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【エッセイ#31】グラスの底の赤い欲望 -志賀直哉と小津安二郎の創作について

私たちは、偉大な作品を創る巨匠というと、何かすごくこの世を超越した存在のように思いがちです。実際はカラヴァッジョやゴヤのように、当人がそうでない場合も多数あります。

しかし、一見穏やかな作品を創る、物静かな作家でも、実はとてつもなく抑圧された暗い感情があったりします。



志賀直哉は「小説の神様」と呼ばれる、教科書にも載っている文豪です。彼に私淑した、私小説の名作家、藤枝静男のエッセイに、興味深い一節があります。

 ある日、志賀家に遊びに行って四方山話をしていると、昔、志賀が浜松に行ったことがあるという話になります。徳川家康の妻だった築山殿のことを小説に書きたくて、調べようとしたとのこと。志賀は続けて言います。

築山殿という女が家康にひどく嫉妬するんだが、その病的な感じに興味があったんだ。一方で医者の何とかというのと密通するだろう。
 
そのとき少し調べて書く用意をしてたんだけど、築山殿の幼名がどうしてもわからなくて書き出せないでいるうちに本当に書く気がなくなってしまった。

 藤枝静男『志賀直哉と築山殿のこと』

築山殿の幼名は、「瀬名の方」で、昨年の大河ドラマ『どうする家康』で、有村架純が演じた女性です(勿論フィクションなので、だいぶ史実とは違うタイプの女性になっていました)。この件について、藤枝は志賀を助けるため、色々調べたりするも、結局、志賀はこの題材を使うことはありませんでした。そして、藤枝はこう書きます。

それはそれとして、私にはなぜ志賀さんが築山殿みたいな病的な女を書こうとしたのだろうという、それを知りたいような気持は残ったのである。今でもわからない。
 
しかし志賀さんの小説には、自分の浮気と妻の嫉妬を材料とした一時期の小説、妻の姦通を主題として書いた「暗夜行路」の序詞と後篇、「雨蛙」「范の犯罪」など、そういうシテュエイションが何となく氏の気持ちを刺戟し、本気にさせるという気配だけは、感じるのである。

これは私にとってはちょっと思いがけぬポイントで、自分でも意外な気がしているのである。

 藤枝静男『志賀直哉と築山殿のこと』

この藤枝の視点は、実作者である自身の実感を踏まえた、大変面白いものです。
 
つまり、志賀直哉と言えば、「小説の神様」と言われ、『小僧の神様』だとか『清兵衛と瓢箪』だとか『城之崎にて』のような教科書に載る作品により、客観的で冷徹な写実描写の巨匠と言われがちです。
 
これは彼の生前からそうで、芥川龍之介は、志賀の小説を「最も詩に近い」「最も純粋な小説」と称賛しています。そうした点を併せて、高潔で、俗世の欲望を超越して解脱した小説家のように思われがちです(「神様」ですからね)。
 
しかし、それは、あくまで一般的なイメージの話です。確かに言われてみれば、彼の作品には、「姦通もの」、そして『和解』や、『暗夜行路』のような「父子不和もの」があります。表面上は透明なのに、題材は恐ろしくドロドロしている。
 
そして、重要なのは、藤枝も述べているように、おそらくは志賀自身が、そういう題材を欲しているということでしょう。小説に限らず、創作というのは、この題材をとり上げたい、という強烈な欲望がないと、そもそも始めることすら困難です(私も創作をしていてそう思います)。


志賀の場合、姦通・不倫による嫉妬と憎悪、父子の不和による蔑視や憤怒といった、強い感情に彼自身が惹かれているからこそ、題材を見つけに行っていたはずです。
 
それを淀みのない、一見高潔で清らかな文体で書くから、そういう部分が、ちょっと見えなくなっている。だから、一般的には気付かない形になっています。
 
つまり、そこには文体と題材の乖離があります。不倫や父子の不和は強烈な負の感情を伴うものであって、文体はその感情に沿うように、煽情的で感情的なものになりがちです。しかし、志賀の文章はそうではないため、ある意味珍しい、独自の芸術になっているのです。


 
題材とそれを取り扱う方法の乖離で私が思い出すのは、映画監督の小津安二郎です。実は、志賀直哉と小津安二郎は仲が良く、志賀も小津の映画を称賛していたそうです。

小津安二郎

2022年のイギリスの、映画批評家と監督投票による「史上最高の映画」で、『東京物語』が4位に選ばれるほどの世界の巨匠であり、「古き良き日本」のホームドラマを撮り続けた映画作家と思われがちです。試しに、Amazonにある、彼を取り上げた本の題名を一部並べてみます。

『小津安二郎 老いの流儀』、『小津映画 粋な日本語』、『無常とたわむれた巨匠』、『小津安二郎の食卓』、『小津安二郎を読むー古きものの美しい復権』、『小津安二郎、晩秋の味』

雰囲気だけでも、少し分かるかと思います。こうした小津の映画への「日本的なもの」のクリシェ(常套句)を排して、その画面や作品構造が如何に過激に作られているかを論じた批評として、蓮實重彦の名著『監督 小津安二郎』があります。


しかし、ここでは画面にいかずとも、彼の映画で取り扱っている題材だけを、単純に挙げてみます。

不倫、中年オヤジのセクハラ、強盗、脅迫、DV、下ネタ(おなら)、教員の過失致死、老人への蔑視、近親相姦的な欲望、いきずりの関係、堕胎。

まだまだありますが、ぱっと思いつくだけでも、これだけの暗い題材を取り扱っています。それを、登場人物はにやにやと笑いながら、一定ののろのろしたリズムの台詞を発して、飄々と演じていきます。
 
そして、特徴的なローアングルと、カット割りを感じさせない滑らかな編集、朗らかな音楽で繋げていきます。それで、観終わった後は、何か明朗なドラマを見た気分になるのです。

確かに、凄いとは思いますし、ある種の「日本的」な、人生を達観した境地と言えるのかもしれません。しかし、私は「これって、一種の『詐術』じゃないのか」と思うことがよくあります。
 
彼の映画には、物凄く暗く「ヤバイ」ものが根底にあるはずです。それなのに、表面上、モダンかつノスタルジックな視覚と聴覚の連鎖で、観る人をそこに目を向けないように騙し続けているのではないか、と。
 
その真偽は、皆さんも映画を観ていただいて、確かめていただければと思います。ここで改めて強調したいのは、小津自身が志賀と同様、そうした題材を欲していたということです。


 おそらく、彼らを創作に向かわせるものは、彼ら個人が反応する強い感情とシチュエーションだと思います。それをどのように取り扱うかという、文体や描き方で、作品の質は変わります。そして彼ら自身がどう思われるかという、作家としてのイメージも変わってきます。
 
しかし、同時に、題材があるからこそ、技法もまた変化するとも言えます。志賀や小津の凄みというのは、表面上の技法の奥底に、暗く破壊的なものがあるからこそ、その技法がより透徹したものにもなっているということでしょう。

志賀直哉

 それは、ある種のカクテルのようなものなのかもしれません。甘いリキュールの味わいを飲み干した後にカクテルグラスを見ると、何かが残っています。それは真っ赤な血の色をした、どろっとした、決して呑み込めない何かです。
 
志賀や小津にとっての題材というものは、そういうものであって、それらが奥底で発散するきつい刺激が、まろやかな甘味の中に隠されているからこそ、何度も味わいたくなるのでしょう。そして、それは、優れた創作の一つの条件でもあるように思えるのです。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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