餌は
ベッドの中で微睡んでいると日曜の早朝にはまるでふさわしくない奇妙な音が不意にどこからか聞こえてきて、井間賀は思わず妻と顔を見合わせた。
「今の聞いた?」
「うん」
再び音がした。どこか水っぽさを含んだ高い音は、耳を澄ましてよく聞けばムギュムギュと生き物が鳴いている音のように思えた。
「猫かな?」
「かもね」
そのままやりすごせば静かになるだろうと思っていたのだが、鳴き声は収まるどころか、ますます大きくなっていく。
ムギュ、ムギュ、ムギュ。
しばらくごそごそと布団の中で体を揺らしていた妻が、やがて意を決したようにベッドから起き出した。撥ね除けた布団がずるりと床に落ちる。妻はベッドの縁にしばらく座ってから、ゆっくりと立ち上がり、フラフラと怪しげな足取りで寝室を出て行った。
ガチャ。
玄関の扉が開く音がした。
「ああっ、何よこれ」
妻が大声を出す。
「どうした?」
井間賀も慌ててベッドから起き出した。パジャマの上から薄いカーディガンを羽織って玄関へ向かうと、小さなダンボール箱を抱えた妻が困惑した顔でこちらを見ていた。
「何だそれ?」
「捨て茶よ」
「捨て茶?」
「だから、誰かがうちの前に麦茶を捨てたの」
妻は口をへの字に曲げた。眉がキュッと近づいて眉間に皺が寄る。
「麦茶ってパックの?」
井間賀は呆れたように首を振った。うちではまだ冷蔵庫に冷やしてあるが、そろそろ麦茶の季節は終わりだ。要らなくなった誰かが余った麦茶を処分したのだろう。それにしても来年まで取っておけばいいのに、どうして捨てるのだろうか。
「それが液体なの」
「ええー、マジかよ」
井間賀がダンボールの中をひょいと覗き込むと鳴き声がピタリと止まった。箱の中には焦げ茶色の液体が六つほどの塊に分かれてじっとしている。それまでグルグルと回っていたらしくまだ渦が残っていた。
「うわ、本当だ」
しばらく動きをひそめていた麦茶はやがて危険は無いとわかったらしく、再びグルグル回りながら鳴き声を上げ始めた。
ムギュ、ムギュ。
「これ、どうするんだ?」
「そんなの私にもわかんないわよ。どこのお茶かわからないものを飲むわけにもいかないし、だからといって捨てることもできないでしょ」
「まいったな」
井間賀は腕を組んだ。なぜダンボールから麦茶が漏れないのかも気になるが、とにかく今はそんなことを考えている場合じゃない。
「最近、このあたりで増えてるらしいのよね」
「捨て茶が?」
「そう」
「ひどいなあ」
妻はダンボールをそっと床に置いた。やれやれといった顔つきで肩をすくめる。
ムギューッ、ムギューッ。麦茶は相変わらず鳴き止まない。
井間賀はしゃがみ込んでダンボール箱の中へ手を伸ばした。
麦茶たちが指に絡みついてくる。甘えているらしい。中には手首の辺りまで登ってこようとする麦茶もいる。しだいに鳴き声が収まり始めた。じゃれている麦茶はかわいかった。
「これ、飼おうか?」
しゃがんだまま顔を妻に向ける。
「何言ってんのよ。麦茶の餌が何だか知ってるの?」
「いや、知らないな。何なんだ?」
「いいから、この箱を持って古庄さんのところへ行ってよ」
妻は井間賀の質問には答えず、箱を指差した。
「古庄さんって?」
「町内会長さん」
「ああ、敏夫さんか。わかったよ」
井間賀は手に絡まっている麦茶をそっと拭い落とすようにしながら立ち上がった。
「この間も、近所の捨て茶をどうやって回収したかって話をしてたから。お願いね」
妻はそう言って再び寝室へ戻っていった。どうやら二度寝をするらしい。
「なんだよ。オレだけで行くのか」
井間賀は妻に向かって愚痴ったが予想どおり返事はなかった。しかたなくパジャマをスウェットに着替えるとダンボール箱を持ち上げる。
ムギュ。
動きを察知したのか、再び麦茶たちが鳴き声を上げ始めた。
これだけの量の液体が入っているわりにダンボール箱はずいぶんと軽かった。見た目ではわからないが、きっとかなり痩せているのだろう。早く何とかしてやらないと。井間賀はしっかり箱を抱え直すと、中身をこぼさないように気をつけながらゆっくりと歩き出した。
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