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暇を潰して潰されて(『暇と退屈の倫理学』レビュー)

人間は、退屈が嫌いだ。退屈から逃れるためなら進んでワーカホリックになったり、政治革命に命を投げ出して死んだり、不幸にすらなってしまう。そんな退屈から我々はどうやって逃れるのか?そのヒントがこの本には書かれている。この本の著者である國分功一郎氏は、哲学者でありフランス現代思想の研究者である。よってこの本『暇と退屈の倫理学』は哲学的なアプローチで退屈について論じている。

筆者は、退屈を埋めるのは自分の自由意志によるものであるべきであり、人の作り出した欲望を消費することで退屈を埋めるのは馬鹿げたことだと主張する。つまり、毎年のように行われるモデルチェンジに心を奪われ、まだ使える車・冷蔵庫・テレビなどを買い替えるのはくだらない。それは自分が本当に欲しいのではなく生産者に欲望を喚起させられているだけだ。そのような他人の作り出した物や事で自分の暇をつぶすのではなく、本当に好きなものお金や時間を使うべきと言う。そして本当に好きなものを見つけるためには時間・努力を必要とするというのが筆者の考えである。スキーだっていきなり滑れる人はいない。SEXだって一回目から楽しい人はいない(だろう)。つまり、自分だけの暇つぶしを作るには時間が必要だと筆者は言う。他人の作り出した物や事を消費せずに、自分だけの浪費を行うこと。そのために自分が本当に好きなことを見つけることを提唱する。

これはもっともな主張だ。確かに自分の自由意志による暇つぶしは消費社会に踊らされないためには重要だ。時間をかけて自分だけの暇つぶしを作れば他人が作った暇つぶしからは逃れられるかもしれない。だがそれで本当に自分の自由意志による暇つぶしが可能なのだろうか?

僕が疑問に思ったこと。それは、他の誰かと比べて自分の方が良い、そしてそれを自慢したいという欲望、いわゆる承認欲求からは逃れられないのではないか?ということだ。承認欲求によって暇つぶしをしているのであれば、他人に自分の暇つぶしを委ねていることになるのではないだろうか。昨今のSNSを見ていれば(僕自身もそうだが)ほとんどの人は他人の素晴らしい投稿を羨ましく思い、本当に自分が好きかどうかをよく考えずグルメ体験や観光体験、身に付ける服や所有物を真似しているのではないだろうか?そして自分がちょっとでも人が羨むようなことをするとSNSに上げたくなり承認欲求を満たしたくなる。果たしてこれが自分の自由意志による暇つぶしなのだろうか?時間をかけて自分だけの暇つぶしを見つけたとしても他人に見られることが前提になってしまう気がする。スキーをゆっくり時間をかけて上達したとしても、やはり他人である初心者より上手だから楽しいと感じるのではないだろうか?果たして他人に依存せずに自分だけの暇つぶしを楽しむこはできるのだろうか?僕自身の暇つぶしを考えてみる。趣味であるバイクやカメラは新しいパーツを買ったりするとやはり人に自慢したくなる。多くの人もそんな感じだと思う。だから暇つぶしに関して承認欲求なしに成立させるというのは、かなりしんどいのではないかと感じる。いつも自分の自由意志の暇つぶしが出来ているのか?と問われればかなり危うい。

では承認欲求を喚起しない暇つぶしというのはあるだろうか?と考えてみる。僕の場合、仕事の合間の暇つぶしは承認欲求を喚起しない。なぜならそれは「サボり」の要素が含まれるからだ。「サボり」は自慢するのが憚れるため承認欲求を喚起しない。 だから「今日はなんだか仕事の気が乗らない」「ちょっと仕事をサボろう」と思った時、暇だが完全に自分の自由意志な気がするのだ。 では、「サボり」と暇の関係を考えてみよう。まずサボるということは、自分から暇を作る作業だ。会社のお昼休みや週休2日制の土日の休みのような、社会または会社から与えられた休みと根本的な違いがある。そして自ら作り出した暇には、ちょっとした後ろめたさがある気がする。例えるなら大学浪人時代だ。僕自身が浪人生活をちょっと楽しんでいたということもあるのだろうが、浪人は後ろめたい。大学に行けないなら就職することもできる。それをせずに次の年の受験に備える。だから周りの人からは、何もしないで遊んでいると思われている気がしてくる。そうして後ろめたさが芽生えてくる。それは自分だけが得をしている感覚。人より幸運な気がする感覚。この後ろめたさが承認欲求を回避するのではないろうか?しかし、人より得して何が悪いと考える人もいるだろう。いやもしかしたら、そういう人の方が多数派なのかもしれない。つまり「サボり」 を自慢したいという人もいるかもしれない。または「サボリ」を隠して自慢する人もいるかもしれない。そういう人には、サボった時には後ろめたさを覚えてもらうような倫理観のインストールも必要だろう。

では、サボりに関して後ろめたさを覚えない人はどのような人だろうか?それは、自分だけが得をしても後ろめたさを感じない人という事ができるのではないだろうか?また、自分は努力したのだから他の人よりも得をするのは当然だと考える人たちとも考えられる。

そのような人たちに2つの視点から反論したい。まずは統計的に見てみたい。こちらの図は2015年「社会階層と社会移動に関する全国調査」(SSM)からのデータを図にしたものだ※1。

松岡亮二. 教育格差 ──階層・地域・学歴 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.187-188). Kindle 版.より


こちらを見れば一目瞭然だが、親の進学率とその子供の進学率には明確な相関関係が見て取れる。つまり、自分の頑張りだけでない要素は確実に存在するということだ。

また次に哲学的視点ではから反論したい。國分功一郎氏の前著『中動態の世界 意志と責任の考古学』を参照する。こちらの本で著者は、

われわれはどれだけ能動的に見えようとも、完全な能動はありえない。なぜなら、個物はたえず他の個物から刺激や影響を受けながら存在している

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) より

と言っている※2、この主張の根拠になるのは、能動態・受動態しか無くなった現代より以前の世界には、中動態があった。それは完全な能動や完全な受動がないという証明であるということだ。だから、全ての利益を自分だけの力で得ている人は一人としていない。この当たり前の前提にたてば、「サボり」に対して後ろめたさを持たなければいけないのではないだろうか?だから、他人からの承認欲求を回避しながら自由な暇つぶしを楽しむための第一歩。それは「サボる」ことなのではないだろうか?日常的にサボることで、人から与えられたものでない、人の目を気にせず、承認欲求の外に自分だけの欲望を見つける事ができるのではないだろうか?僕は時々サボるのでだが、やはりサボっているときは、本当に自分だけの世界に没頭していることが少なくない。サボっている時に出来ないこと、例えばオートバイでのツーリングなどは流石に時間的に不可能だが、それでも次のツーリングのことを考えてネットで検索することはできる。サボることで今自分が一番やりたいことが見えてくることもあるように感じる。サボってみても何も変わらない人がいるかもしれないが、もっともっとサボってみた時に何か発見する人もいるのではないだろうか。

<参考>
※1
松岡亮二. 教育格差 ──階層・地域・学歴 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.187-188). Kindle 版.

※2
國分功一郎「中動態の世界」


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