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私はこうして社会人になりました その4 移住と病と…

おはようございます。こんにちは!

この場において久しぶりの投稿となります。
お付き合いできる方、
どうぞよろしくお願いいたします。

前回からの続きとなります。

何もせず、通院と引きこもる生活。
友人と思っていた者からも裏切られる始末。

週1の通院生活。
茨城県立友部病院の「S先生」は
「何でも言っていいよ」
遭ったこととは覚えている限りのことを
正直に話し…
私の生い立ちから会社内でイジメに遭ったこと
全て話し、カルテに懸命にワープロ使わず
自筆で書いていました。

そこで初めて最初に勤めた会社の
傷病手当金と社会保険継続療養証明書申請の
話までしていただき、
嫌々ながらも内容証明郵便で同封し、
相手も辞めた人間とは関わりたくない、
弁護士を立てられるのを恐れたのか…

郵便局で差出後、一週間も経たないうちに書留速達で
手紙の同封も無く、申請書に責任者押印し、
送付した書面だけを送り返して来た。

それだけ酷い企業だとおわかりいただけただろうか・・・
「お元気ですか?」
このひとことすらない会社なんだよ…

話は変わりますが、
ある日の診察後、見てしまったものがある。

それは病院のグラウンドで同じ境遇の仲間が
キャッチボールしている。

自分も参加できたらいいなぁ…

そう思った自分。

先生に話したら
「あの人たちは寛解傾向にある患者さんたち。
 傍で見ている分にはいいが今のあなたの参加は危険」

その願いは叶わず…

やがて医師とのお別れの…
短い間だったがお別れの日が来て…

60日分のお薬を処方して戴き、
宛先無しの紹介状携え…
未知の旅の始まり。

1992年で60歳定年だったはずの我が父が
相談役として再雇用を受け、1997年に
更新されるはずだったが、
9月に入り、自らの能力の限界を打ち明け、
1995年10月末に退職を迎えた。

当時、社長から認められていた父は、
古い旧邸宅を無償で借り受け、
我々はそこで住んでいました。

辞めた以上は早々に退去しなければなりません。

転ばぬ先の杖と言っては語弊があるが、
和歌山の地に相続された農地を地目変更し、
現在の自宅を建設済だった。

何故、この地に辿り着いたかと言えば、
母がこの地の出身であること、

二つ目は、夏休みとなれば毎年ブルートレインに乗って
この地に来ることが、ルールはないが自然とそうなっていた。

1970年代から80年代にかけて、当時東京から直通で新宮・紀伊勝浦を結んでいた寝台特急「紀伊号」

行き場を失った我が家は、
一家でこの地に移住をすることになり、
現在に至る。

理由あってこのことは今も
鎌倉市にいる父の叔父しか知らない。

移住日は1995年12月24日。

選りにもよって世間はクリスマスモード。

千葉、茨城の地には二度と戻れない
澄んだ利根川を見たあの日…

東京駅から見える光輝くイルミネーションを見た最後…

それが現実になりました。

当の私と言えば…電車移動が辛かった…

その頃には寝台特急は廃止され、
新幹線と在来線の乗り継ぎの繰り返し…

特に新幹線。
窓から見え、流れ去る景色は覚えていない。

と言うよりか、見ていない…

見れば眩暈を引き起こすから。
寝てばかりいた記憶が残ります。

父の遺品から 新大阪駅

新大阪に着いてやれやれ・・・

と言うのも前回にも述べたとおり、
当時は乗り物は恐怖の賜物。

健常者には想像つかない話。
病に侵された者しか知ることの出来ない世界です。

一週間後、元旦を迎えるが、記憶にない…

正月明け、唯一覚えているのはタバコ屋さん…

今でこそ関西弁で会話すが、当時は標準語。

お墓参りするのにライターを忘れ、
偶然にもそのタバコ屋さんを見たので
購入をすべく立ち寄って、

「ライター1本下さい!」

私がそう言うと、
「あんたよそもんやな!標準語は嫌いや!
 二度とこんといて(来ないでの意味)」

1996年2月だったと思う。
当時ネットが発展途上状態だった為、
電話番号簿を頼りにどこか病院はないか?
探し始め、南部の「串本町」に心療内科があると知り、
受診を開始するのだが…


…その病院で医師の言葉から冷酷非情な目に遭うこととなる…


本日はここまでにさせて下さい…


最後までお読みいただき心よりお礼申し上げます。
皆様にとって佳き一日であることを祈ります…





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