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卵の代金

座っている私の前に、男が立った。
会社帰りの電車は、そこそこ混んでいて、男は、後ろから乗ってきた他の乗客たちに押し出されるような格好で、私の前にやってきたのだ。

それはもう、20年も前のこと。
まだ夫がいて、家事と仕事と持病の治療にあたふたしていた頃だ。

男は、私と同じくらいの年代で、スーツ姿だった。
私は、そのターミナル駅にある大型スーパーで夕食の買い物をして、自宅の最寄り駅に向かう電車に乗っていた。

運良く、空席を見つけられたのは、たぶん各駅停車だからだろう。
男が、網棚にセカンドバッグを乗せたのを、そのときの私は見ていない。

突然。

突然、電車が揺れた。
大したこともない揺れだったが、乗せ方が不安定だったのか、男のバッグが私の手元に落ちてきた。
それは、私の抱えていたスーパーの袋に当たった。

そこに、卵が入っていた。
10個入りのプラスチックのパック。

スーパーの半透明の袋越しに、黄色いシミが広がるのが見えた。
私は、慌てて、中を覗き込んだ。
バッグの角が当たったのか、プラスチックケースが破れて、そこから割れた卵の中身が流れ出していた。
卵の他に、肉やら魚やらのパック、むきだしの葉物の野菜、それからチョコレートの箱とか袋に入ったロールパンとかが入っていた。

男は、落ちたバッグを拾って、私に「すみません。」と言った。
なんだか、通りすがりに肩が触れたような雰囲気の言い方だった。

バッグの落下は、もちろん故意ではない。
しかも、私の身体に当たって、どこかが痛くなったとか、そういうことでもない。
私の荷物に当たって、ちょっと驚かせてしまっただけ、みたいな感じに、男はとらえたのだろう。
だけど。

私の袋の中は、流れた卵で、どんどんドロドロ、ベタベタになっていく。
急いでいた。
早く夕食の支度をしないと、夫が帰ってくる。
帰りの電車の中では、いつも、帰ってからの自分の動きの段取りを考える。
まず、手を洗って、お湯を火にかけて、炊飯器のタイマーを確認して、それから着替えてとか。
その前に、アサリの砂を吐かせなくちゃとか。

それなのに。

帰ったらまず、ドロドロの卵にまみれた商品たちを拭くことからしなければならないと思うと、泣きたいような気になった。

すこしだけ、恨みがましい目で、男を見上げた。
ほら、見て。
卵、割れちゃったのよ。

男は、あ、と声に出さずに言った。
そして、「すみません。」ともう一度、言葉にした。
さっきより、すこし、真剣な感じで。

そして、
「弁償します。いくらですか?」
と続けた。

いくら?
いくらなんだろう?
卵は、全部割れたわけじゃない。

当時はまだ卵は物価の優等生で、その半分としたら、100円にも満たない。
ヨード卵光、とかじゃないから。

だけど。
私は、帰ってから、これらのひとつひとつの商品を拭いてからでないと、家庭の仕事にかかれない。

そんなの後でいいじゃん、とりあえず、急ぐものだけ拭いて使えば、と思う人もいるかもしれないけど、そのときの私の心は、それでは納得できなかった。
即座に、何より先に、すべてのドロドロを拭きとらなければ、何も始まらないような気がした。
なんのアクシデントもなかったようにしてから、いつもの家事を始めたかった。
ただでさえ、時間がないのに。

その時間を、20分としたらどうだろう。
私の当時の時給を3で割ると、500円くらいになる。
なら、その500円と卵の代金100円で、600円を弁償の金額とすればよいのか。
600円になります、と言ってみるか?

不意に、笑いがこみあげてきた。
いや、笑うしかないのだった。

仮に、600円くださいと言ったら、目の前の男は、どんな顔をするだろうか。
それを聞いた周囲の乗客たちは、どんな気持ちになり、誰の顔を覗きこむだろうか。

私は、笑みではない笑いを浮かべて、結構です、と言った。
600円もらっても、私のショックは癒えない。
モヤモヤは晴れない。

じゃあ、慰謝料ということで、1万円と言ってみたら?
男は、払うだろうか。

まさか。

万一、1万円手に入れたら、私は嬉しいだろうか。
卵の元手100円で1万円儲けたと喜ぶだろうか。

違うような気がした。
そういう問題じゃない。

今の世の中、大概のものは、おカネで手に入ると思っている。
カネで買えない幸せがある、なんて説教くれる人は、大方、カネで買える幸せを手に入れられる人だ。
私も、おカネで買えない幸せはあると思うけれども、とりあえず、おカネで買える幸せが先に欲しい。
幸せを買えるおカネが欲しい。

でも。

でも。。

おカネで賄いきれないものがある。

それはたとえば、事故や犯罪の被害者や遺族が、いくら賠償金を積まれても、元の身体には戻らないとか、死んだ家族は返って来ないとかいうような、重大なことだけでなく、たかだか卵からだって、感じることはできるのだ。

そして、こういう賄えない傷を与え合って、人は、他人と共存しているのだと思った。

あれから、私は、ときどきこのできごとを思い出す。
罪や禁を犯したときだけではなくて、誰かを傷つけたり、傷つくかもしれないと思うとき、ふいっと記憶の底からやってくる。

人が何かを「贖う」ってどういうことだろう?

これと似たようなことが、気づかないうちに、日々起こっているのだろうな。
人が生きていく限りは。

スカイツリーがまだなかった頃

「 底が見えないから
  石ころを
  ひとつ
  投げ込んでみる
  こころのなか 」
 


読んでいただきありがとうございますm(__)m