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抽象と具象のなかで。 建築はどちらの世界か。

広島市現代美術館で開催中の「インポッシブル・アーキテクチャー」の展覧会の最終日に駆け込んだ。
20世紀以降の国外、国内のアンビルトの建築に焦点を当てた展覧会だ。
https://www.hiroshima-moca.jp/impossible_arch/

私は、20年くらい前、抽象の世界に魅せられて、建築の世界へ迷い込んだ。しかし、学生時代に触れた、純度が高い抽象の世界から一変、実務の世界は、とんでもなく具象の世界であり、かつ人間味が溢れる世界だった。だからこそ、抽象の世界の建築は、永遠の憧れであり、いかに具象と抽象の両者を行き来できる建築を作れるかを、考え続けている。

話は逸れたが、インポッシブル・アーキテクチュアは、現実には建たなかった建築である。建たなかったことにより、現実に出来上がった建築よりも、抽象度が高い状態に留まっている。なぜなら、建ってしまえば、完成写真の中に映り込む、仕上素材や色合い、設備仕様、そこに居る人々の姿や、背景にある風景に、時代性を読み取ってしまうから。

さて、展示の中で特に印象に残った「インポッシブル・アーキテクチャー」は、黒川紀章《東京計画1961―Helix計画》。東京の爆発的な人口増加に対応するための、海上都市プラン。この建築を、現代の東京の湾岸地帯に立ち上がらせたCG映像は、とにかく圧巻であった。山手線沿いの新橋のリクルートビル、電通ビルの間に、螺旋形状の数十本の立体都市が不意に現れるインパクトに興奮してしまう。今見ても色褪せない、体験したことのない景色、未来を感じる都市が写る映像だった。まあ、1つ欲を言えば、東京の湾岸地区に、ゆりかもめもフジテレビも建っていなかった1960年代に、海上都市が凛として立ち現れる東京の映像も、見てみたかったかな。

展覧会を見終わったあとに、2020年を前にした現在において、これほど建築という事業が国家の一大事業であり、国民の生活を変えるものとして、期待されていた1960年代が、純粋に羨ましいという感覚であった。建築が都市を変え、時代を変える期待の先頭を走っていた時代は、もう日本には来ないだろう。2000年代のiphoneやSNSの普及、2020年代の5GやAIが、当時の建築の役割を担っている。

2020年に開かれる、東京オリンピックという世界的な祝祭の場は、日本の建築が、世界中のトップニュースの映像に写る、最後のチャンスであったかもしれない。だからこそ、国立新競技場は、ザハ・ハティドの計画が実現してほしかった。あの建築には、日本が未だ変わっていけることを表すような力があり、たとえ現実に建ったとしても、目の前にある「具象」でありながら、国の未来への意思が形になったような「抽象」を持ち合わせた、アーキテクチャーの姿をしていたのではないかと思えるのだ。






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