カントの言及する形而上学とはどの形而上学?大橋容一郎訳によるカント


カントの道徳形而上学の新訳が大橋容一郎先生の訳で出ていたので買ってみた。カント生誕300年だそうだ。

翻訳が最近の研究を反映させているという期待。代名詞が何を意味するか、特に気になる。また、超越の意味、また悟性についても読み取りたい。

解説にカントが執筆する先行研究として形而上学について列記してあり、助かる。
 私も理系エンジニアの端くれで以前は論文やら特許を書いていたのでカントの当時何が新しかったのか?何が課題だったのか?というふうに考えると自分にはわかりやすいのでそうしたいがなかなか材料が集まらなかった。大橋先生の解説ではそういうことが書いてあるのでありがたい。形而上学は当時はライプニッツ・ヴォルフ学派ということで、そこで宇宙論、魂論、神学が取り扱われていたらしい。私は誤解してアリストテレスを見にいったが、この観点では違っていた。でもアリストテレスを読むことは別の広がりが出た。それはまた後日。
 この翻訳の特徴を述べるにはまだ読み込んでないのでそれも後日。今言えるのは今の日本語に沿った読みやすい訳語になっているのは確かである。すっとページをくっていってもなんとなく意味が頭に入ってくる。
 ところで興味があるのは第3章。「自由の概念は意志の自律を解明する鍵である」。もともとフーコーの講義録のカントの「啓蒙とは何か」についての講義を読んだのでカントに取り組み始めたのである。フーコーばかり取り上げてしまうのは私の推しだからしょうがない。
 さて、カントのこの本では自由と言っても意志の自由ということに絞っている。実践理性批判はまだ手に取ったばかりなので確認できていないが、他者との関係論、権力論でのカントはどのように書いているのか知りたくなってきた。それはフーコーのパレーシア概念の系譜とどう組む合わされるのか考えてみたいのである。その総括としてカントの「啓蒙とは何か」なのであろうけど。
 カントは道徳概念で他律による道徳を自律に変えた、ということのようである。それは節制や「自己への配慮」といったソクラテスによるギリシア由来の概念とどう組み合わされるのか、考えてみたい。

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