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ホータン(中国 2010) と 玄奘三蔵


玄奘三蔵 Xuanzang

 ホータンはホータン王国(Khotan,コータン、于闐とも書かれる)があったことで知られている。絹と石で漢、唐時代に名をはせた王国だ。この時代はタリム盆地(タクラマカン砂漠があるところ)の周囲にホータンだけでなく、カシュガル、トルファンという風にオアシス都市国家が独立して並んでいたらしい。

(出典 Tarimbecken 3. Jahrhundert – ホータン王国 – Wikipedia )


西遊記

 ホータン王国があった時代に有名になった西遊記、知っての通り三蔵法師が唐から天竺に向かういわば旅というか冒険物語。私は幼い頃、堺正章と夏目雅子主演の西遊記テレビドラマ版をよく見ていた。ちょっとコメディタッチで悪い妖怪達を懲らしめながら旅を続けるという、なんだか水戸黄門の旅&勧善懲悪と鬼太郎の妖怪世界を合わせてシルクロードで割ったような感じだった。当時は幼過ぎてもちろん全くルートも気にしてなかったが今あらためて玄奘三蔵の足取りを見ると、ウイグル通過ルートとして往路はタクラマカン砂漠の北のトルファン(当時は高昌国)から亀茲国(きじ 現在のクチャ)、天山南路(てんしゃんなんろ)でウズベキスタンのフェルガモ方面に向かい、帰路はパミールの南からワハーン回廊を通ってタシュックルガン、カシュガルを経由し、このホータン(当時はコータン国と呼ばれていた)を通過し西安に帰国したという。

 つまり大雑把にいえば、往路はタクラマカン砂漠とパミール高原を北から迂回し、帰路は南から迂回したといえばいいのかと思う。それにしてもこんな時代に往路と帰路がここまで全く違うというのは冒険ものだ。往路の経験が全く活かせれないし、当時にも多分存在していたであろう地図も信用していいのかどうかという葛藤もなかったのであろうか。通過できた往路と全く違う帰路というものは地政学リスクが貿易関係者などからのうわさ話しか入ってこなかったわけだから大丈夫なのかと心配しなかったのが不思議だ。ちょっと話がずれるが、私は以前山岳会にいた。GPSがない時代に登山者がほとんどいないようなマイナーの山を初めて登るときはなるべく往路と同じ道で下った。やはり迷い道などを考えると通過できた同じ道の方が確実に帰れるからだ。おそらく玄奘三蔵は僧であると同時に冒険者でもあったのではないかと思う。そうでもないと、こんなリスクのある大冒険はなかなか踏み切れないのではないだろうか。

(出典 玄奘三蔵 | 大信寺 (daishinji.net) )


当時のウイグル

 玄奘三蔵はウイグルのオアシス都市を通過していくさなかラクダの背に揺られながらモスクを眺めアザーンに耳を傾けつつ旅を続けていたのかというと、そうではない。この当時と現在は全く状況が異なり当時はホータン王国や高昌国などのタリム盆地周囲の小国はなんと仏教国だったのだ。したがって、ラグメンやシャシリクといった今のウイグル特有の羊料理も存在していなかっただろう。モスクの代わりに仏教寺院が建ち、イスラム帽ではなく僧衣をまとった人が歩いていたわけである。街並みも含め雰囲気が全く違う町だったろう。乾燥した大地の中のオアシス都市国家というとモスリムの国というイメージがとても強いけどこの当時はウイグルだけでなく中央アジア方面にもある程度の仏教都市が存在していた。現在の風土などのイメージから想像しがたいがアフガニスタンのバーミヤンだけでなく仏教世界は当時かなり広かったわけである。したがって玄奘三蔵はイスラム都市の中を旅していたというわけでなく仏教又はヒンズー教があるところをもしくは少なくとも仏教に排他的でないところを主に通過していった。(ヒンズー教ではブッダはヒンズーのビシュヌ神の化身という考えなので一般には受け入れられる) もちろん全てではないだろうけど。

 ウイグルから話がそれるが中央アジアでは主にイラン系のソグド人が暮らしゾロアスター教、仏教、マニ教を信仰していたらしい。つまり中央アジアのソグド人エリアでも一応仏教はそれなりに受け入れられたようなのである。当時としては完全な異教徒だらけの国を通過していくにはそれなりのリスクがあったと思われるし、そうしなくとも仏教に好意的なエリアがそれなりに広く存在していたからこそ天竺への西域の旅が可能だったのではないかと思う。

 往路の高昌国では歓待を受け、インドのナーランダ大学では後年の2年は教鞭をとったというからそれなりの高僧であり、旅の途中の仏教都市ではおそらく住民から歓待を受け時には祈祷や説法も行っていたのではないかと思う。長安に持ち帰った経典も膨大であるため、大勢の随行人も従えての旅だろう。この時代の地図を見るとウイグルエリアから中央アジアは西突厥のエリアになり、おそらくホータンやカシュガルなどはどうも西突厥の従国、属国に近い存在のようだ。

(出典 東西突厥帝国 – 西突厥 – Wikipedia


 この地図で于闐はホータン、疏勒はカシュガル、康国はサマルカンドを表し、主な国だけとなっているようで、現アクスの跋禄迦国(バールカー 姑墨国)などの小さい国は表記されていないが多分小国が色々あって西突厥(にしとっけつ)の庇護のもとに存在していたと思われる。唐出身の玄奘三蔵は敵国であれど高昌国で王より歓待だけでなく通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を受け取っていた。唐と敵対する西突厥の中を旅するのはあまりにも危険極まりないと高昌国王は心配したのかもしれないが、国王名での依頼ともなると他の国もわざわざ事を荒立てにくいのではないか。つまりウイグルと中央アジア圏は西突厥という同じ親分の下の諸国である。たとえゾロアスター教であろうとも仲間の国からの親書があれば無下にもできないものだろうと思われる。そうでなくても仏教国なら敵国であっても高僧に対し礼を尽くしたのかもしれない。そして天竺(インド)はヴァルダナ朝が支配していた。玄奘三蔵が知った上での入国なのかわからないが当時の名君と誉れ高いハルシャ王はヒンズー教から仏教へ帰依した王だったのである。天竺に入国してからの足跡を見てもとんでもないほどの大移動をしている。ハルシャ王は玄奘を手厚くもてなし保護した。それによって他国からの入国者であってもこれほどの大移動ができたのではと思う。

 一方、イスラムはこの7世紀当時どうだったかというとちょうど産まれたばかりでイスラム圏というのはメッカ周辺の点に過ぎなかった。それが中東、中央アジアなどの方面にあっという間に広がっていった。ウイグルでは11世紀ごろからイスラムのカラハン朝の支配を受けそれからイスラム化した。


ホータン(和田) Hotan

 ホータンといえば絹と石が何といっても有名だ。石はホータン玉(和田玉)と呼ばれるくらい有名でウイグルに行く前からなんとなくホータンといえば石のイメージがついていたので国際的にはこっちの方が絹より有名だろう。

 石はユルンカシュ川で主に採れる。その川岸で石のマーケットが行われるというので、行ってみた。するとウイグル帽の男たちが密集し手に持った石を売り買いというか比べ合いのような不思議な光景だった。今までのマーケットだとそれなりに野菜など商品が地面に並べられ人が通過する通りがあるのだが、ここでは商品を並べるわけでもなく通路のようなスペースもなく立ち売り状態のため密集感があり、なおかつほぼ100%男だけというのは家畜市場以外ではあまり見たことがない。男くささをおもいっきり濃縮したような市場だったのだ。彼らは私のようないかにも買う気がなさそうな外国人旅行者にも売りつける気満々で声をかけてくる。


 写真の男が見せている白い石がユルンカシュ川で採れる通称、羊脂玉(ようしぎょく)と呼ばれる和田玉の一つ。


 もちろん小さい石だけでない。大きい石も色々売られている。ここでは交渉中なのか人が集まっていた。そして無事に交渉成立!両者は握手を交わし、見守っていた群衆からも喜びの笑みがあふれた。


市場と夜店

 市場では他のエリアと同様の活気のある光景が眺められた。夜店が賑わうというので行ってみた。特徴的なのは卵の砂焼きが結構多くあった。これは石焼き芋の卵バージョンだ。他の街でもあったかもしれないがあまり目立ってはいなかった。それと鳥の丸焼き。ここでは2種の味があるようだ。こういうのもあまり他のエリアでは見てなかったような気もする。チマキが店頭に積み上げている屋台はホータン特有というわけではないが珍しいので少し紹介しておこうかと思う。ちょっとこれは動画も見てほしいのだが、チマキにかけている黒ペーストは黒蜜。白ペーストはヨーグルト。つまりここではおやつ的なウイグルスイーツである。これはタンゾォンザと呼ばれるが私的にはどうもこのチマキとヨーグルトの相性がビミョーでそれほど好きにはなれなかった。しかしウイグルならではなので一度は試してほしいものだ。


玄奘三蔵の帰国後の世界

 玄奘の旅の話に戻るが帰路の途中で、他国に玄奘を保護援助の文を持たせた高昌国は唐に滅ぼされた。往路上にある康国(サマルカンド)をはじめ中央アジアは8世紀の初めにイスラムのウマイヤ朝に支配された。インドで玄奘をもてなし保護したヴァルダナ朝のハルシャ王は後継ぎを残さず亡くなったため国は分裂。それを考えると玄奘三蔵は7世紀の人物であるが、もし100年遅く8世紀ごろに生まれていたとしたらこのような天竺紀行というのはきっと不可能ではなかったのではないかと思う。仮に20年遅くても、出発の時に既に高昌国は消滅。ハルシャ王は亡くなって混乱期になっているので旅が可能だとしてもかなりインド国内の移動はかなり縮小されていた可能性がある。

 玄奘の7世紀、仏教界はかなり広かった。そして彼を保護し援助する高昌国王やハルシャ王のような方がいた。こうやって玄奘の通過していった国の歴史を調べると本当に旅が可能なギリギリのところで、なお各国の状況が好意的だった時代に通過していったような気がしてならない。戦乱の時代にすべての国でビンゴサインが点灯して突破していくようなとんでもないほどの確率でアウトを避けている。それはまるで湖水の上に浮かんだ不安定な木版を渡り歩くようでもある。いつ転覆するかどうかわからないにも関わらず対岸まで歩き続け、さらに別のルートの木板の上をまた歩いて戻ってきたのである。すべての板は転覆することなく無事に往復を終えた後に少しずつ壊れて沈んでしまった。天竺紀行は普通に考えると人間の旅の限界を超えるほどの大移動だ。これほどまで多くの国を渡り歩いていると一つくらい好意的な対応をしない国や戦乱にまきこまれても不思議ではない。その当時の宗教支配状況だけでなく国家状況であまりにも幸運なめぐり合わせの上で可能になったのは玄奘の持つ徳と仏様からの思し召しがあったのかもしれない。


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