学校関係者を袋叩きにするようなことはあってはならない。

学校の問題が示すのは世論vs世論の構図。あるいは保守vs革新の構図。あるいは年長者vs若者の構図なのである。

デュルケームが示したような「規律」と「自由」の問題を「欲望」や「社会」と絡めた具体的且つ斬新な言論などというものは、現代日本においては極めて限定された場でしか共有されていない。多くの人々が十分な論理を持たない主張を飛び交わせ、発展性のない議論と罵詈雑言の嵐だけが続く。

ゆたぼんさんを取り巻く特殊で個別の事情に関しては僕は詳しいことまで知らないし、言及する必要は無いと考えている。

ただ、いつまでも舞台に上がらず、安全な観客席から演者に石を投げつけている民衆がいるとすれば、彼らは早々に世界の真実に気づく必要がある。彼らが観客席だと思い込んでいるその場所こそ、問題の真の舞台なのだ。

問題を特定の人々の責任にし、自らが正義の代弁者であるかのように主張するのはやめ、日常におけるそれぞれの生き方・学び方・考え方を見直すこと、そしてそれらの集積の結果としての社会の変化こそ、今我々に求められているものに違いない。