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激しく評価が異なる書き手と読み手問題 ― 自由について


1.素敵ではない「良い記事」


ある方の記事を読んだ。

起承転結、テーマ、分かり易さ、書き手の想い、問い掛けと共有・・揃ってる。

でも、わたしのこころは喜ばなかった。いかにも「良い記事」だった。

ああ、、これって!、わたしが書いて来たことだったんだと気がついた。

稲妻が貫通した。


ごく内輪の方に応援してもらってる。普段、わたしの記事にあんまり反応無いです。

たいはんの人はなぜ反応しないんだろう?

もちろん、いまいちだから。

でも、わたしは頑張った。「良い記事」のつもりだった。

きっと、まだ十分には「良い記事」ではないのだ。長いし、くどいし。


最近、わたしの記事畑にちょっとした異変が起こった。

ある記事だけ、人たちがしつこくぽちっ、して行く。

いつまでも通りすがりの人が押して行ってくれる。

いいね、ぽちっ。

いいんじゃねぇ、ぽちっ。

いいよね、ぽちっ。

ぽちぽち、と何日経っても続く。


そんな大した記事ではございませんと最初に断っているし、そもそも、文がやたら長い。

でも、その子だけ、人目を引いてるようです。

まあ、言うほどたいした数ではありませんが、いつもよりは多い。

ううーん。。。読まれたら読まれたで、わたしはかなり悩ましい。


その子の顔をじっと見つめてみた。「良い記事」なの? 

その子、へへへって笑った。

いつもとの違いがわたしには分からない。

わたしの思ってる「良い記事」は、あなたの素敵とは限らないのだ。

書き手のわたしにとっての、「良い」でしかないということ。

他者のこころに響くには、文書作法が言うところの全ての要素より優先する事項がある。

現に、わたし自身、他者の「良い記事」を読んでも振るえなかった。良く書けてはいるけど。



2.あなたの激しい誤解


その子を推奨してくださる方まで出て来た。

恥ずかしいぃ。そんなあなた誤解ですほろほろ。こんなふうに評されていた。


『”間”というものは、時に言葉を紡ぐ以上にモノを語る。

文章での”間”を再現することは、まるでかぐや姫の求婚難題譚のような話である気がする。

しかし、それらの難題を文章上で見事に再現されているこの書き手です。』


いや、別に、、わたし、、そのぉ・・・かぐや姫なんてぜんぜん意識しておりませんでした。

この方は、わたしの文章に”間”を感じたという。

ううーん、そうなのか。そうなんだろうか。そうなのですね。。。

これはじぶんのスタイル(文体)なので、意図していなかった。

「見事に再現されている」なんて言われても、わたしは「見事にそれを再現できない」。


『その文章は、まるで特定の誰かに語りかけているような雰囲気があります。

主観を伴って書く以上、独白になることは前提です。

ですが、不思議なことに「文章上で誰かと対話をしているような間」が、確かにあるのです。

それがもう一人の自分という存在なのか、

それとも記憶の中の誰かなのかを推し量ることは難しい。

しかし、この”間”を肌で感じることができる。出来てしまう。

「文字がないはず」なのに、強く、強く読者の心を打つ。

絶対に真似できない、美しい文章を書かれ方です。』


いや、それはかぐや姫が書いたのであって、わたしじゃありません!

わたしも「推し量ること」が難しいです。

たしかに友達いないし寂しがりなので話し掛け調になってしまいますが。

わたし、銅のオノしかもっておりませんほろほろ。


この評者は、ものすごくクリエイティブで、きっと豊かな想像力をお持ちの方なんだと気が付いた。

わたしだって、こんなに評された当の文章を、ぜひ読んでみたいっ。みたいな。


『時に現代人は、思考を隙間なく敷き詰めることに機能美を感じます。

体系化され、デッドスペースを消去した効率的な空間は、たしかに私も憧れるところではある。

対して、この方の文章を読んでいる時。

文字数以上に、行間に横たわる温かな情緒が心を豊かにしてくれる。癒やしてくれる。

私はこの方の作品が大好きなのです。』


ああ、、そんなあなた。。。ほんとに、誤解ですってぇ。

ほら、ズルズル、グダグダ書いてますでしょ。決めつけばかりでしょ。ねっ?

スルーされるのは情けないけど、こんなに熱烈歓迎されると、、穴激しく掘りたくなるっ。


その方を引用させてもらったのは、書き手と受け手の感覚がどれほど異なるものかを説明したかったからです。

「絶対に真似できない、美しい文章」とまで最大級の賛辞を贈ってくださった方がいた。

わたし、普段は貧しい召使なんだけど、今晩にもガラスの靴用意してかぼちゃ馬車に乗らないといけないようです。

一方、わたしはじぶんで読んでそうはまったく思わない。そんな意図もなかった。

やっぱり母と姉たちに隅っこでいじめられてるしかないみたいな今晩なんです。

いったいこの相反する2つの風景がどうして同時に起こり得るんだろう?

どっちがほんとのことなん?



3.こころ響くことは意図できない


読まれた方、全員がすべてかぐや姫押し!となるわけではなかったのです。

でも、「良い文章」とは、一部の読み手を自由に飛翔させ得る、とは言える。

飛翔し過ぎて、書き手さえ及ばない高みまで上がられていると思う。

もちろん、喜んでもらえたのであれば、望外に嬉しい。


あなたのこころが自由に動く時、あなたに喜びが訪れる。

その文章は、偶然にも、自由に読ませるという構造を提供したのかもしれません。

あなたは興味を持ち、共振を始める。

ほうほう、で、と目が読んでゆく。

いいなぁとか、面白いなぁとか、リズムに乗って振幅が大きくなって行く。

あなたは、その文章と供に居て、その日の疑問や拘りや辛さや怒りをすこし軽くできたのかもしれない。

この文章、良いなぁ・・・。

わたしが「良い文章」を書いたからだったではないんです。

「良い文章だなぁ~」と感じたのは読み手でした。

「わたし」が書いたものと、「あなた」の想像力や感度がたまたまマッチングした。

書き手だけで「良い文章」は用意できないのです。

そうなる要素を双方が場に持ち寄ったということ。

そうして、間の取り方、表現の美しさを、あなたがそこに見たのです。

わたしが差し出した素材に対して、あなたが結果を創造したと言える。

だから、わたしの書いた記事に対して全員がイイネと言わない理由でもある。


比較的多く、ぽちっと押されたその子は、自由をあなたに促したのかもしれません。

文書というものも、そうやって読み手に創造性を与え得る。

もしそうだとすると、これってとんでもなく素敵なことじゃない?


当然、素敵じゃない逆の記事もあることになる。

「どうだ、これうまいだろ?」と珍しく夕食作った父親が言う。

妻も子どもも勢いに押されてつい、つい「うん、ウマイよ」とはいうけれど、違う。

ほんとにウマイのなら、先に妻も子がそう言っていた。

父は「良いつもりの料理」を作っただけであり、判定者は妻も子どもなのです。

「良い文章」だと喜ぶのは、書き手ではなく、読み手なのです。

だから、書き手は、「良い文章」を提供できなのです。

読み手が、自由に入り込める文章というのはある。

わたしにしては珍しい子を、たまたま記事畑に植えたのです。



4.書き手のスタンス


書き手に作為があっては、読み手の羽ばたく自由を壊してしまう。

せっかく作ったチャーハンだから、わたしはあなたにうまいっと言って欲しいのだけれど、我慢しなくちゃ。

そして、書き手自身、こころ伸び伸びと書かないといけない。

矮小化した精神で書かれたものに人は振るえない。

これが、文章作りの黄金律だということになる。はずしてますかね?


毎回、精いっぱい誠実に書いて差し出してみる、ぐらいしかわたしには考えつかない。

出版されたら最後、村上春樹は他者の評価に完全沈黙する。

評価は、読者の権利であるという。

作品が自分の手を離れたら最後、もう”わたしのもの”では無くなると春樹さんは何度も言う。

その意味がやっと分かった。

春樹さんは、読み手に起こる自由や喜びを切に願うから物語を作る。

有名に成りお金持ちになりたいからではなく。


もちろん、意図を持たないと書くという行為はできない。

けど、強い意図には、ウソが入り込む。読者はその作為性をすぐに見抜く。

冒頭に書いた方の話は、ペットにまつわる「良い話」でした。

作為も抑えている。が、抑えようという意識をわたしが感じてしまった。

そもそも、わたしたちは、ここまで配慮し苦悩しなければならないのでしょうか?

そこまでする価値のあることをしているん??



5.素敵な文章


再度、冒頭の方の文章を読んでみた。

ああ、、わたしと同じ匂いがやっぱりする。

きっと、それは「読み手に受け入れられたい」という気配なのです。

気持ちは分かる。けど、受け入れるかどうかは読み手が決める。

わたしたちは、そこは潔く譲らないとならない。


すっと書かれる人たちがいる。

わたしが共振して行く文章は、素直に書かれています。

たわいのない、短い文で日々を描写する。なんにも余計なことは言ってない。

でも、そこに秘められた願いをわたしは感じる。

書き手自身は、至る所、不出来で傷だらけで悔やむことだらけ。

けれども、ほらお花が咲きました、ネコが鳴きますと喜ぶこころを差し出す。

悩みながらも、自分と読み手の自由を死守しようとする。

そこは、誠実なのです。健気なんです。だから、わたしはほろほろと読むんです。


「良い文章」ではなく、「素敵な文章」が読みたい。

わたしたちは、暇だから他人の文章を読むのではない。

寂しさを紛らわすためでもない。そんなんじゃない。

日々、わたしは、挫けしぼむ。

きっと書き手のあなたもそうなんだけれども、あなたはこころにエネルギー充填しそこを超えて行こうする。

書き手は傷だらけでよろよろしていても、こうべを上げて前に生きようとしている。

そんな大げさな話はしないけど、書き手の勇気にわたしの手が触れる。

わたしたちは、自由にこころ開き生きたい。

それは、全ての人と共有されることは無いのだけれど、仲間へのメッセージなんです。


素敵な男は、素敵さを意識していない。よしっ、わたしも素敵な男になるっ!

どうやって?いや、howを考えたらまた、公式集につかまってしまう。

月見上げ、かぐや姫にお祈りするっ。あれ、雨だ。


P.S.

評してくださった、ネコくらしの勉強暮らしさん、勝手引用すみません。

また、ありがとうございます。激しく御礼申し上げます。

https://note.com/lattenecco_ff14/n/n09567bca7a3d?from=notice

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