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書き方よりも在り方だ、という


どう書いたら、あなたに読んでもらえるんだろ。

たった1行でもその人自身が現れると、わたし、読んじゃう。 長いです。



1.いつきの思い出


ずっと昔、泣き虫いつきという若い女性が、神道系サイトのコメント欄に頻繁に書き込んだ。

毎回、彼女は必死に問うた。

背景や自身への説明は無く、文法なんてめちゃくちゃだった。

なぜか日本語の古典に深い知識がある。

そのサイト主、簡単な返事しかしない。大丈夫っ、とか。

彼女は、母と妹と3人で暮らしてた。発達障害を抱え、人と過ごすことも生活もままならない日々のようでした。

少しのことに希望を見出しては、あんなことあった、こんなことあったと報告した。

他人に怒ったり批判することができない素のひとだった。

この人間界に来てしまって翻弄されてた。辛いことにはじっと耐えた。

毎回、彼女は尊敬する主に必死に問い掛けた。が、主はつれない。

大丈夫かっ。

わたしは、誠実に生きようとする泣き虫さんにほろほろに成った。

やがて、2年も経った頃、泣き虫さん、ふっと消えた。

ずっと彼女がこころに残ってる。



2.ゾウさん、ゾウさん


盲人が数人、1頭のゾウさんを囲んだ。

それぞれが伸ばした手の範囲をなぞって断定した。

ごわごわし毛深いのだ、つるんとしてるのだ、ふにゃふにゃ長いものだ、キバっぽくゴツイのだ。

読まれる文章とは、こうだっと断定する人もいる。が、どうして全体包括してると言えるん?

作家だって、じんせいの細い1本の道しか歩いた経験が無いのだし。


いや、正解はある。

けど、きっと読まれる文章の条件とは、無限に巨体なゾウなのです。

ゾウさん、ゾウさん、お鼻が長いの?

そうよ、母さんも長いのよー♪

じゃあ、お腹、足、シッポは?と次々と質問したくなる。

いや、何を食べ、どういう姿勢で寝るのかもはっきりさせたい。

読み手には様々な疑問が出る。

出ないように十分な情報を提供すればいい?

いや、ぜんぜん無くとも、わたしは泣き虫さんを勝手に追っかけていた。


ある方が、読んでもらうには「書き方」よりも「在り方」が大切だ、と書いていた。

ううーん、、そんな気もするぞ。

泣き虫さんは、泣き虫いつき、泣き虫みのむし、とかハンドルネームを数か月ごとに変えて行った。

が、彼女が書きこんだことが、すぐに分かった。あっ、居た!

彼女は、弱っちい、泣き虫だった。彼女は、「在り方」そのものだった。



3.在り方とは


文字は、他者に読んでもらうためのものだ。分かり易い、読み易いという書き方は、前提として必須だ。

起承転結、新しい学びがある。

でも、これらはhowだ。「書き方」でしかない。わたしのこころが振るえるわけじゃない。

その方は、「在り方」とは「書き手の個性」だという。

「素敵だ」なという個性が現れると、読み手は「応援したくなる」と。

がんばってるなぁとか、健気やん、と読み手が思う気持ちだと思う。

確かに、書き手に親身になっちゃう。


物語りでは、主人公のキャラを立てて進める一派に、このセオリーが多い。

読ませる小説、売れるマンガは、キャラ立ちが王道だ。

巌窟王やジャンバルジャンがそうだ。俺は海賊王に成る!と言われたら、わたしも付いて行きますみたいになる。

でも、文章の「在り方」は、キャラ立ち、とは限らない。

エッセイでは、むしろキャラが立つと読みにくい。

そして、「個性」という言葉は、実はあいまいだ。だいいち、個性的な文をわたしは書けない。個性は、読み手が感ずるものだから。


辞書を引くと、「在り方」とは、「ある物事の、当然そうでなければならないような形や状態。物事の、正しい存在のしかた」と書いてある。

なぜ、泣き虫いつきが必死に主に問うのか。

「当然そうでなければならないような」事情が彼女にはあったのだ。

それが何かは分からないが、毎回、それが確かに在ると確信し、熱心にわたしは探した。

「在り方」を知りたいというのは、読み手の「本能」だろう。この欲求を存分に満たしてもらえないと、ううーん、、、と欲求不満になる。

泣き虫さんの「在り方」がもう少しで分かりそうだ、いや、ぜんぜん分からない。

そういう宙ぶらりんな状態に置かれたものだから、わたしの本能は彼女の「在り方」を探り続けた。

「宙ぶらりんな状態」は、動詞ならサスペンドされる(吊るす)、名詞ならサスペンスとなる。サスペンス小説の大前提だ。


彼女は情念の特急列車だった。ただし、至るところよく分からない。

なんと、弱虫いつきは、わたしをサスペンドしていた。

書き方作法がわたしたちを惹くのではないでしょう。

howは大事だが、最低限の作法に留めたい。

泣き虫さんは、ただサイト主に受け止めて欲しくて書き込んだ。

すると、わたしのような、隠れ弱虫ファンがいっぱい出て来た。

主の話は頭では参考になるが、こころはいつきをみなはコメント欄で探した。

サイト主が返事しないときは、代わりにファンたちが彼女を励ました。

なぜか、多くの人たちが、彼女と言う赤裸々な「在り方」に興味を持った。

彼女の気高さ、混乱、不器用さ、健気さ・・。

そういう「存在自体」をわたしたちは感知したのでしょう。


泣き虫いつきは、「わたしはこういう事情です」、「わたしはこういう人です」とたぶん、1回も言ったことはない。

とにかく、毎回、むちゃくちゃな文章で、必死にサイト主に問い掛けた。

ちょっとした日常の「良いこと」に出会っては喜んだ。

いつきは、健気であり、可愛いのだった。

可愛いというのはわたし側の判断だけど、当人は、情念の暴走列車だもの。そんなの気が付いてもいない。

わたしは、健気な暴走列車にこころ寄せた。

くどいけど、文章の書き手は、自分の「在り方」も「個性」も書けない。

自分語りをすると、押し付け境界線に抵触してしまう。

やはり、「在り方」も読み手の専管事項だ。



4.「やり方」と「在り方」


長くサラリーマンをしたわたしも思います。

ビジネスを成功させるうえで大切なことに、「やり方」と「在り方」があるわけです。

「在り方」とは、どのようにお客様に想ってもらいたいのかというビジネスをする上での考え方です。で、「やり方」は、ノウハウや体制のこと。

「在り方」がクリアであるほど、「やり方」を具体的に工夫します。

「やり方」が洗練されてくると、競合に負けない組織へと成長して行きやすいと言われてる。

「やり方」であるノウハウは、他社がすぐに真似することが出来てしまう。

けど、「在り方」は、企業の考え方であり、文化となる。文化は真似しようがない。

文化が、組織や規律、開発の仕方、売り方という隅々にまで波及する・・。

儲かるトヨタすごいと思っても、あなたはマネできない。

根底の考えが分からないと、なぜそういうhowが出て来るかが分からないから。


一度、「在り方」が規定されると、それに沿った「やり方」、つまり「書き方」しか展開できません。

「個性」とは、実は、限定された在り方です。その他は捨てられるのです。

その人の「在り方」が、「書き方」を規定する。

だから、「在り方」と「書き方」は分けて考えられないペアです。

泣き虫さんは、かなり捨てて1点、「信じ」「お慕い申します」「感謝します」というところの暴走列車だった。

その「在り方」が、むちゃくちゃな「書き方」を指定した。

彼女の破格な「書き方」が、わたしをけん引した。

「書き方」だけを言う人は、個性的な文章にはなれない。


ビジネスで「やり方」は目に見えるけど、「在り方」は見ても分からない。

さらに、男子は、この分からないものを無視し易い。

とうぜん、夫婦を成功?させるうえで大切なことに、「在り方」と「やり方」があるわけです。

というか、夫婦の場合、「あなたとの在り方」がモロに問われる。

女子は始終、これを問うて来る。

男子はかつて一度、I love you.と言ったんだから、もういいはずだと言う。

いいえ、あなたの「在り方」が、あなたの日常にすこしも反映されず、不安と不信を招いているのです。

なので、女子は何度も「在り方」を確認するのです。


恋する彼女と成功?させるうえで大切なことにも、「在り方」と「やり方」があるわけです。

勉強もテニスも野球にも、あるわけです。

惹かれる文章を書くにも、「在り方」が関わるのは、当然なのです。

どのようにあなたが世界に願っているのかという、モノ書く上での根底の考え方を指している。

弱虫、泣き虫さんは、とにかくサイト主に救って欲しかった。

隠れファンは、影でそれを微笑ましく見守った。



5.ハートを揺さぶられる在り方


「在り方」とは、「個性」とはちょっと違うのです。「個性」と感ずるのは、読み手側です。

結果は「個性」かもしれないけど、書き手に在る何か、が本質なのです。

みな生きてもまともに在れない、この世の悲しさ、切なさのような気がします。

その哀愁、郷愁という、いわゆる情緒を呼び覚ます人の有り様かもしれない。


子どもは意外にむごい。

やぁーい、鼻が長いやっ!ーとからかう。

子ゾウが悪口を言われた時の歌をまど・みちおさんが作った。

他の動物から見たら、鼻が長い君はおかしいわけです。

けど、子どものゾウは、しょげたり怒り返したりせず、

「大好きなお母さんも長いのよ」と朗らかに切り返し、それを誇りにしている歌だという。

まどさんは、毅然とできなかった自身の悔いを子ゾウに託したのかもしれない。


詩人のまど・みちおさんが、多くの子どもたちに愛唱される「ぞうさん」を書いた。

「一ねんせいに なったら」「やぎさん ゆうびん」「ふしぎな ポケット」の作詞で知られます。子どもから大人まで幅広く愛されてきた。

わかりやすい言葉で、たのしかったり、深く考えさせられたり、ユーモアたっぷりに生きる喜びが綴られる。

「戦争」を忘れることができますか?

「心やさしい」「素直な」詩人として、栄誉と絶賛の中で生きた彼が、最晩年まで明かそうとしなかったことがある。

植民地役人時代、そして、その記憶を封印して生きた長い長い戦後。

戦争協力をしてしまったおのれを強く恥じたのでした。


アンパンマンのやなせたかしさんにも、悲しい戦争体験がありました。

中国の上海郊外で敗戦を迎えますが、

「戦争はとにかく腹が減る。人間いちばんつらいのはおなかが減っていることなんだ」と言う。

当時は、水みたいなおかゆ、タンポポなんかを食べていた。

「人間、飢えてくると、人を裏切ってでも何とか食べようとする。考えもおかしくなってくる」と言う。

だから、おなかの減っている人を助けるヒーローが必要だと思いついた。

悪者を倒して去っていくだけのヒーローでは、おなかは膨れないんだ。

ということで、アンパンマンはキャラ立たない。

やなせさんの「在り方」に裏打ちされている。

それは「個性」か?いいえ、「祈り」や「願い」に近いでしょう。


まどさんには、戦争に対する憎しみと怒りと悔いが、詩人の「在り方」として反映されている。

やなせさんには、人が究極に求めるヒーロー像という願いがあった。

自分のあたまをちぎって食べさせるという構造は異常でもなんでもない。

「在り方」には、キャラ立つ前の、その人の生がにじみ出る。

ほろほろと悲しくて、苦しいものが生を裏打ちしてしまう。

だから、意図して出すようなものじゃないと言える。


お母さんはね、りっぱな鼻をもってるんだよと子ゾウは毅然と言うのです。

ああ、、なんて健気なんだ。

そういう子ゾウの「在り方」が、健気で微笑ましい。

ほろほろと子ゾウにころりやられ、武骨なわたしだって断然、応援したくなるっ。

こうして何十年も子どもたちが親しんで来た。

子ゾウの想いがわたしたちのハートを打つのです。

それは、戦争に加担したおのれを恥じた想いの先をまどさんが開いたから。

詩を真似ることは出来ても、彼の詩人としての在り様は真似れない。

泣き虫さんは、真似ようもない。

あなたのぎこちなさ、不器用さ、負い目、悔しさ、悲しみ・・・。

それらは、かけがえのない「あなた」だった。

この世に唯一無二の「あなた」という存在なのです。

あなたそのものが、誠実に表現されていました。



6.まとまらない、まとめ


わたしが、こう在りたい、こう生きたいと書いても、誰も関心を持ってくれません。

自分の出来事、嗜好、趣味、考えを書くのは、とても危険なジャンルに手を出していることになる。

ただの「自分語り」になる。

それは1つの物語ではあるけれど、読み手に余韻が残らない。

文章読本界に限らずどの業界でも、とくに避けねばならぬと筆頭にあげられている「自分語り」。


なぜ、1個人を応援しなくちゃならないんだろう?

いいえ、「わたし」とは「あなた」なのです。

「あなた」とは、「わたし」なのだ。

書き手を応援しながら、わたしたちは供に生きている。

勝手に、一方的に推ししたいんじゃないのです。

書き手の生き様は、ブーメランのように読み手へ回帰する。

あなたが書き手の文を読んで、自分の存在を確認できないとならない。

書き手が一方的に宣伝しているんじゃ、読み手は参画できませんもの。

書かれた文に、「わたし」と供にどこか「あなた」が居ないといけない。


すくなくとも、弱虫さんはサイト主に問い掛けた。

彼女は、たったひとりの読み手でじゅうぶんだった。

わたしたちは、勝手にほだされ参画した。

それほど、1つのこと、一人への強い想いは、読み手を駆動するでしょう。

その「想い」こそ、「在り方」の実態でしょう。


わたしたちは、社会的動物だそうです。

いつも仲間のことが気になるのです。

「がんばれよ」って思えなければ、読み手は振るえない。

「辛いよねぇ」って思えなければ他人ごとのままです。

へたれ易く、意地悪な者たちが多い、この世界なのです。

そこを健気にサバイバルする。

夜になったら、かぼちゃ馬車に乗れるという。ガラスの靴も履くという。

おお、、そうか、そうか、良かった・・と。

文章は、書き手から読者へのエネルギー補給と成り得る。


意外なことに、書き手は自分の個性は出せない。

どう在りたいかの想いを胸にしまっておくしかない。

じぶんがどう在るのかの事実を書くしかない。

そして、自分の出来事なりをもちろん書くのだけれど、それは読み手の「あなた」のことでなければならない。

ああ、、ややこしい!

すごく難しい命題だと気が付いた。いや、薄々感づいてはいた。



P.S.


お付き合いいただける人たちと日々を交換しています。

良いも悪いもなくて、あなたが誠実に生きようとする、そのエネルギーをわたしはいただくのです。

そうして、わたしもここにいくばくかのお返しをする。

あと何年生きれるのかと思わない年齢になりました。

お迎え来るその日が射程圏内に入ったからでしょう。

そうした日々の中で、わたしはわたしらしく在りたい。

そういうわたしの「在り方」がだんだんと出せて行けたらなって思う。

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