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「好き!好き!! 〇〇」

この記事に「好き!好き!清少納言」と書いた。

「書く」という居場所を得るまで、私はものの好き嫌いを人さまに表明することは少なかった。
それは、みんなと違うという意識が強いままで生きてきたからだと思う。
みんなと違っているのも嫌だけど、かといって一緒も嫌だ。
なんというへそまがり。
違うということは、私にとってコンプレックスであると同時にプライドでもあるのだった。

恋人にも結婚相手にも「好き」とか「愛してる」とかあまり言わなかったし求めなかった。
そういう直截的な言いようがなんとなくしっくりこなくて、「私らしくない」という感覚があった。
国語辞典で、同義語や類義語を調べるのが好きだったからかもしれない。
好きという言葉ではなく「好き」を伝えたいと思っていた。
「愛」ではなく思慕、「愛してる」ではなく「愛おしい」。
「恋人」ではなく「想い人」。

小学生くらいのころだったか、子供向けのテレビドラマで「好き!好き!!魔女先生」というのがあって、クラスの誰かが話題に挙げていた。
私は母と夜10時くらいのドラマを見ながら「この男は絶対浮気している!」とか「このカップルは絶対に別れる!」とか考察するのが好きだった。
タイトルも、その後流行った2時間ドラマみたいな長いタイトルで展開が読めてしまうのは嫌で、たとえば「冬の旅」とか「沿線地図」とか、短くてちょっと思わせぶりなのが好み。

そんな私にとって「好き!好き!!魔女先生」というタイトルのインパクトは大きかった。
なんと直截な。
「好き」も「魔女」も「先生」も子供を引き付ける要素として申し分ないじゃないか。
それで好みと真逆であるのに、見てみようと思った。
これでみんなと共通の話題を得られるかもしれない。

たぶん、1回しか見なかった。
5分か10分で、私には無理だと思った。
でも、新聞のラテ欄でそのタイトルを見るたびに「おおっ」となってしまうのだ。

けれど再び視聴することはなく、気づいたら終わっていた。
その数年後くらいのニュースで、主役の人が事件の被害者になったという。
「サツガイ」という音は、カタカナで私の耳をかすめた。

殺人事件は、私にとって松本清張や鮎川哲也の世界にあった。
魔女先生は、ドラマも1回しか見ていないし、さらに遠い世界の人のはずなのに、お腹のあたりがぞわぞわした。
そうだ。
こんなふうに、理不尽に殺されてしまうことだってあるんだ。
酔ってけんかして血だらけで帰ってきた父を何度も見たことがある。
そうだ。
ああやって、人は殺されてしまうんだ。
なんだか、うんと親しかった人に死なれた気分になった。

加害者が元恋人というのを知ったのは、結構あとのことである。
ストーカーという言葉はあったのか、まだなかったのか。

そのことがあったので、私はろくに見ていないドラマのタイトルをいまも覚えている。
みんなが面白いというものを面白がれないひけめと、嫉妬と、憧れと。

いつか、私もためらいなく言いたかったのだ。
「好き!好き!〇〇」って。

ブログを書き始めてから、私はすこしずつ、自分の好き嫌いを表明できるようになった。
みんなと違ったっていい。
でも、誰か一人でも「私も!」と言ってくれたら嬉しい。
そのためには、先に言わなきゃダメなんだ。
黙っていたらわからないままなんだ。

下重暁子さんが「いま紫式部が話題だけど、私は清少納言のほうが断然好き」と言っておられると知って小躍りした。
いまこそ私も言うのだ。
「好き!好き!清少納言」

でも、本当は。
好きなものより嫌いなものが一致したほうが嬉しい。


読んでいただきありがとうございますm(__)m