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あなたは誰の器?

印象的な言葉があります。

「神様の器になって生きていく」。

神様の道具、神様の器として、今世の生を全うしていくということに、祖父の背中を見て、印象に残っていました。
それは信仰深い人だけではく、どのような職業でも同じことだと思います。
例えば大谷選手だって、野球の神様の器として、前人未到の奇跡を体現しているし、藤井名人だって将棋の神様のインスピレーションの泉の器として、自我を超えた一手を差し続けている。
先日展覧会で見たエゴンシーレにしてもそうです。人間のしての苦悩や強欲に苦しみながらも、奇跡的な美しき光を垣間見て、表現できる。だからこそ永遠に残りゆく作品を生み出して、それは「とてもシンプルな真実」を浮かび上がらせてくれます。
とてもシンプルなものは、僕のような凡人にでも、はっきりと理解できるものです。歴代の音楽家の美しい旋律にしてもそう。僕はピアノを弾けませんし譜面も読めませんが、美しいことだけはわかる。
きっとピアニストほど理解できないのは悲しいことですが、では美大を出た人間が、エゴンシーレの超絶すごい画力の凄さを理解し、絵を描いたことがない人が、そこまでは理解できなかったとしても、その人がどれだけ衝撃を受けたかということが大切なのであって。
それは、シンプルであればあるほど、凄まじい真実なのでしょうね。
凄まじいと表現したのは、「悲劇」も同じことが言えるからです。神様は、美しさも醜さも、奇跡も悲劇も同じようなレベルで見せます。それを受け取るのは、人間の心次第ですね。
見えるものと見えないもの。人はいつだって「見たいもの」しか見えません。ある一つの角度からしか。これは心得ておかねばなりません。

神様、といっても、繰り返し書きますが、ある特定の具現化された神様を言っているつもりはありません。それは自由なのだと思います。そして、お釈迦さまの原始仏教には、仏、という超絶な存在はいないし、ひたすらに自分を内観し、苦しさの原因を観察していくことに、僕はどちらかというと興味がありました。

しかし、それでも僕の根底的にあるのは、何かしら不思議な、しかし簡単には答えを出したくない、出せるものでもない、それでも確かに存在するもの。それを神様、とシンプルに表現するのであれば、その神様の器になれるのであれば、この人生、悔いることはないとはっきりと自覚できます。

仏壇に、神棚に手を合わせるときに、心を無心にして、一人向き合います。そこにはご先祖様がいて、その先にもっとゆったりとした優しい光があります。
「どうぞ、僕をお使いください。人生を全うできる勇気をください」と祈ります。間違っても、ご利益なんて願いません(笑)。苦しいときには、助けてくださいというよりも、「智慧を分けてください」と祈ります。それには、心を静かにしなければなりません。雑念ほどノイズはないのですから。

何かが成功したとき、良いことがあったとき、充実して幸せだったときには、神様にお返しします。線香あげて祈ります。上げる暇がなければ、こうして思いを記録します。農作物が取れたら、その恵みを大地に帰すように。そう、心がけています。

今日も苦しかった。幸せなことだとはわかっているけど、子育ては、辛いです。正直に告白するならば、何度も「父親なんて辞めたい」と思いました。これは許してください。この思いすらも蓋をしてしまえば、もう心が壊れてしまいます。
疲労の極みにおいて、暴れて、のしかかられて、永遠に続く寝かしつけ。妻も赤子に手を焼いて、お互いのフィールドで精一杯。

辛い、辛い、辛いと、頭の中が雑念の悲鳴に満ちたときに、ふとこう思いました。
「僕は神様の器だ」と。

すると、ふっと雑念が消えて、心が澄み渡るようになりました。子供の狂ったような奇声と暴れ回る姿を、まるで映画のように観察することができました。
そうして、「疲れたから横になるね」と伝えて、静かにしました。すると息子は一人で本を読み出しました。その後も、水やらトイレやら、なんやらかんやら言ってましたが、気持ちは淡々としていました。そうして、シンプルに「可愛らしいものだなぁ」と思えるようになりました。
子育ては学びです。心からそう思います。多くの学びと気づきをもたらしてくれる子供という存在は、まさに神様のようなものです。人間だけではありません。動物や植物にしても、命を育むお手伝いをするということは、巡り巡って自分の命を育み、学んでいくことと言えますね。だから、親は、子の器です。間違いなく。その逆はあり得ません。悲劇の元です。

さて、器と言っても、「自分を無くす」ということではありません。自分を無くしたら、もう別の世界に行ってしまいます。そうして支離滅裂な言語で、ますます不安定になった人もたくさん見てきました(芸術を目指す人には多いものです)。
僕もかつては、というより、今でも自分を無くしています。自己犠牲と奉仕の先に、ボロボロになった自分がいました。
それではダメだと、自分を守ることを心がけています。自分の時間、自分の静けさを守ること。その精神がないと、到底に神様の器になれるはずもありません。

あなたには、どんな神様がいますか。的確な指摘をしてくれる神様ですか?それとも、心の支えになる言葉を残してくれましたか?
そもそも、神様なんてこと考えたこともなかったですか。それはそれで幸せなことかもしれません。 
この世がこの世だけのものでしょうか。現実が現実だけのもので、夢が夢だけのものでしょうか。  
過去は過去、未来は未来で別物なのでしょうか。過去は変わりませんか?未来はわからないのですか?

生きることが生きることだけで、死ぬことが死ぬことだけでしょうか。
死んでみないとわからない、なんて、どうしてはっきりと言えるのでしょうか。
幽体離脱したからってそれが真実ですか?生きているから、わからないのでしょうか。

生と死は同時に、今この心と体に存在してるのであれば、当然、さまざまなことが、今ここに答えがあるといえるのではないでしょうか。

毎日毎日、自問自答しています。子供にもみくちゃにされながら、今日も一円も売り上げを出せないまま、自分の絵を半年以上も描けないまま。。 
途方に暮れて、保育園の帰りに自転車を漕ぎながら見るあの夕焼けが、なぜあれほど美しいのでしょうか。

天国のクジラは、天国だけのものですか?あのクジラに乗っている家族は、永遠にあの姿でいるわけがありません。クジラも、家族も、我々も、ずっと旅をしているわけでもなく、大きな流れのほんの一部のシーンなのです。だから、先がある。まだまだ先があるのに、なぜあの一部のシーンが求められるのか。
僕はこれからも描き続けられるのでしょうか。
いや、同時に描くのでしょう。さまざまなものを。やはり、エゴンシーレのように、神の器になって描き続けねばなりません。そして、人に伝えていかねばなりません。それが、僕を超えた僕という人間が、一番したいことなのだから。

23:34。息子と妻と赤子が寝て1時間。これが僕だけの時間。僕だけの神様の対話する時間。神様は一人ではありません。たくさんの気配があります。この対話こそが、最も大切なひととき。すべてを幸せにする、後回しにしてはいけないひととき。
自分だけの神様。そして、みんなの神様。

さて、寝よう。悪夢でなければいいけど。

おしまい。

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