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「海をあげる」「宝島」


ソーキそばが好きで、
オリオンビールも好きで、
ウチナーグチ(沖縄方言)も、
その抑揚も好きで、
島唄も、三振の音色も好きで、
カチャーシーも好きで、ミンサーが好きで
マングローブもさとうきび畑も、
亜熱帯を生きる動植物も、
色とりどりの魚たちも、
ウミガメも珊瑚礁も好きで、
細く閉じられた、おばあの目尻に刻まれた深いシワも好きで、
自然に育まれた奔放な若者たちも、
そのよく焼けた肌から覗く白い歯も好きで、
寄せる波に溶けていきそうな白い砂浜に、
ざくりと足を埋めて見る澄みきった青い海が好きで、
夜、潮騒に耳を澄まし、見上げるティンガーラが好きで、
ときおり吹き荒れる台風が、
過去の悲しみや怒りを、人々の営みも、
まるごと飲み込んで、
後には、眠るように穏やかに横たわる島々が好きで、

つまり沖縄が好きで、
だから自然と手に取った2作品。

ひとつはけたたましい轟音の下で幼い娘とともに「今」の沖縄を生きるノンフィクション。
#海をあげる
#上間陽子

もうひとつは戦後のアメリカ統治下で基地から食料を奪う「戦果アギャー」たちの生き様と、当時の沖縄の人々の怒りや葛藤を描いた群像小説。

#宝島
#真藤順丈

少し前に岡本喜八の映画「沖縄決戦」を見ていて、そこで沖縄の歴史を知った気になっていた。でもこの2つの作品を読んで、歴史は点ではなく、線として今につながっているのだと思い至った。
軍用機の爆音が市民の頭から鳴り響き、青い海に土砂が投げ入れられる「今」や、児童を含む大勢の死傷者を出した米軍機の墜落事故、米兵によるまだ幼い子供への強姦殺人や、そんな事件が繰り返しあった、遠くない「過去」。
あの戦争から、いやもっと前から沖縄の悲鳴は続いていた。
そんなことも知らずに沖縄好きを自負して、夏を待っては離島に飛び、澄んだ海にプカプカと浮いていた。
まあまあのホテルに泊まり、焼けた肌をふかふかのベッドに沈めて「また来年も行こう」なんて言う。
私たちは「沖縄」を知らない。
こうして本を読んだり、積極的に学びにいこうとしなければ、想像もできない現実がそこにはある。
結局沖縄は、沖縄だけは日本であって日本でないのだと思い知らされる。
県民投票の結果、辺野古への基地建設のための埋め立てに七割以上の人が反対したにも関わらず、国はそれを受け入れず辺野古に土砂を投入した。
沖縄が声を上げても、他県は無関心。
一時的に報道を賑わせてもすぐに忘れさられ、結局当事者だけが赤く濁った海を見ることになる。
かつて戦争で沖縄を本土を守るための捨て石にしたように、今なお安全保障を盾に沖縄に基地を押し付けている。国は飴とムチを器用に使いこなして島民を飼い殺し、耳を傾けることはない。民主主義のこの国で民意が反映されない沖縄は日本であって日本ではないのだろう。
本土ではとっくに忘れられ、選挙があっても沖縄問題は俎上にすらあがらない。

この2作品は、あの戦争から今日に及ぶ沖縄の悲しみや憎しみを紡ぎ、私たちに教えてくれる。
戦争は終わっても、苦しみ続けている人がいるということ。
私たち自身が基地を押し付けている側だと言うこと。
基地問題に無関心でいることは、
誰かの叫びを無視してそっぽを向いているということは、ブルドーザーで土砂を撒き散らし、青い海を赤く染め、魚や珊瑚を殺し、ウミガメが産卵のために帰る場所を奪っている、この国の政府に加担しているということだ。
私たちはこの手で、命あふれるあの海を墓に変えようとしている。
リゾートホテルにスーツケースを放り投げ、真っ白な砂浜を歩き、貝を拾うその手で私たちは海を犯している。

今さら胸を痛め、連帯を示したところで何も変わらないだろう。
けれど私はきちんと受け取った。
彼らが抱えきれなくなったあの青い海を。
終わらない戦後に縛られて生きる沖縄に寄り添い、せめて心で繋がっていたい。 

#読書好きな人と繋がりたい
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#本
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