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背に生えた刃 1-1

「わたし、流産したの」
 唐突に彼女が言った。
 
 久しぶりに飲みに行こう、と、適当な店を探して夜の繁華街を歩いている最中のことだった。おそらく、席につき腰を落ち着かせてしまってからでは、切り出すのが難しいと思ったのだろう、猥雑な街の中、不要なクラクションを鳴らして走る車が行き交う道すがら、何の脈絡もなくふらりと彼女は口にしたのだった。
 その瞬間、他の音がすべて消えた。息を呑み、一秒間の逡巡のあと、彼女を抱きしめた。飛び付いた、という表現の方が正しいかもしれない。
 何の言葉も、すぐには出てこなかった。こういうとき、「どういうこと?」だとか「いつ?」とすぐに聞くことが出来る人はすごいと思う。衝撃告白だろうと日常会話だろうと、自分はなぜか客観的事実にはあまり興味が持てない。
「ガールズバー行こう!」
 そう言って、彼女の腕をつかんだ。
「はっ?何で?」
 きょとんとした顔のあと、彼女はけらけらと笑った。こういうときは可愛くて聞き上手な女の子が多い店に行くのが一番元気が出ると思ったのだが、どうやら彼女には…いや世間一般的には違ったようだ。
「意味分からないよ、つばさ」
 彼女もまた、相手の思いがけない反応に驚いた様子で、ああ気が抜けた、と苦笑した。

 居酒屋にカラオケに風俗店、様々な匂いが混じり合った街は、逆に、何の香りも感じない。お互いに抱きしめたりもたれたり、おぼつかない足取りでふらふらと絡み合いながら、ただ騒がしいばかりの、無味無臭の街を歩いた。

 大量の人で賑わう路上で、彼女は事の顛末をすべて話しきってしまった。
 彼女がこの夜、流産のことを口にしたのはそれが最後だった。
 その後は、先程の衝撃などお互いにすっかり忘れてしまったかのように、焼肉屋で大量の肉が焼ける音に紛れながら、最近読んだ中高生向けの恋愛マンガだの、男性アイドルのゴシップニュースだの、どうでもいい話で延々と盛り上がった。時折、隣席の客を気にして声を絞るも、数分後にはまた手を叩いて、肉が焦げているのにも気がつかずに笑い転げていた。
 アルコールは一滴も口にしていないのに、声が枯れて後頭部が痛くなるほどに、ふたりとも大いに笑い、大いに話した。それはそれで良い夜だった。

 高校で知り合った彼女と自分は、偶然にも置かれてきた状況がよく似ていた。
 お互いの実家は徒歩圏内、大学も就職先も近所、ほぼ一ヶ月違いで続けて結婚し、現在住んでいる家もバスで一本。詳しく聞いたことはないが世帯年収も大体同じくらいなのだろう、生活レベルもまあ一緒で、お互いに子供はいない。違っている点といえば、彼女は異性愛者で、自分は両性愛者であることくらいだ。

「子供つくるときもさ、時期を合わせてつくろうよ。それで、同じ時期に実家に帰省して、同じ産院で産もうよ。つばさが一緒なら嬉しいし、絶対楽しいよ」
 そう言ってはしゃいでいた彼女をよく覚えている。
 もう何年も前のことだ。来月結婚する、と報告したら、彼女が驚いて「わたしも再来月に結婚するの」と返してきたときだった。子供の話になったとたんに、いつもは男顔負けの豪快さで声をあげて笑う彼女が、恋の話をする女子中学生のようにくすくすと笑っていたのが、あまりに意外で印象に残っていたのだ。
 そのときの自分がどう返答したか、確か「同じ産院って、近所の○○医院でしょ、評判良いらしいね」だとか、曖昧にして話題をすりかえていたはずだ。
 そのときには、はっきりと彼女に告げてはいなかった。自分たちはきっとこれからもよく似た状況で生きていく、結婚もして子供もいて、同じ境遇の友達がいつもそばにいる、そんな幸福でいっぱいの提案に、わざわざ水を差す必要はない。幸せとは、味わえるうちに出来る限り多く味わっておくべきものだ。
 彼女に伝えていない、自分と彼女との相違点がある。

 自分は生まれつき、女性なら皆持つという母性本能というものがない。知識として客観的には理解できるが、主観的にそれを感じたことがないのだ。
 彼女が子供について幸せそうに提案したとき、自分は、なぜ結婚と出産のふたつが話題としてそんなにも自然につながるのか、分からずに密かに動揺していた。なぜ結婚の次には出産がくると、当然のように彼女が、彼女だけでなく多くの女性が考えるのかが、どうしてもうまく理解できなかったのだ。

 一緒に母になろう、という彼女に、どうして母になりたいの?と、誰が聞けるだろう。聞く必要がどこにあるだろう。女性の身体に生まれていながら、母性本能がない、などという異常因子は自分の方なのだ。きっと彼女の方から、すぐに聞き返してくるだろう。どうして母になりたくないの?と。
 なりたい理由に答えなどないのと、なりたくない理由にもまた答えがないのは同じだ。事実を裏返せば、やはり彼女と自分は同じなのだ。

(つづく)

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