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背に生えた刃 1-2

 彼女は早期流産だった。
 妊娠八週目の時点で、胎児の発育が止まってしまったという。

 妊娠一カ月目という早い時期に受胎が発覚し、それから毎週産婦人科へ検診に通っていたというから、彼女と夫がどれだけ本気で子供を望んでいたことか、考えるだけで胸が痛くなる話だ。既に中絶手術を終え、近所の神社で水子供養もしたという。
「散々泣いたけど、おかげで旦那さんとの絆が深まった気がするの。苦しみも悲しみも一緒に乗り越えたからかな。それに、妊娠は出来るってことも分かったし、良かった」
 深遠な強さを湛えた微笑みを浮かべて、彼女は言った。線路沿いの赤みがかった街灯に照らされて歩く彼女は、夕陽を浴びた聖母像のように美しかった。
 共に過ごした時間の長さなど関係ない、我が子は我が子だ。ちいさな命に、彼女と夫は何と言葉をかけてその魂を見送ったのだろう。聞きたいことは山のようにあったが、何ひとつ声にはならず、そのまま大人しく口をつぐんだ。

 結局、雑踏の中には落ち着く店が見つからず、街を抜けて真新しいファッションビルに入った。レストランフロアに並ぶ店はそれなりにどこも混み合っていたが、店の前に行列する人々の中に、不思議と子供連れの客は一組もいなかった。そのことに、彼女に気づかれないよう密かに胸をなでおろした。
「そっか、まぁコウノトリを気長に待とうってことだね」
「そうそう」
「で、何食べる?」
「パスタって気分じゃないんだよなぁ」
「ねぇ、サムギョプサルってスープだっけ?」
「違う、それはサムゲタン。焼肉かぁ、元気出そうだ。いいね」
 韓国料理屋の店頭のメニューをめくりながら、ふたりで揃って笑った。

 早期流産は概ね、胎児の異常が原因だという。
 母体である彼女自身に困難があるわけではなく、次に出来た胎児が元気であれば、きっと無事に出産まで辿りつけるだろう。彼女の言うとおり、不妊症とは異なり妊娠は出来ることは証明されたのだと、安心するよう促す医師も多いのだという。次こそはきっと大丈夫だからと。
 それ以外にも、彼女の口から出る言葉は総じてとても前向きだった。きっと、そう遠くない将来に、彼女は改めて母になるのだろう。やはり母性本能は人間を無限に強くするものなのかもしれない。そう思わせるほどの力を、今の彼女は放っているように見えた。

 自分は何を糧に強くなれるというのか。自分の強さの基盤となり得るものは何なのか、果たしてそんなものが存在するのだろうか。女性の母性本能も、男性としての強さのどちらも持ち合わせていない自分の足元の脆さに、不安を覚えずにはいられなかった。

 薄暗い間接照明と繊細な木彫りが施されたオーク材がオリエンタルな雰囲気を醸し出し、日本語と韓国語が入り混じる店内でやっと腰を落ち着け、オーダーを済ませると、間もなく一目で韓国人だと分かる長身で小顔の男性ウェイターが、大量の豚肉と野菜を運んできた。
 微妙に傾斜をつけた鉄板に、たっぷりと脂の乗った肉を次々に乗せていく。「食べきれる気がしないんだけど」彼女が言い、「いや、意外といけるよ」と自分が笑った。
「ねえ今度さ、つばさの家で宅飲みしようよ。デパ地下でお惣菜買って持ち寄ったりして。わたしのおすすめのアイドルのコンサートDVD用意しておくから、一緒に観よう!どう?」
 肉の焼ける音と同じ音色で彼女が提案した。
「いいね、楽しそう」
「だよね!予定合わせられるとしたら、年内は難しいな、年明けになっちゃうかなあ。もう早めにお休み取っちゃおう。わあ、楽しみ!」
 初めて飲むというコーン茶を美味しそうに飲み干して、彼女は両手を顔の前で合わせ、今にも飛び跳ねそうな勢いで笑った。そうだ、彼女はいつもこうして、コマーシャルに出られそうなくらい美味しそうにビールを飲み干す人だった。

 それから彼女は、最近すっかり熱をあげているという男性アイドルグループの話を、少し照れながら実に楽しそうに語った。
 彼女が男性アイドル好きだったとは初耳だった。彼女と言えば少し個性的な、周りから「なぜ!?」と言われるようなマイナー俳優やインディーズバンドが好きだったのだが。
「テレビで見るとさ、そんなにカッコいいかなぁ?と思う人でも、ちゃんと見てみるとびっくりするくらい肌がきれいだったり、目の形が両方整ってたりとかするんだよねえ。そういう微妙な違いが、一般人とは違う」
 それは高額スキンケアと整形では?と思いつつ、「そこまで細かく見たことなかったなぁ」と言うと、彼女はアルバムフォルダを見せて「これとか!あとこの写真は、メンバーのこの子とこの子が同じ靴下なの!匂わせかよ!萌える~!」
「想像力すごいな!!」
「公式が供給する萌えをこぼれ落とさずすべて拾いきるのがオタクの神髄よ」
「それが勉強に発揮できてたら、君は現国のテストで毎回満点だったね」
「つばさ現国得意じゃなかった?」
「現国は毎回満点だったよ、古文と漢文で足を引っ張ってました」
「よし、つばさは優秀なオタクになれる」
「オタクの世界のセンター試験受ければよかったな」
 自分が度々、彼女の話にどうでもいい茶々を入れると、彼女はのけぞったり、手を叩いたり、自分の肩にもたれたりしながらたくさん笑った。

 十五年前、出会ったころの彼女は早熟で大人びていたが、今こうして隣で笑う彼女は、あの頃よりもなぜだかずっと幼く無邪気に見えた。

 結局、大量の肉はあっという間に食べつくしてしまった。
 窓に面した半個室のカウンター席は見晴らしが良く、彼女の突然の告白を聞きながら歩いた雑踏も、上から見れば色とりどりのネオンが盛大に輝く、華やかな夜景の一部となっていた。秋から冬に移り変わろうとしている街は、自然と造形物が絶妙に溶け合っていて、それは美しかった。
「このお店、夜景キレイだね。穴場だった」
「そうだね。……空気が澄んできたのかな。夜景がキレイに見えてくると、冬が近いなと思う」
 喋りつくした心地よい疲れをお互いに燻らせながら、空になった鉄板の向こうの景色をふたりでしばらくぼんやりと眺めていた。

 そう、この時点で自分は何も気づいていなかったのだ。
 華やかな夜景の正体が、実は人間の欲望と鬱憤に塗れた猥雑な雑踏であること。そして、自分を強くしてくれるものほど、逆に自分の弱さを責め立ててくるのだということを。

(つづく)


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